「鈴木祥子的音楽覚書」
1.マイライフ・アズ・ア・ストレンジャー。
14の時、1979年ですか、アメリカ(テキサス州・ヒューストン)にほんのちょっとの間居たことは、最近になってある種特異な体験だった、と思うようになりました。
やっぱ思春期ど真ん中に半年とは言え、異文化の中に放り出されたことは自分で思うより大きな出来事だったみたいです。
それがどういうことだったのか、最近になって考えるようになりました。良かったことは孤独に耐性が出来たこと。悪かったことは孤独に耐性があり過ぎること。なーんだ、結局プラマイ0じゃん、って(笑)。
なんか他人事なんですよネ、自分のことって言っても、真剣には考えるし不安も覚えるけど、根底のところでなにかのお話、物語みたいに感じる時がある。よく地に足が着いてないよね、とか天然だよネとか、若い時分は不思議ちゃんとか(笑)。。。って言われることがあったのですが、多分そのせいかもしれないと思います。
その物語感を歌にすると言うか、曲にすることでもう一度体験すると言うのか。。。そういうことに向いた精神構造ってのがあるとしたら、自分それだナ、と思う。
ただ、ヒューストンに居るあいだ音楽が本当に格好良く聴こえてですね、なにこの音、めちゃめちゃ格好良いんだけど!ってしょっちゅう鳥肌立ってました、ラジオから流れてくる曲とか。
その時流れてくる音楽と一体になっちゃうんです、客観的に「音楽聴いてる」と言うよりは。今聴こえてるこの音=あたし!!みたいなカンチガイ・妄想・思い込みって言うのか、あれは強烈でした。何なんでしょうかね、風土?文化?わからないです。
今でもそう、音と自分を切り離せない、と言うより切り離して考えてない、ってとこがあります。
ってことはその経験が人生の大部分を決めちゃったって言っていいのかも。だってやり始めて28年、もうすぐ30年経っちゃいますから。。。そんな、半年くらいのことで人生決まっちゃうって。。。面白いって云うかいい加減ですねェ。
2.恋+音楽=非常識または致命的。
しきりに心のなかにモーツァルト『ピアノ・ソナタ第10番k.330』第二楽章のアダージョが聴こえてきて困る。それも『グルダ:モーツァルト・アーカイブ/10曲のソナタと幻想曲』に入ってるフリードリヒ・グルダの第10番だ。
モーツァルトの音楽、特に緩徐楽章はつとめてあまり聴かないようにしている。何故って聴いたら泣いてしまうから。第二楽章も終わりに近づく頃には涙をこぼす、なんてキレイなものじゃなく鼻をすすり上げて大泣きになってしまう。
地球上の誰もが感じていることだろうけれど、モーツァルトの音楽には単に美しいとか哀しいとか、そういう言葉を超えた何ものかがある。すべての人が生まれる前に持たされてしまったもの、やがてたどり着く永遠の場所。幽玄、というにはあまりに色鮮やかで、約束、と呼ぶにはあまりに底の知れないもの。。。
そのくせ天使が金色の粉をそこいらじゅう撒き散らして遊んでるみたいなんだからもう、どうすることも出来ない。
そんなものを創り出しておきながら涼しい顔で微笑っているアマデさん(映画にもなったミドル・ネーム「アマデウス」から私が勝手につけた愛称デス)をしんそこ、恐ろしいひとだと思う。なのに愛おしくて抱きしめたいような気持ちにさせるところがまた、ニクいではありませんか。
小林秀雄先生だってモーツァルトがスキで好き過ぎて、ど~にも辛抱たまらずに『モオツァルト・無常という事』を書いたことが、読んでいると伝わってくる。評論だから一見冷静を装ってはいるが、既に現し身でないモーツァルトに肉薄し今にも同化してしまいそう。触れたい、知りたい、解りたい。恋のような熱情が燃え上がり沸き立っている。きっとそのくらいでなきゃ人を「書く」って行為は成り立たないんだナ。
そう思うと「恋」ってのは凄い、年齢とか性別を超えるのは勿論、時代なんか隔てても全くの無問題、現し世に居ても/居なくても全然オッケー・大OK。こんな非常識で致命的なものって。。。他にあるだろうか?
