30年を振り返る。「ここから、はじまるんです」石原詢子
9月6日に発売された新曲『雪散華~ゆきさんげ~』で30周年に突入した石原詢子。
そこで石原詢子という歌手の本質を改めて知っていただこうと、デビューからこれまでの日々…時に暗闇の中へ突入し、時に太陽が降り注いだ…そんな曲がりくねった長い道のりを、10年ごとのスパンに分けて、彼女自身にガッツリと振り返っていただきました。
インタビュー/村田弘司(歌の手帖 編集長)
★デビューから10年目
挫折の日々
━━ デビューからの10年で、まず思い出すことは?
「デビューしてからの数年は、もう歌手をやめた方が良いのかなぁ…と思うことが多かったですね。若さでガムシャラに、手探りで毎日をすごしていましたが、夢ばかりが先行して、キャンペーンに行けば数人しかお客さまがいなかったりと、そういう厳しい現実を目の当たりにして、“こんなはずじゃないのになぁ…”と思うことの繰り返しでした。本当は唸り節の演歌でデビューしたかったのに、当時は自分の唄ってみたいタイプの楽曲じゃなかったりしたことで、“思い通りにことは運ばないんだなぁ…”と落ち込んだり」
昭和63年 デビューシングル「ホレました」リリース当時のイベントにて
━━ その挫折の日々から、最初に希望の光が射したのは?
「『雨の居酒屋』(平成4年)をいただいた時に、3万枚を突破したんです。 “石原詢子は絶対にいける!”と一生懸命やってくれるソニーレコードのスタッフさんもいてくださいましたから、そういう方達と二人三脚で『雨の居酒屋』を頑張って…この歌は頑張ったぶんだけ、結果が返ってくる作品で、初めて3万枚を突破したんです。3万枚というのは、最初の大きな壁でしたからね。越えなきゃいけないハードルを越えて、ソニーさん全体が“いけるかもしれない”という空気感になっていったんです。それで続く『北しぐれ』(平成5年)は5万枚を突破。そこから、私の中で“歌手をやっていけるかもしれない”という気持ちに変っていきました」
風が吹いてきた
━━ 連続ヒットで、道が開けてきた?
「そう私も思っていた矢先に、『三日月情話』(平成6年)をいただいたんですが…この歌はカラオケで唄っていただける『雨の居酒屋』『北しぐれ』とはタイプの異なる作品だったんです。だから、何でこのタイミングでこの歌なんだろう?とすごく心配になりました。案の定、売り上げは伸びず、残念ながら3万枚に届きませんでした」
━━ 『三日月情話』も魅力的な歌ですけどね。
「売り上げは伸び悩みましたが、私的にはとても好きな歌です。そして、なんとこの『三日月情話』は日本作詩大賞で優秀作品賞を受賞しました。それで、その日本作詩大賞のテレビを見ていた、別のテレビ局の方が私に注目してくれて、その方がある番組の司会に抜擢してくださったんです。その後、NHKの『コメディー お江戸でござる』のレギュラー出演が決まったり、今まで出たことのない番組にも出演させていただいたりして、トントン拍子に良いお話をいただくようになりました。『三日月情話』をいただいた時は、それまでの歌の世界観との違いに愕然としましたけど、この歌が日本作詩大賞の優秀作品賞を受賞したことで、私の歌手人生に良い風が吹いてきたんです」
━━ 結果的に『三日月情話』が、その風を運んできてくれた?
「そうなりましたね。そして、その後に発売した『夕霧海峡』(平成7年)の時に、両親との別れがあって…これが私にとって、最初の大きなターニングポイントでした。父と母が病で続けて亡くなって、もう私の帰る場所、逃げ場所がなくなってしまった。それで覚悟を決めて『夕霧海峡』を1年半かけて必死に売っていき、最終的には18万枚を突破。続く『桟橋』(平成8年)、『手鏡』(平成9年)も連続で10万枚突破のヒット作となったんです」
━━ この最初の10年で学んだことは?
