村下孝蔵『初恋物語~20年の歩み』
須藤晃(プロデューサー)
スペシャル・インタビュー[前編]

村下孝蔵と言えば「初恋」だと今でも思いますね。村下さんと僕が目指していたものは歌謡曲だったんです。でも同時にあれだけ歌謡曲臭がなくて、清潔感もあって、でもフォークの匂いもする。村下孝蔵というアーティストの個性を最も表している楽曲として僕はあの曲に勝る曲はないと思っています。

── 今回『初恋物語~20年の歩み』は、どういうことを考えられて、こういう選曲になったんですか。

須藤 亡くなられて20年というのは、節目と言えば節目じゃないですか。僕は最初から最後まで一緒にやっていたんですけれども、その期間がほぼ20年。それで亡くなられてから20年。まず、そのことにびっくりしますよね。ずっと一緒にやっていて、それと同じ年月が経過したということにね。彼は46歳で亡くなられたので……。46歳というと、今の中居正広さんや木村拓哉さんと同じなんですよ。そう考えると、ずいぶん若いですよね。

── 働き盛りと言ってもいい年齢ですよね。

須藤 そうなんです。村下さんが亡くなられたのは、脳溢血で本当に突然だったんです。しかも、直前まで一緒に仕事をしていました。亡くなられてから発表した『同窓會』というアルバムを、作っている最中に亡くなられたんです。その作業をやっている時には「20年、経つね」「これが最後かもしれないね」みたいな話もしていて、僕らの仕事のタイミングとしても節目ではあったんです。「昔ほどにはCDも売れなくなっていたし、とりあえずここで一旦終わりにして、もう少し歳をとったら俺の事務所に来て、地方のディナーショーをまわったりして食いつないで行こうか」みたいな冗談を言ったりしました。そんなこと、それまで話したことなかったんですけどね。

── 後から考えると、“あれは予兆だったのかな?”と思い当たることがあったりしますよね。

須藤 僕は毎日、自分のホームページにブログのようなものを書いていて、当時は今よりももっと熱心に書いていました。で、ある日、おそらくは初めて、村下さんのことを書いたんです。その翌日に倒れたんです。

── それは、ショックですね。

須藤 僕はアーティストとあまり密着しないタイプなんです。制作している時にはがっつりやるんですけど、普段はちょっと距離を持って、一緒にご飯を食べに行ったり飲みに行ったり、みたいなことは絶対しないんです。でも、その『同窓会』の制作の間には「もう20年も経つんだね」といった感じで、いつになく密着感のある時間を何度か過ごしたんですよ。それでブログに彼のことを書いて、その翌日に倒れて、僕はびっくりしました。つまり、その書いた文章を公開した日に倒れたということなんです。

── 村下さんが倒れた日のことは憶えていますか。

須藤 その日の午後にマネージャーから電話がかかってきて、「駒込のリハーサル・スタジオで七夕コンサートのリハをやっているんだけど、村下さんがわけのわからないことを言うんです。どうしたらいいですか?」と言うんですよ(笑)。「それは、俺にはどうしようもないだろう」と答えたんですが、「でも、ちょっと様子がおかしいんです」と、マネージャーは言うんですよね。「浜田くんが来ているんだよ」という話を急にし始めた、と。マネージャーは浜田省吾だと思ったらしいんですが、後から聞いてみると、村下さんのもっと古い友達の浜田くんという人がいて、その人がリハーサル・スタジオに顔を出す、いや出さないということを村下さんは言ったようなんです。でもその人は実際にはスタジオには来てないわけですよね。それに、マネージャーの電話の話では、本人はやたらあくびをしているし、頭が痛いと言い出してるっていうわけですよ。

