「松之丞 講談―シブラク名演集―」発売記念
新旧演芸対談 落語プロデューサー「京須偕充」× 講談師「神田松之丞」

其の一其の二其の三

二ツ目でありながら大規模なホールを満員にし、数日にわたる講談連続公演を大盛況にする、今もっとも注目されている講談師・神田松之丞(パン!)。その人気の秘密をこの『松之丞講談』でぜひ確かめてほしい(パパン!)。確かな古典への造詣と現代を見つめる鋭い感覚が講談というフィールドで大暴れしている。

この特設ページでは、松之丞さんの落語原体験となった『圓生百席』のプロデューサー・京須偕充さんとの対談を3回に分けてお届けします。

「京須偕充」× 講談師「神田松之丞」

第2回目におとどけするのは、京須さんが考える講談の魅力と今後の可能性。松之丞さんの目指すべきお手本の話にもなりました。

★話芸の大もと、講談の魅力

京須:講談っていろんなものがあるけれども、まずは落語では得られないものを聞かせてくれるというところが魅力ですね。でもそれはネタではないんですよ。ネタはもちろんお互い独自だから。つまり語り。落語家のあの崩した感じ、ふわふわしたとりとめのないああいうしゃべり方ではないでしょ、講談は。語り自体が、悲劇的なものとかスケールの大きい政治的なものとかが、やっぱり講談に向いているんですよ。そういうところが落語家がうまく話してもやっぱりウソ臭くなってしまう。

松之丞:うん、そうですね。

京須:日本語の楷書、楷書で書いた日本語の魅力があるというのは講談だけでしょう。落語は行書や草書ですよね。

松之丞:ああ。

京須:で、楷書で書いた場合にはどういう字でどういう意味かわからなくても、耳で聴いて快いと。で、聞かせてしまう、聴いてしまう。なんとなくその世界に引き入れてしまうというその強さは、落語より講談のほうがありますよ。

松之丞:そうですよね。

京須:それは現代の若い人が聴いても、だんだんそういうことがわかるようになってくると思う。

松之丞:修羅場なんていいものは鳥肌が立つ、なんだかわからないんだけど鳥肌が立つって、まさにそれですよね。

京須:今はそれほどではないけど昔はね、歌舞伎のせりふなんてのは『弁天小僧』の浜松屋のせりふだの、『切られ与三郎』のお富と再会したときの「しがねえ恋の〜」といったああいうせりふを、宴会で自慢してやるような酔っぱらいがいたわけでしょ。それはやっぱり鹿爪らしく言えば、日本語の美。特に黙阿弥さんの七五調のせりふにはそれがこもっているんですよ。あれもね、3分の2ぐらいわかんなくてもなんとなくわかった気になっていい気持ちになれる。それは講談が落語より優位な点だと思う。

松之丞:言葉の気持ちよさが。

京須:ええ。

松之丞:けっこうそういうこと考えると、修羅場や言い立ての音源だとか逆に生で聴くよりもCDとかで解説書が付いていて、意味がわかったほうが何度聴いても楽しいかもしれないですね。

京須:そうですね。

松之丞:1回聴くだけで終わるようなもんじゃない。

京須:そうじゃないですね。

松之丞:言葉の粒の気持ちよさとかある。

京須:今、いろんなこと言っちゃってるけどね、言うほうはラクだから(笑)。

松之丞:いやいや貴重な意見です。

京須:講談の日本語の美しさはわかるはずだと思いますよ。よく「大時代な表現」なんて言いますよね。僕なんかも「大時代な表現は使わないほうがいい」と書くこともあります。でも、大時代な表現がかえって魅力がある場合があって。プロ野球の中継とか、もちろん大相撲もそうですけど、けっこう大時代な表現を使うんですよね、それで今の視聴者は自然と慣れていると思う。美文調というかちょっと演説口調になりますけど。これ、漢語混じりにもなるから日本語だけじゃないね。日本語に適当に漢語が入っている。独特の魅力ですけどね。これはね、話芸では講談しか持ってない特製だから、これは大きな武器。美文調ではないものは少し美文調にしても構わないと思う。

松之丞:むしろ気持ちよさ心地よさ美しさにこだわったものを作ったほうがいいと、なるほど。そうかもしれないですね、確かに。読み物にもよると思うんですが、そういう基本とともに、落語のような行書、草書のような読み方が出来るところも元々備わっていて、何か広い演芸だなぁと感じますね。

