花ひらく30歳1973年12月 日劇ミュージックホール
登紀子30歳。「知床旅情」で1971年度レコード大賞歌唱賞を受賞した加藤登紀子。1972年に獄中の藤本敏夫と結婚、同年に長女出産後、初めての子育てをしながら、夫不在の中、歌手活動を再開した年。
遥か故郷への想い1981年7月 名古屋中日劇場
登紀子37歳。中国・ハルビン公演直前、3人の娘を出産後、子育てを続けながら、歌手活動を続けていた登紀子が、自身の生誕の地、中国で初めてのコンサートを実施。その直前、名古屋の中日劇場にて行ったコンサート。
アメリカ公演の余熱の中で1988年12月 新宿シアターアプル
登紀子44歳。日本女性歌手初となるカーネギーホールコンサートを成功させた年。坂本龍一とのコラボレーションで制作した、ドイツのブレヒトソングに挑戦したアルバム「愛はすべてを赦す」やソニー移籍第一弾となる全曲書き下ろし曲のアルバム「TOKIKO」を中心としたプログラム。「百万本のバラ」大ヒットの年。
彷徨うアジアの熱い風1993年12月 新宿シアターアプル・1994年12月 大阪サンケイホール
登紀子50歳を迎える年。1992年父・加藤幸四郎が他界。数ヶ月の休養の後、新しい事務所「トキコ・プランニング」を立ち上げ、THE BOOMの宮沢和史と出逢い「島唄」をカバー。告井延隆プロデュースによってアジアをテーマにアルバム「モンスーン」を制作。新しい可能性を切り開いた年。宮崎駿から贈られた手書きイラストをポスターデザインした。
恋と革命と明日1995・96年・97年12月 新宿シアターアプル
登紀子52歳。歌手活動30周年、日本のコンサートツアーに加え、オーストリア、チェコ、ブルガリアでコンサートを実施。また国内コンサートツアー中にハイジャックに遭遇。96年には全曲書き下ろしのオリジナル曲でアルバム「晴れ上がる空のように」を制作。
Disc3~Disc5原盤:ソニー・ミュージックダイレクト