松武秀樹×浅倉大介
浅倉 オープニングからまずやられましたね。無限音階がいきなり登場(笑)。松武さんとはSynthJAMというイベントのステージで何度かご一緒させていただきましたが、その時も生で無限音階を披露されていました。今から約40年前の’78年にすでにやられていたんですね。
松武 そうなんですよ。Moog Ⅲcで作ったこの曲がきっかけとなって、YMOへの参加につながっていったんです。細野(晴臣)さんが興味を抱いて、六本木のソニースタジオで無限音階の制作現場を見学させてほしいといらっしゃったんですよね。その何日か後に細野さんのマネージャーから電話があって、『イエロー・マジック・オーケストラ』というアルバムを制作するので、ついてはぜひ参加してもらえないだろうかと言われて。びっくり仰天ですよ。
浅倉 無限音階って、シンセサイザーの境地みたいなもんですもんね。
松武 種明かしをしてしまうと、なーんだ、ということになるんですけどね。マスタリングをしているときにエンジニアの方が、これは順番に3万Hzまで音が出ていますねと言われて。要するに無限音階は音が5オクターブでスウィープしているだけなんですよ。(マウリッツ・)エッシャーの騙し絵みたいなもの。それはシンセサイザーでしかできない技なんですよね。
浅倉 人間の耳の盲点をうまく突いてますよね。聴いているうちに、知らない間にまた5オクターブ下がっていたというような。ぼくはDX-7では作ったことがあるんですが、アナログのタンス(Ⅲc)でトライしようとするとかなり気が遠くなる作業ですよね(笑)。
松武 そう! ちゃんとスウィープをさせるための精度が高いオシレーターを持っていないとバレちゃうんですよ(笑)。
浅倉 いきなり無限音階が始まったところで、このボックス・セットと向き合う覚悟ができましたね(笑)。“謎の”っていうのがいいですよね。
松武 ありがとうございます(笑)。でも、上昇音はいいんですけど、下に向かっていく音は怖い。奈落の底へ落ちていくような感じで。それはさすがにこのボックス・セットには入れませんでした。無限音階のようなシンセサイザーを使って耳の錯覚を起こさせることは、まだまだできるんじゃないかと思っているので、今後も試していきたいですね。
浅倉 「RYDEEN」がライヴ・ヴァージョンで収められているのが、またたまらないですよね。
松武 このライヴ・ヴァージョンがレコーディング・ヴァージョンと決定的に違うのは、イントロの「チッチキ、チッチキ、チッチキ」がないんですよ。いきなり演奏が始まる。
浅倉 どうして、そうしたんですか?
松武 わからない(笑)。でも、’79年当時は「チッチキ、チッチキ、チッチキ」をやらなかったんじゃないかと思います。
浅倉 個人的な思い出なんですが、小学校の時にシンセサイザーの音を初めて聴いたのが冨田(勲)先生の作品で、自分で音はイメージできるんですけど、どうやったら鳴らせるのかがわからなかったんです。それが、YMOと出会ってわかった。メンバーお三方の後ろで松武さんが何かのツマミをいじっている光景を見て、こういう風にいじれば鳴るんだって(笑)。「TECHNOPOLIS」や「RYDEEN」を聴いて、興奮していた時期でした。この音源は生演奏でやっているというところが、やっぱりすごいですよね。
松武 怖かったですよ、演奏している身としては。シーケンサーが止まっちゃったら、どうしようとか。ローランドのシーケンサー、MC-8で限られた小節で曲が終わるようにあらかじめプログラミングしていたんですけど、シーケンサーが止まっているのに生演奏が続いていたり。あれ、(高橋)幸宏さん、まだドラム叩いてるというような。それはそれでおもしろかったですけどね。ニューヨークのボトムラインで演奏した「BEHIND THE MASK」ではシーケンサーが暴走してしまって、一瞬で終わったこともありました(笑)。お客さんは大盛り上がりでしたけど、こっちは困っていたところに隣にいた矢野顕子さんがリフから始めてと言って、なんとか始まったんです。その時の音源は『フェイカー・ホリック』で聴くことができますよ。まだまだ途上段階にあったこの時代のシンセサイザーをステージに上げるなんて、今から思えば無謀だったかもしれませんね(笑)。
浅倉 シンセサイザーにとってそんな時代でありながら、生演奏とシーケンサーを一緒にライヴで走らせるということを日本だけでなく、アメリカやヨーロッパで行っていたというのは本当にすごいことですよね。
松武 ローランドの技術者にツアーから帰ってきてから言われました。「まさかMC-8をステージに上げるとは思いませんでした」って。暴走の原因は熱で、熱を逃がすためのフィンを付けてもらった。シーケンシャル・サーキットのプロフェット5の後期モデルでは付いてましたけど、当時は熱暴走させないためにあれこれ考えてましたね。
浅倉 小さい頃に何回も聴いたことがあるのに、こんなイントロだったんだ! とあらためて知りました。テレビの歌番組って、当時はバンドによる生演奏で電子楽器の音は再現されないことが多かったんですよね。そのテレビでの記憶が刻まれているので、こうしてCDでオリジナル音源を聴いてびっくりしたわけです。すごくかっこいい。
松武 「みゃ〜〜〜」とか変な音でなんだか恥ずかしいよね、今聴くと(笑)。’74年だと、シンセサイザーを使い切れるか、切れないかという勉強途中の時代でしたね。
浅倉 まだ音楽的にというよりも、効果音的な役割をシンセに求められていた頃ですよね。
