―― 1985年3月21日にシングル「春色のエアメール」でデビューしましたが、当時のキャッチフレーズは……。
松本 「届くかな、笑顔」です(笑)。自分の知らないところで芸名が決まり、キャッチフレーズが決まり、髪型も決まり、という感じでした。だから「私はこれは嫌です」という事もひと言も発言できないまま…。でもそういうものなんだ、言われたこと与えられたことを、一生懸命頑張ってやらなきゃっていう気持ちだけでしたね、あの時は。
―― かわいらしい洋服を着て歌うという夢を叶える事ができました。
松本 はい。でも随分スカートが短いなと思って言ったら、もっと短くされて(笑)。
―― デビュー曲は「春色のエアメール」の他に候補はあったんですか?
松本 CBS・ソニー(当時)で、松田聖子さんのディレクターだった若松宗男さんが私も担当してくださったのですが、「春色のエアメール」と、1stアルバム『ストロー・ハット』に入っている「なるほどネ!」という曲の「どっちかになるよ」って言われて、その2曲を歌ってみました。
―― 松本さん的には正直どちらの曲が良かったですか?
松本 全然タイプが違って、「春色~」は正統派で、「なるほどネ!」は元気な感じだったので、自分にはどちらか合っているのかなあと思いましたが、両方ともいい曲で、自分のために作ってもらったというのがあるので、選べない感じでした。
『GOLDEN☆BEST / 松本典子オールシングルコレクション』ブックレット未掲載カット
(写真/島田香)
―― EPOさん作曲の「春色のエアメール」は、アイドルのデビュー曲というキラキラ感もありつつ、当時の音楽シーンの空気が凝縮されてる感じがします。最初、歌ってみてどうでしたか?
松本 難しかったです。
―― 松本さんの曲はこの曲に限らず難しい曲が多いですよね。
松本 デビュー曲もそうでしたが、もう何度レコーディングで泣いたことか……。言われたことができない悔しさで、レコーディングの途中で泣きながら外に散歩に行ったりしていました。
―― 言われた事に腹が立ったのではなく、それができない自分に腹が立って。
松本 言われていることはわかるけど、なんでそれができないんだ?私、って思って。誰かに弱音を吐きたくなる事もありましたが、親にも話せませんでした。親には高校だけは卒業しなさいと言われながら、送り出してくれたという感謝の気持ちが強かったので、頑張らなきゃいけない、弱音を吐いちゃいけないとずっと思っていました。今は電話やLINEやメールですぐ連絡できますが、当時はまだ携帯電話もなくて、気軽に連絡できる環境ではなく、心配をかけてはいけないと、親にも相談できませんでした。
―― そうこうしているうちに、デビュー曲がヒットして、何も考える事ができないくらい忙しい日々が始まったと思いますが、一番忙しかった時の事は覚えてますか?
松本 当時はスケジュール帳は見せてもらえなかったので、でもちょっと覗くと真っ黒になっていて。どこで何をやるのかわかっていないと仕事はできないと思うのですが、あの時代はみんなそうだったんですよね。地方キャンペーンで移動している時も、飛行機に乗っている時は寝てもいいけど、それ以外は、顔が浮腫むから寝ちゃいけないって言われていました。自分でも顔が浮腫みがちなのはわかっていたので、仕方ないかなと思っていましたし、着いたらすぐに歌うので、喉が閉まらないように絶対寝ちゃダメ、食べちゃダメって言われました。
(続く)
インタビュー・文/田中久勝
■7000文字を超えるロングインタビュー全文は『GOLDEN☆BEST / 松本典子オールシングルコレクション』ブックレット内に掲載されています。