村下孝蔵『初恋物語~20年の歩み』
須藤晃(プロデューサー)
スペシャル・インタビュー[後編]

アーティストと一緒に作品を一緒に作っていると他の人には言葉で説明しようのない感覚が生まれてくるんですよね。もちろんそれはアーティストごとにそれぞれ違うものなんだけど、村下さんとの間に感じる感覚は、僕のプロデュース人生の中では一番特異なものだったんですよ。

── ([前編]からの続き)1999年の 『同窓會』というアルバムが結果として遺作になったわけですが、その制作の最中に“最後になるかもしれない”という予感のようなものがあったと話されていましたね。

須藤 何か節目が訪れて、一緒にレコードを作ることが今後は難しくなるんだろうな、というような感覚ですけどね。つまり、僕らの関係が一段落するんじゃないかなということですよ。

── そういうふうに感じたことと、「同窓会」という納得度の高い楽曲ができたことは関わりがあるように思われますか。

須藤 はい、思います。あの曲は、そのことに気づくまで聴き込んでくれる人があまりいないんだけど、完全に「初恋」の続編ですからね。楽しかった学園生活、学生生活が終わって、年をとると、小学校、中学校、高校の同窓生に対しては、自分もそうですが、特別な思いを持つじゃないですか。大人になってから、友達なんてできないですからね。絶対できないですよ! 仕事上の関連で出会うしかないから。旧友と毎日会うということも、大人になると無いじゃないですか。僕自身は、同窓会にはあまり出ないですけど、それでもたまに出ると、やっぱり懐かしいですよね。当時の空気がワーッとよみがえってきて。そんなようなことを歌にしたいなとずうっと思っていたんです。だから、出来上がった時には、もちろん亡くなるなんて思ってないから、“いいのができたし、これが売れたら、もっともっと一緒に仕事ができるんだなあ”なんてことも思いましたね。

── シングル「同窓会」の制作はスムーズに進んだんですか。

須藤 あの時の二人の感じというのはスポーツ選手の感覚に似てると思うんですけど、例えば普段は140キロくらいの球を投げていた人が突然160キロで球を投げる瞬間というのがあって、プロデュースの仕事というのはその瞬間を逃さないようにしないといけないんです。特に村下さんの場合は、僕と共同で作っていましたから。二人の人間のパートナーシップで難しいのは、どちらかのモチベーションがぐうっと上がっている時に、もう片方は他のことに忙しくてそれほどでもない、ということがあるじゃないですか。恋愛もそうですよね。片方が燃え上がっているのにもう片方はそうでもないと、やっぱり盛り上がらないでしょ。

── 逆に関係が冷めていくきっかけになったりしますよね。

須藤 「同窓会」の時は二人の波長が一致して、すごく盛り上がったんです。珍しいことに「同窓会」のシングル・バージョンは僕がアレンジしてるんですよ。村下さんも、あんなにギターが上手いのに、なぜか他のレコーディングではほとんど弾いてなかったんですけど、「同窓会」のレコーディングではギターも弾き、いろんな楽器もやり、僕もいろいろやって、二人で録音したんです。そんなこと、それまでやったことなかったですから。それで出来上がったものを、僕はものすごく気に入ってて、アルバムでは水谷公生さんがアレンジしてるんですけど、僕としてはシングル・バージョンの「同窓会」がベストなんですよね。

── 「同窓会」の歌詞は夜汽車が星に向かって走っているというフレーズから始まって、随分時間が経ってから夜空を見上げると今もあの日と同じ星が光っていると歌います。その感受性はやはり詩人ですよね。

須藤 そう思います。「初恋」だって、そうじゃないですか。「♪五月雨は緑色♪なんて、絶対に思いつかない!」と、玉置浩二は言うんです。そういうのは、僕と村下さんが二人で話してくる時に出てくるちょっとしたイメージから生まれるんですけど、そこには他の人には言葉で説明しようのない感覚があるんですよね。村下さんと作品を作っていると。それはアーティストごとにそれぞれにあるものなんだけど、村下さんとの間に感じる感覚は、僕のプロデューサー人生の中では一番特異な感じだったんです。自分は石川啄木になりたいと思っていたような男だし、それでなくても萩原朔太郎だとか中原中也だとか、早くに亡くなったアーティストたちが持っている、その人自身が自分の存在の儚さをわかっているような感じにすごく惹かれるんです。村下さんにはそれがありました。そして、実際に村下さんも早くに亡くなってしまうわけですよね。

── 名前が出た詩人たちはちょっと破滅志向のような一面があったようですが、村下さんはどうだったんでしょう?