── ちょっと、嫌な感じですね。

須藤 村下さんのことをほぼ初めて書いた日に、そういうことになっているから、いろんな嫌な予感が当たるような気がして、それで村下さんが昔入院していた虎ノ門病院に連れて行ってくれ、とマネージャーに伝えました。「大事はないかもしれないけど、ちょっと嫌な予感がするから。俺もすぐに行くから」って。それで、その若いマネージャーはリハーサルに区切りをつけて、でも本人が倒れてしまっているわけでもないから、大丈夫だと思ったんでしょうね。車ではなく電車で虎ノ門に向かったんです。病院に着いた時にはもうかなり危険な状態で、すぐに入院ということになったと聞きました。僕のところにもすぐ連絡があって、「どうも脳内出血しているみたいです」と。僕も、駆けつけたんですけど、その時にはもう昏睡状態でした。

── その数日後に亡くなられて、それから20年経ってしまったわけですね。

須藤 20年間ケンカすることもなく、ずっと作品を作り続けてきて、でも彼が突然亡くなって。それから今回ソニーのディレクターの福田からあらためて20年経ったということを聞いた時に、“今回は僕が持っているテープをひっくり返して何か掘り出してくるようなことするのではなくて、一緒にやっていた20年の間に出したシングル曲を中心に考えてみよう”と思いました。シングル曲というのは、結果として売れた、売れないはあるけど、その都度一生懸命作って出していたものだから、この機会にもう1回振り返ってみたいなと思って。だから、最初のアイデアとしては、シングル曲を網羅して、さらに可能であればそれ以外に自分がこだわって作ったものも入れたいな、と。でも、収録時間の限界はあるから、ほぼシングル曲だけのラインナップになりました。

── タイトル『初恋物語~20年の歩み』も、村下さんのベスト・セレクションのタイトルとしては王道というか、すごくストレートですね。

須藤 やっぱり「初恋」という曲が圧倒的にすごいなと自分でも思うし、世の中もそう思っているだろう、と。僕と村下さんが目指していたものは歌謡曲だったんですけど、でも同時にあれだけ歌謡曲臭がなくて、清潔感もあって、でもフォークの匂いもするし、村下孝蔵というアーティストの個性を最も表している優れた楽曲だし、いつまでも経ってもみんなの中にも残っている感じがあるし。それで『初恋物語~20年の歩み』。

── ジャケット写真も須藤さんが撮られたそうですね。

須藤 “校庭を走る君がいた。それをじっと見ている自分がいた”という、「初恋」を作った時の村下さんとのやりとりを思い出して、都内の学校をスマホで撮りに行ったんです。どんな人でも、父親と母親はいるじゃないですか。それと同じように、どんな人も必ず学校には通うので、日本人の共通している郷愁感というのは校庭というかキャンパスにあると思うんです。だから、そういう曲が世の中の人には一番伝わるとわかっていたんですけど、でもそういう曲はあまり作らなかったんです。なぜかと言うと、ユーミンをはじめとして、学校を中心にした郷愁感をそそる名曲を作った人は当時からいっぱいいるから。村下さんもその一人だとは敢えて言わないけれど、「初恋」を超える曲を、どうぞ頑張って作ってください、という気持ちはありましたね。

── 「初恋」の制作に関して何か印象に残っていることはありますか。

須藤 あの曲を作るのは、ディレクターの立場としてはすごく大変だったと言っていいと思います。村下さんにも、詞が決まるまで、何回も歌ってもらったりしました。それは、珍しいことでしたけど。ただ、あの曲は年をまたいで作ったんですよ。そうすると、面白いもので、年末に“これでいいや”と思ったものでも、年が明けて聴き直すと“ダメだなあ”と思うんですよね。そんなこともあったりして、本当に根を詰めて作った曲なんです。「初恋」以外にもヒット曲はありますけど、僕はあの曲に勝る曲はないなと思います。村下孝蔵と言えば「初恋」だと今でも思いますね。