3.日曜日にはキャンディーを
チャンス・ザ・ラッパーの曲を聴いているとあぁ、アメリカの音楽がぜんぶ一本の線でつながっている、と感じて嬉しくなってしまう。ゴスペル/ジャズ/リズム&ブルース/ロックンロール/ソウル/ヒップホップ。。。先人が切り開いてきたものへのリスペクトが、受け取ってきたもの、そして受け継がれてゆくものが、ひとっ言も口にしなくてもゼーンブ音楽に出ている。それが本当に素敵。
アメリカは腐ってもロックンロールを産んだ国だ、本当に。その伝統が死なない限り、どこかで確実に生まれてゆくものがある。
正直少し前まで「自分が憧れたアメリカの音楽って何だったの?」とちょっと虚しいような気分におちいっていた。大統領戦の直後。'79年にテキサスはヒューストンのラジオでがんがんかかっていた音楽を思いだし、あの憧れやワクワク感を呼び戻そうとした。
ロネッツのロニー・スペクターが変わらぬ脚線美とバシバシのマスカラでノリノリで歌う2015年の「ビー・マイ・ベイビー」を観てしまい暗~い気持ちになった。
「ビー・マイ・ベイビー」もついに永遠のロックンロール・クラシックであることをやめて♪懐かしオールディーズ♪に成り下がったのか?成り下げたのは一体誰だ。この曲を産み出した張本人のフィル・スペクターは殺人罪で終身禁固、曲を書いたエリー・グリニッチは既に鬼籍に入っている。。。
すべてが過去になってしまったのか?サントワマミー、悲しくて目の前が暗くなった。
しかしチャンス・ザ・ラッパーを聴いて俄然勇気が出た。ロックンロールイズヒアトゥステイ、ロックンロールキャンネバーダイ。
ロックンロールがあるところにポップがある、発展してゆく余地が、可能性がある。
好きな曲は「SUNDAY CANDY」。リアルってことは何と切ないのか、と思った。声や言葉は「リズム」そのもの、そしてリズムは「生命」そのもの。だから人は声に出して歌わないでいられないんだナ、と実感する一曲、なのデス。
4.アナログ←→DSD。
とにかくアナログアナログ!。。だったスズキが昨今のアナログ・ブームの中、別の意味で時代に逆行して配信のお知らせをするなんて嘘みたいです。
DSD配信はハイレゾ配信と同じ意味なのですが、ハイレゾの中で最も音質がよいと言われる方式です。
その理由は。。。ご存知のように音には周波数があって、人間の耳に聴こえるとされる周波数は20kHzまで。CDが出た頃は耳に聴こえる最大限の周波数を取り込んだ=レコードより音が良い、しかも永久に劣化しない!と言われていました。
しかしCDが出てしばらく経つと、なんかヘンだぞ?という意見も聞かれるようになりました。私も経験があるのですが、音が良いとされているCDなのになんか違う。。。何かが物足りない。。。
それはあながち錯覚や思い込みではありませんでした。デジタル・マスタリングの技術が発達し、本当にアナログと比べて遜色がなくなってきたのはCD黎明期からしばらく経った'90年代後半に入ってからのことだったと思います。
CDの音は20kHzを上限として、それ以上の周波数はカットされてしまうのですね。そこがまさに「音が良い筈なのに物足りない!」と当時多くのリスナー(含・自分)が感じたポイントなのでした。人間の耳は。。。機械に勝った!ナーンテ。それ以上の周波数を耳はちゃんと「感じ取って」いたのです。
人間の機能って何て精密で繊細なんでしょうか。昨今のアナログ・ブームもデジタル的な0と1の世界、聴こえる/聴こえないという2分割の価値観に異議を唱えるひとが多くなったってことなのかもしれません。やっぱり皆んな(含・自分)リアルな音が欲しいんだと思うのです。
リアルって何だ。そりゃ勿論世の中や他人に押し付けられたものじゃない、自分の身体とココロで感じる切実さのことーーであるとすると、そうしょっ中ホイホイと出逢えるワケが無く、五感を使って探さないといけない。
掴めるかもしれないし掴めないかもしれない、それでも自分で探してみたい。そういう正直者が増えてるんじゃないでしょうか。
話はそれましたが、DSD方式はアナログ信号をすべて取り込むために音域の取りこぼしがなく、アナログに最も近いと言われています。
その当代最新の技術で、アナログの24チャンネル・レコーダーで、テープを使って録音した音をお届けする。。。逆行なのか今ふうなのかわからない状態ですが、私はそこに過去と未来をつなぐ可能性。。。みたいなものを感じて勝手にワクワクしております。そのワクワクがあなたにも伝わると良いなァ。。。と、心から希う昨今なのでアリマス(←おおげさ!)。