「最初の5年が私を強くしてくれましたし、その経験があったからこそ、これから何が起きても…唄うことが好きだったら“またその底辺からやれば良いじゃない”と思えるようになったんです。当時は、女性歌手はあまりやらないお酒の出るようなお店で、手売りの夜キャンペーンもありましたし、そういうのを1日7~8軒とか回ったり、辛くて泣いたこともありましたけど、その時代を体験したからこそ、辛いことも乗り越えられてきたんです」
★11年目から20年目
売れる、ということ
━━ 11年目から20年目のことですが、ここからは昇り調子ですね。
「『人恋しぐれ』(平成10年)の年に、“ひょっとしたら、今年は紅白に行けるかもしれない”と周囲の方々が言ってくださるようになったんです。紅白なんて当時の私にはすご~く遠くの方にある夢でしたけど、この歌のヒットでその夢が近寄ってきている実感を持てたんです。そして、石原詢子は売れてきている、という周りの方からの意識が、私を大きく変えてくれました。見られている、注目されている、というのが私自身の根幹を変えてくれたんです」
━━ 平成11年には、石原詢子の代表作となった『みれん酒』を発売。この歌は石原さんがラジオ大阪で持っていたレギュラー番組の企画で、リスナー投票によって選ばれた作品。
「『みれん酒』『えにしの糸』『終着みなと』の3曲から、リスナーさんに好きな歌を投票していただき、『みれん酒』が圧倒的な票数で選ばれたんです。また『夕霧海峡』も、その番組の同じ企画からリスナーさんに選ばれた作品ですけど、私が本当に唄いたかったのは、どちらも違う曲だったんです(笑)」
━━ 歌い手が求めるものと、聴き手が求めるものは、異なることが多いものですよね。
「ですね(笑)。それで『みれん酒』を発売したら、あれよあれよという間に売れていきました。特に『コメディー お江戸でござる』で唄わせていただいた翌日は、約4千枚の追加注文があったり…これまでやっていたキャンペーンで4千枚売るのに、どれだけ回らなくちゃいけないの?と驚いて(笑)。あの時は本当に凄かったですよ。キャンペーンでも、今までたくさん来ていただいても100人くらいだった場所に、1000人くらいのお客さまが集まってくれるようになって。また、それまではお話しすることもできなかった大御所の先輩歌手の方々からも、“頑張っているね!”と声をかけていただけて。“ああっ、曲が売れるとこんなに違うんだ…”と思いましたね」
念願の紅白
━━ そして『人恋しぐれ』で近寄ってきたNHK紅白出場のチャンスが、『みれん酒』のヒットでより現実味を帯びてきた?
「あの時は、まわりのみんなが“絶対に紅白に出れる!”と言ってくださって、私自身も“出れるかも”と期待していたんですけど、フタを開けてみると駄目で…その時は、すごいショックで落胆しました。でも、自分自身を奮い立たせて、翌年は『おんなの涙』(平成12年)でまた頑張って、良い数字を残すことができて、その年に念願の紅白初出場が決まったんです」
平成12年「おんなの涙」リリース当時
━━ 平成12年、紅白初出場で唄った時のことは覚えていますか?
「初出場の時は無心で、唄っている時は全然覚えてなくて、唄い終えた時に、我に返って“はぁ~、終わった”と思ったら、足がすごく震えだして、やばい!舞台袖まで帰れないかも、と(笑)。緊張のピークを越えていましたね。唄っている時の記憶は全然ないくらい緊張していたんですが、家に帰ってビデオを観たら、今まで以上にちゃんと唄えていて…無心で唄っていたのが良かったのかも」
━━ 色々と考えるより、無心で唄った方が良いんですかね?
「そうかもしれません(笑)。とにかく紅白に出場できて、ここからはどんなに忙しくても毎日が楽しくて。テレビに出させていただく回数も増えて。本当に紅白の影響っていうのはすごいんだなぁ、と。紅白に出させていただいたことによって、ワンマンのコンサート…ファーストリサイタル(平成12年)の夢もようやく叶いました。それからコンスタントに全国各地でコンサートもさせていただけるようになったのは、本当に嬉しかったです」
私の原点
━━ 平成15年にも『ふたり傘』で2回目の紅白に出場されましたが、20年目までで、他に重要だった作品は?
「『明日坂(詩吟「宝船」入り)』です。元々は平成7年のアルバム『石原詢子ヒット全曲集’96』に収録した曲で、その後『あなたと生きる』(平成14年)のカップリングになり、平成16年には『明日坂』としてシングル発売していただきました。いまだにリクエストも多い作品ですし、長いスパンで多くの方々に親しんでいただいている歌だと思います」
平成16年「明日坂」リリース当時
━━ 詩吟揖水流(いすいりゅう)家元の長女として生まれ、4歳から詩吟を習ってきた石原詢子さんにとって、人生のベースとなっている詩吟を入れた作品、というのが大きいですよね。
「詩吟はある意味、私の原点であり、すべてであり、私を作っているもの。それを初めて取り入れていただいた作品『明日坂(詩吟「宝船」入り)』は、『みれん酒』『ふたり傘』に次ぐ私の代表曲だと思います」
幼少時代 父と
━━ 歌謡浪曲を習い始めたのも、この30代?
「そうですね。38歳頃に二葉百合子先生に弟子入りして、歌謡浪曲を学び、20周年コンサート(平成21年)の時に、その歌謡浪曲に初挑戦したのも想い出深いです」
平成21年「20周年リサイタル」
ジレンマ
━━ 20年目までの30代は、とても充実した10年だった?