── 村下さんの最初のヒット曲ということで言えば、「初恋」の前に「ゆうこ」がありますね。

須藤 あれはアルバム用に作った曲で、最初は「ピアノを弾く女」というタイトルだったんです。僕が中学生の頃に友達の家に遊びに行ったら、歳上の女の人がショパンを弾いているのを聴いたことがあって、その話を村下さんにしたんですよ。ピアノを弾く女って、なんか良くない? って。訳ありの感じがあるじゃないですか。ショパンは一番有名なのが「別れの曲」だから、ショパンを弾く女を歌にしようよって。浜田省吾のバンドのギタリスト、町支寛二がアレンジを手伝ってくれたんですけど、彼の奥さんは「ゆうこ」というんです。村下さんの奥さんも「ゆうこ」で、レコード会社のA&R担当の奥さんも「ゆうこ」。「じゃあ、“ゆうこ”だろう」ということで♪ゆうこ♪というコーラスを入れて、曲のタイトルも「ゆうこ」にしました。それでも、僕は「夢の跡」という曲をシングルにしたくて、それをCBS・ソニーの編成会議にかけたら、みんななんだか合点がいってない感じだったんですよね。その一方で、宣伝部の若い女の子が「私<ゆうこ>がいい!」と言い出して、みんなも「やっぱり<ゆうこ>がいい」と言うので、あの曲をシングルにしたんです。最初は売れなかったんですけどね。

── やっぱり別の曲をシングルにすべきだったかな? とか考えちゃいますよね。

須藤 だから、「ゆうこ」が北海道の有線放送で1位になったという連絡があった時は、よけいに嬉しかったですね。「来たよ!」と思いました。そこから、お金もかけて宣伝して、セールス・チャートも上がってきて、そのタイミングで『夜のヒットスタジオ』に村下さんが出たんです。僕は、テレビに出すことはすごく反対だったんだけど、それでも出すということになって、だったらと思って、レコーディングのメンバーを全部集めて、町支にも入ってもらって、コンサートのような万全な状態を作ったんです。でも、肝心の村下さん自身にはスタイリストがついてなくて、なんだかダサい格好をしてやって来たから(笑)、誰かスタッフが着ていたカシミヤのワインカラーのセーターを脱がせて、それを村下さんに着せて、それで歌ってもらったんです。結果、大ブレイクですよ(笑)。

── いよいよ「来たよ!」という感じですね。

須藤 村下孝蔵がいいアーティストだということはわかっていたし、その後に「初恋」「踊り子」と続くんですが、それでも僕としては「ゆうこ」がヒットしたことがすごく大きかったですね。その後、村下さんとは関係ない仕事でニューヨークに行った時、佐野元春くんが向こうで『VISITORS』を作っていて、彼のアパートに遊びに行って、いろんな話をしたんですけど。そこで「須藤さん、村下孝蔵さんの<ゆうこ>っていいね」と言われたんです。佐野元春がいいと言うんだから、あの曲は本当にいいんだなと思いましたね(笑)。「あのヒットの、きっかけは何?」と彼は聞くので「有線で」と答えたら、「そうだよね」って。ああいう、ある意味では地味な曲がヒットチャートを駆け上がっていったことに安心したと彼は言っていました。音楽的には彼の音楽とはなんの接点もないと思うんだけど、でも彼はプロデューサーとしても優れているから、その彼が認めてくれたことがすごく嬉しかったです。佐野さんが自分の方向性とは違うもので惹かれたということは、あの曲が本物の強い光を出しているということですからね。

[後編]に続く

インタビュー・文/兼田達矢 写真/山本マオ

須藤晃(すどう・あきら)

音楽プロデューサー・作家。1952年8月6日 富山県生まれ。1977年東京大学英米文学科卒業後、株式会社CBS・ソニー(当時)入社。1996年より株式会社カリントファクトリー主宰。尾崎豊、村下孝蔵、浜田省吾、玉置浩二らを担当し音楽制作のパートナーとして数々の名曲を発表し続ける。