★講談師のスタンス

京須:この講談の魅力に、実はあんまり本職が目覚めてないんじゃないかって気がする。

松之丞:ああ。僕も含めてそうかもしれませんね。

京須:いや、そんなことないと思うけど。過去の人がね。馬琴先生と話しててね、こういうこと言ったことがあったんです。つまり講談が低迷しているって話ですよ。講談というものは歴史物が中心でしょう。日本人はとても歴史が好きなんですよ、明治からずっとね。大河ドラマの人気が何よりの証拠です。今から30年ちょっと前、馬琴先生と仕事していた頃、当時NHKテレビで「歴史への招待」っていう30分番組があって、鈴木健二ってアナウンサーが語り部になって、いろんな歴史のかなりウソっぽいところまで含めて取り上げてた。この番組がけっこう視聴率が高かった。で、馬琴先生に言ったの。「日本人は歴史好きなんだから、今まで通りのやり方ではなくて、噺家でいえばマクラに当たるような部分だけでも、自分が現地へ行って調べたらこうでしたっていうそういう話を入れたりして、現実感を持たせたらどうですか」って言ったら、馬琴先生がね、こう言ったの。「その通りだよ、キミ。まったくその通りだ!」と。そこまではよかったの。「だからあの番組を私にやらせればいいんだ」って(笑)。話はぶち壊し。

松之丞:ははは。

京須:いかにもあの人らしいんだけどね。

松之丞:先生おっしゃるように、確かに講談の魅力に意外と演者が一番気づいてないかもしれないですね。ネタ自体も4500以上ある。落語どれくらいですかね、500?

京須:わかんないねえ。

松之丞:わからないですね、小噺を入れたら。講談は膨大にあるんで、それを全部、今の現役の講釈師が当然読んでいるとは、僕を含めて思えない。むしろ今、朝ドラや週刊マンガで連続物の手法が使われていて、講談師がその源流であるにもかかわらず生かせてないという意識はありますね。だから、自分が帰属しているジャンルの魅力に気づいてないのは大いにあるなと。それでいて、どうでもいい講談らしさに捉われている。

京須:自分たちの講談の芸のテイストでやれる話はいくらでもあって、だから落語なんてやっちゃいけないって考え方をとる必要はないと思いますよ。ほんとに話芸の王者であればそんなものは呑み込んでしまいますよね。

松之丞:なるほど。このあいだ女流講談師なんですけど、落語の『星野屋』をやっていたんですよ。それは落語家さんから教わったものを講談にして。ちょっと悪い女が出てくる。悪女が似合う人だったんで、ものすごい受けてるんですよ。

京須:へえ。

松之丞:それ聴いたときに、ああこういうのもありだなと思いましたね。落語の『星野屋』であんな受けてるのを見たことがなくて。チョイスもよかったし、悪女が似合ってたんでしょうね。

京須:女性でしょ。だからよかったんですよ。落語のは男がやってるから。あれ主役が悪女だからね。

松之丞:いかにもこの人が言いそうだって感じで(笑)。だから女流講談師が生きていく道はこういうところにあったなと、その人が発見したんですけど。ほんとシームレスでやっちゃっていいんじゃないかと思います。

★徳川夢声と圓朝と桃太郎

京須:あとはね、ご存じでしょ、徳川夢声って人。あの人がたどった道がある。結局あの人は吉川英治の『宮本武蔵』の読み聞かせのようなもので人気を得た。それだけじゃ箔が付かないんで、イギリスの作家のものをけっこうやってましたね。『アッシャー家の人々』とかね。洋物やるときはフロックコート着て。あの人こそ徳川夢声というジャンルになった。活動写真の弁士だった人があれだけの文化人になっていったから。

松之丞:徳川夢声は最初落語家になりたいってことだったけど、親父に反対されたか何かで入門願いは?

京須:いや、そこまで行動してないんじゃないかな。あの人ね、今の日比谷高校のときに結核を患って1年か2年、自分の家でぶらぶらしていて。で、退屈だから寄席に通う。四代目の橘家圓喬(1865-1912)なんかが出てきてすごく感激するわけですよね。そこから弁士になった流れはよくわかんないんだけど。映画がたちまちトーキーになってしまうと、いつのまにか転身して。しばらく芝居をやったりいろんなこと試行錯誤しているんですよ。

松之丞:本も書いて直木賞候補になってましたよね。

京須:うん。吉川英治の『宮本武蔵』に恵まれて、戦後はもう文化人になっちゃった。ジャンルをつけなきゃならないときは、一応、朗読って看板でやってたけど。格調は高かったですよ。