須藤 あの人は一度、肝臓を悪くして、その後は健康志向でよく歩いたりしてたんですけど、それでも酒もタバコもやめなかったですね。

── 繊細なところと豪快なところが同居している感じですか。

須藤 ひと言で言えば、アーティストですよ。村下さんというのは、世間が言うアーティスト性みたいなことを感じさせることはあまり無いタイプなんです。実際、あの人には近所の鉄工所のおっちゃんみたいなところがあるんです。でも、本質はものすごくアーティスティックだったですね。だから、突然インスピレーションが湧いて曲ができると、電話してきて、聴かせてくれるんです。それについて、僕はわーっとしゃべるんです。「今のは、こんな感じがいいよ」「これは、こんな詞にしない?」みたいな感じで。僕は興奮するとものすごく早口になるんですね。それで、村下さんは電話の通話を録音する機械を買ってました。あまりに須藤さんがいろんなことを長時間しゃべるので、録音しないとわからなくなるからって(笑)。それは、亡くなった後に奥さんに聞いたのかな。そういうことがまた涙をそそるんですけどね。言ってくれりゃ、ゆっくりしゃべったのに、って。

── シンガーとしての村下さんについて、須藤さんは再三「村下さんはめちゃくちゃ歌が上手かった」と話されていますよね。

須藤 村下さんは、どんな歌でも知ってる歌だったら、極端に言えば、オリジナルよりも上手かったですよ。それに、ソニーでディレクターをしてる頃の僕は「大瀧詠一と村下孝蔵は金出しても買う価値のある声をしてる」と言ってたんです。村下さんの声というのは、生まれつきのもだと思うけれど、多分パピプペポと歌っても素晴らしく聞こえるだろうから、だったら少しでもいい詞を作って、少しでもいいメロディーに乗せて作った曲を歌ってもらったら、本当に素晴らしくなるだろうって。作り手の意欲をかき立てる声なんですよね。僕はいろんなアーティストをやったけど、声に惹かれたアーティストしかやらないんです。作品なんて、まず声があって、それから作るわけだから。自分がやってないものでも、やっぱり声ですよね。だって、ジョン・レノンがいい声じゃないと言う人はいないし、山下達郎がいい声じゃないと言う人はいないでしょ。音を作る仕事においては、まず声ですよ。それは、どれだけの才能を持っているかということよりも、上にあることだと思います。

── 須藤さんは、今回のアルバム『初恋物語~20年の歩み』に寄せた文章の中で「僕らはとにかく日本の流行歌を目指していた」と書かれています。そこには、何か具体的なイメージはあったんでしょうか。

須藤 僕と村下さんが目指していたのは、誰が聴いても覚えられるメロディーと覚えられる歌詞、そしてそこに表現されているものが好きな世界であること。そういうものを目指していました。つまり、憧れみたいなものを表現したいんです。世の中には、うんざりするような現実がいっぱいありますよね。そういうものを僕らは描きたいわけじゃないんです。そんなものを描いても気持ちいいわけじゃないから。それよりも、みんなが“こうなったらいいなあ”と思い描くような憧れの世界を歌にしていたんです。少なくとも、僕はそう思います。よく話したのは、どこかに旅した時に、緑の草原みたいな丘があって、花が咲いていて、風も爽やかで、「うわー、こんなところがあるんだ!」と思う、と。そういう歌を作っていただけなんです。そういう緑の草原のようなものは実際には世の中には無いのかもしれないけれど、でもそれを歌にしてるんです。