松武 まさにそうでした。「傷だらけのローラ」の次に収められている矢野顕子さんの「行け柳田」は、ジャイアンツファンの矢野さんが巨人史上最強の5番打者と呼ばれた柳田真宏さんをテーマにして作った曲なんですが、彼女からホームランの音を作ってほしいと頼まれたんですよね。ホームランの音は大滝(詠一)さんからも頼まれたことがあって、どういう音ですか? と聞いたら、「カキーン!」と言われて。それらしき音をうまく作って、おふたりに渡したことがありますね。
浅倉 シンセって、口で言った音が作れると思われていたんですよね(笑)
松武 そうそう、鈴木慶一さんにはトタン屋根に硫酸を垂らして、じゅうじゅうと溶ける音を作ってほしいと言われたことがあって。いったいどんな音なんだろうと考えるわけですよ。これもモジュレーションをグニャグニャとかけて、それらしき音にして渡したことがあります。そんな時代でした。
浅倉 でも、それがシンセの楽しいところでもあるんですよね。
松武 まさに、実際に存在しない音を作れてしまうのがシンセの醍醐味でもあるんですよね。そうだ、大滝さんからもうひとつ頼まれたのが、紙テープを投げたときの音。言葉だと「シュルシュル」じゃないですか。それなら簡単なんですが、真ん中の芯を抜いた音を作れって言うんですよ。なんとなく想像して作って持っていったら、「う〜ん、違うな」と一言(笑)。大滝さんがイメージしていたのは、芯がないからテープがばらけてしまうような音だったんですよね。よく宇宙の音も頼まれたりしましたが、宇宙は空気がないから音も存在しないんですよ。それを言ってしまえばお終いなんですが、想像する音というのも音色のひとつだなと思っています。
浅倉 すごくわかります。ぼくも頭の中で鳴っている音を作りたくて、シンセを選んだので。世の中にない音を作るのが楽しいですよね。ぼくが音を作る場合、先ほどのホームランの音がいい例ですが、いちど頭の中で絵になるんです。その画像がくっきりしているのか、モザイクがかかっているのか、それとも抽象画なのか、その時々によって異なりますが、絵を音に置き換えていく。音を通じて、元となる絵のイメージを共有できたらと思って作っています。
松武 昨年(2016年)発表された25周年ベスト・アルバム『THE BEST WORKS OF DAISUKE ASAKURA quarter point』もそうですが、浅倉さんの音は挑戦し続けるアドヴェンチャー的な要素も感じるし、今おっしゃったように音をヴィジュアル化することもできますよね。この『ロジック・クロニクル』には効果音がたくさん入っている曲もありますが、ディスク3くらいまでは和音が出るシンセがそんなになかったので、音を重ねて作る必要があった。その分だけ時間がかかりましたね。プロフェット5が出てきてようやく楽になってきたんですよね。だから、パッドの音がほとんどない。
浅倉 そうですね、言われてみたら確かに! モノラルの一音でアルペジオしてコード感を出して、ディレイを使って重ねていく。そういう制約があったからこそ印象的なアレンジやフレーズが生まれたんでしょうね。あとは、17曲目に入っているイモ欽トリオの「ハイスクール ララバイ」! 松武さんが作ったテクノの音がお茶の間に降りてきたというエポックメイキングな曲ですよね。
松武 3人が歌っている後ろでパッチングしたこともありましたね。この頃からドラムマシンが出てきて、Linnのドラムマシン「LM-2」を使っていました。でも、高かったんですよ、これが。何百万という価格で。チップを取り替えて音を増設できたり、性能は良かったんですけど。
浅倉 「LM-1」は使ってらしゃったんですか?
松武 「LM-1」はダメだったんです。追従しない。テンポがついてこない、処理速度の問題で遅れちゃうんですよ。最後には止まっちゃう。
浅倉 でも、生ドラムでは出せない独特の音色がいいですよね。こうして聴き進めていくと、機材の進化もわかるのもすごい!
(対談収録:2017年1月26日)
文/油納将志
松武秀樹 HIDEKI MATSUTAKE
1951年生まれ。’71年より冨田勲のアシスタントとしてモーグ・シンセサイザーによる音楽制作を始める。’78~82年、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)にプログラマーとして参加してレコーディングや世界ツアーに帯同、“YMO第4の男”の異名を取る。ジャンルを超えた多くのアーティストの録音に関わりながら、’81年より自身のユニット「ロジック・システム」を始動し、アルバムの海外発売も実現。現在、一般社団法人日本シンセサイザープロフェッショナルアーツ代表理事。最新著書『松武秀樹とシンセサイザー~Moog Ⅲcとともに歩んだ音楽人生』(DU BOOKS/2015)
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浅倉大介 DAISUKE ASAKURA
1991年デビュー。ソロ・アーティストとして、またaccess、Iceman等のユニットとしても活動。コンピュータ、シンセサイザーを自由に使いこなし、特にデジタルメディアへの積極的かつ斬新なアプローチが高い評価を受けている。中森明菜、T.M.Revolutionなどの作曲・編曲、プロデュース活動も多岐にわたり、デジタルサウンド・クリエイター、キーボーディストとして柔軟な活動を展開している。ソロ活動25周年の2016年は記念ベストアルバムを発表。2017年4月からはaccess 25th Anniversary ELECTRIC NIGHT 2017を行う予定。
オフィシャルウェブサイト
絶賛発売中『THE BEST WORKS OF DAISUKE ASAKURA quarter point』
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