松之丞:じゃあちょっと講談に近い。

京須:近いです。

松之丞:そういうジャンルなれってことですよね。「徳川夢声におまえもなれ」ってことですよね、極端に言うと。

京須:ええ。難しい注文だけどね。

松之丞:でも、徳川夢声になれっていうのはおもしろいですよ。ははは。

京須:徳川夢声であれば何やったっていい。落語やったって、民話を語っても、なんでもいいんですよ。

松之丞:なるほど。

京須:「芸ってそういうもんだよ」ってなかなかみんな言わないですよね。でも伝統はずっとあってね、圓朝と桃太郎の話ってどっかで聴いたことないですか。

松之丞:いや、知らないです。

京須:長谷川幸延っていう作家が短編小説で書いてるんだけど、のちにね、安藤鶴夫が当時の権勢に任せて中村勘三郎に圓朝を演じさせて一幕物の芝居にしてるの。それはどういう芝居かっていうとちょっと臭い芝居なんだけど、圓朝はもうすっかり名人になっていて、向島の料亭でいわゆるお座敷に行くんですよ。そこに明治になって役職を離れた山岡鉄舟と高橋泥舟が来ていて、何か聞かせてほしいと。「じゃあ一席いたしましょう」と圓朝が言う。山岡鉄舟が「私は師匠の『桃太郎』を聴きたい」と。『桃太郎』と言われて困るわけ。落語じゃなくてお伽話なんですから。「あなたほどの腕前で『桃太郎』を聴いておきたい」と言われて、圓朝は絶句するわけですよ。できないんです。で、「何が名人だ。乳母や子守りっこが赤ん坊に聞かせる話を名人の圓朝がなんでできないんだ、それでも名人か」と山岡鉄舟にののしられる。やな芝居だったから結末覚えてなんだけど。

松之丞:いやですね(笑)。

京須:『桃太郎』なんて国民共通のお伽話でしょ。しろうとが子供を寝かし付けるときの話をね、名人がやったらどういうふうになるか。それが即席でやれてこそ初めて名人と呼べるんじゃないかと。習い覚えた噺を何年も研鑽して人の前で披露してそれがうまかったとしても、それではまだ名人の域に達していないよっていう名人観がね、この日本には底のほうにあるんですよね。

松之丞:なるほど〜。確かに徳川夢声がその場で言われたら、むちゃくちゃうまくやれたでしょうね。

京須:うん。圓朝よりは夢声のほうがノーサイドだから。

松之丞:やたら遅いでしょうけど、大間ですから。「桃太郎は……」って間がすごいでしょうけど(笑)。ある種ジャンルがないからこそすぐ即興で、ニーズがあったらできるという。

京須:あの人は「間は魔だ」と言ってたぐらいだから、ちょっと詰まったときに客席をぐっと睨んだり、そういった芸をしていたと思う。で、そういう話芸観っていうものがあるからね、講談とか落語とかっていう区別なんか聴く者にとっては実にどうでもいいということが僕の言いたいことなんですよ。

松之丞:いやあ、うれしい発言だなあ。講談は多面的に捉えるものだと。勝手に狭くするなと私もそう思います。

京須:つまらないとこにこだわっていると、どんどん世の中が変わっていくし、取り残されていくだけなんですよね。それは、うまいまずい、好みでいろいろあるけどね。そういう可能性を封じたらおしまい。

~第三回につづく

京須偕充

京須偕充(きょうすともみつ)

1942年東京神田生まれ。慶應義塾大学卒業。ソニーミュージックのプロデューサーとして六代目三遊亭圓生「圓生百席」や古今亭志ん朝、柳家小三治など数々の落語レコード、CDの録音制作を行う。「朝日名人会」プロデューサー。「TBS落語研究会」レギュラー解説者。著書「圓生の録音室」(中公文庫)、「落語家昭和の名人くらべ」(文藝春秋)、「落語名作200席上下」(角川ソフィア文庫)など。

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  • 発売日:2017年6月28日 品番:MHCL-2695
  • CD2枚組 価格¥2,778+税 解説ブックレット付
  • 収録内容
  • Disc1

  • 赤穂義士伝「荒川十太夫」36:37(20161014ユーロスペース「渋谷らくご」収録)

  • 天明白浪伝「金棒お鉄」31:39(20170211ユーロスペース「渋谷らくご」収録)
  • Disc2

  • 天明白浪伝「首無し事件」50:53(20161016ユーロスペース「渋谷らくご」収録)

  • 松之丞 ひとり語り 15:55(20170515ソニーミュージック乃木坂スタジオ収録)
  • 解説:サンキュータツオ(渋谷らくごキュレーター)/長井好弘(読売新聞東京本社編集委員)

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