── 村下さんは失恋の歌が少なくないです。とことん落ち込むような失恋ソングではないですよね。

須藤 僕は、他のアーティストとやってきたのもそういうことだと思うんですが、それは癒しというようなことではないけれど、でもやっぱり歌っていうのはどこかに光がないとダメだと思うんです。例えば「この国に生まれてよかった」という曲を作るじゃないですか。それは、この国に生まれてよかったんですよ。この国の何がよかったんだろう? 美しさだ、と。この国の美しさってなんだろう?ということを歌にしているだけなんです。確かに、失恋の歌もいっぱい作りました。“駄目な男”シリーズというのがあって。男というのは不思議なもので、昔付き合っていた女は全員今でも俺のことが好きだ”と思っているんですよね(笑)。でも、そんな女の人なんて、一人もいないですよ。男はバカだから。“今でも俺のことを思い出して、泣いたりしているんだろうな”と思うんですけど、泣くわけないですよね。女の人が昔の男のことを考えるのは、何かお金がらみの時くらいですよ(笑)。

── そのシリーズの最初はやはり1991年のアルバム『新日本紀行』に収録された「駄目な男」ですか。

須藤 村下さんはモテたんでしょうけど、苦い恋愛の歌を作ろうということで、あの曲「駄目な僕」を作りました。自分は駄目な男だという歌で、僕も村下さんもものすごく気に入ってたんだけど、村下さんはコンサートでその曲を歌いながら泣いたことがあるんですよ。僕は、村下さんが歌いながら泣いたのを見たのはその時だけですね。それは、しかも彼が高校卒業後に過ごした広島だったんですよ。自分は駄目な男だっていう、その歌の内容に村下さん自身がヤラレたんでしょうね。その泣いてる村下さんを見て、僕も泣いてましたけど(笑)。それにしても、すごい力のある歌なんだなと思いましたね。作った本人が泣いちゃうんですから。

── 須藤さんは、アルバムに寄せた文章を「村下さん、見事に歌は残りましたよ。」という言葉で結ばれていますが、それは今、そのことを実感として感じるということですか。

須藤 そうですね。村下さんの曲を、もっといろんな人がカバーすればいいのにと思うし、何かのきっかけで村下孝蔵の作品にスポットライトが当たることを期待しています。僕自身は、村下さんの曲はけっこう聴くんです。仕事しながら聴いているんですけど、やっぱり“なんて、いい曲なんだろう”と思うんですよ。売れた曲もあれば、それほどでもなかった曲もありますけど、それは時の運みたいなところもあるから。やっぱり、村下孝蔵というのは過小評価されていると思います。みんながもっときちっと聴けば、並みのアーティストにはちょっと届かないところにあるくらいの作品をいっぱい作っていますよ。いっぱいあるんです。はっきり言って僕はプロデューサーとして評価を得ましたけど、そんな僕が、これはヤラレタ! と思う曲が、みんなが知っているような曲以外にもいっぱいあるんです。だから、もしレコード会社からまた選曲を依頼されたら、シングルにはなってないけど、僕がすごくこだわって作った曲ばかり集めたアルバムを1枚作りたいなと思っているんです。例えば「ネコ」という曲なんて、僕はものすごく好きなんです。俺はお前のことをネコと呼んでいたっていう歌なんですけど、ああいう大人の恋愛を歌えるシンガーは昔も今もあまりいない。特にそういう曲はライブよりもCDで聴くと、ヤラれるんです。あの声で耳元で歌われると、素晴らしくいいんですよ。そんな曲がいっぱいあります。だからもしソニーミュージックが、来年も企画盤作りましょう! と言うなら、「ネコ」を軸に考えようかな(笑)。

インタビュー・文/兼田達矢 写真/山本マオ

須藤晃(すどう・あきら)

音楽プロデューサー・作家。1952年8月6日 富山県生まれ。1977年東京大学英米文学科卒業後、株式会社CBS・ソニー(当時)入社。1996年より株式会社カリントファクトリー主宰。尾崎豊、村下孝蔵、浜田省吾、玉置浩二らを担当し音楽制作のパートナーとして数々の名曲を発表し続ける。