「はい。アッという間に日めくりカレンダーがビリビリと破れていくように、慌ただしく毎日が過ぎていく、内容がギュっと詰まって充実した10年でした。それだけに、遊ぶこととは無縁。20代の頃の方があっちこっち遊びに行きましたが、30代はそんな時間もなかったので、女盛りにもったいないことをしたな…と(笑)」
━━ 10年目までと比べて、この20年目までの30代に、歌心はどう変化されましたか?
「最初の10年はマイナー調の悲恋の歌が多かったんです。でも、『みれん酒』以降はメジャー調のしあわせ演歌を多く唄わせていただいたのですが、もっといろんな歌を唄ってみたい、という欲が出てきたんです。この時期、とても仕事は充実していましたけど、しあわせ演歌だけでなく、もっと新しい自分を作っていかないといけない…という思いは30代からより強くなりました」
★21年目から30年目
チャレンジ
━━ 21年目から、その思いが作品に強く反映されるんですね。
「20周年を超えたあたりから、私も少しずつ自分の意見を言って、スタッフの方々と一緒に楽曲制作にも携わるようになりました」
━━ その意見と言うのは?
「もっと色々な作品にチャレンジしようと、『風よ吹け』(平成21年)、『逢いたい、今すぐあなたに…。』(平成23年)、『化粧なおし』(平成28年)と、今までにないタイプの歌にも挑戦できるようになったんです」
━━ チャレンジの作品作り?
「ええ、私も一緒に楽曲作りに携われるようになったこともあって、それまでになかったタイプの作品も唄えるようになった10年です。もちろん、すべて思い通りにはいかないですし、制作のディレクターさんにはディレクターさんの、営業の現場の方には現場の、作る側の作家の先生には先生だからこその意見があり、その中で、私の意見も考慮してくださるようになりました」
━━ そういう30年目までの10年で、象徴的な作品は?
「『逢いたい、今すぐあなたに…。』です。この歌を作っていただく時に私は“こういう歌を唄いたい!”と主張させていただいたんですが、まさしくそういうチャレンジの作品でした」
━━ 作詞のいとう冨士子さんは、石原詢子さんのペンネームで、お母さまの旧姓なんですよね。なおこの作品は、東日本大震災の直後に発売されたことで、唄えないこともあったとか?
「東日本大震災が起こった年って、色々とテレビでも自粛があったじゃないですか。『逢いたい、今すぐあなたに…。』には、ちょっと自粛しないといけないフレーズがありまして、テレビで唄うことができなかったんです。だから、あまり日の目をみなくて、かわいそうな作品だったんです。できれば、もう一回出し直したいくらいです」
市川昭介先生
━━ この時代、演歌作品で想い出深いのは?
「『しあわせの花』(平成23年)です。これは平成18年にお亡くなりになられた市川昭介先生の作品なんですけど、市川先生の遺作から石原詢子に合う楽曲を探していただき、ご遺族の方から“ぜひ唄ってください”といただいた曲なんです」
━━ 生前、市川昭介先生に書いていただいた作品は?
「『雨の居酒屋』のカップリング『道しるべ』と、内藤国雄さんとのデュエット『夜のおとぎばなし』(平成3年)がそうだったんですが、私のソロで、シングルA面曲は、実はなかったんです」
━━ 市川先生との想い出は?
「市川先生の作品ではないんですけど、『北しぐれ』(平成5年)の時に、一回レコーディングしたんですけど、唄い切れてなくて、再録音することになったんですね。そんな時、三重テレビで市川先生が審査員をされている番組があって、そのゲストで私が出演した際、市川先生に“今度、レコーディングし直さないといけない歌があるんです”と言ったら、“ちょっとレッスンにおいで”と先生はおっしゃって、実際にレッスンをしてくださったんですよ。それが始まりで、何かにつけて、市川先生のところに歌のレッスンを受けに行かせていただいたんです。それも、市川先生の作品じゃないのに、先生はいつも快く受け入れてくださって。それ以降も市川先生の曲を唄えるご縁はなかったので、『しあわせの花』でようやく先生の歌を唄わせていただけることになって、とても嬉しかったです」
未来を開く鍵
━━ 今年(2017年)のNHK「新BS日本のうた」では、憧れだった石川さゆりさんと初共演。
「子供の頃、テレビで『津軽海峡・冬景色』を唄う石川さゆりさんを観て、将来は歌手になりたい!と思った私ですから、石川さゆりさんは憧れの方であり、特別な存在。そんなさゆりさんの隣に立って一緒に唄うのは、デビュー29年目にして初めてだったんです。長い道のりでした。もう胸がいっぱいになりました」
━━ 石川さゆりさんの横で、石原さんが『津軽海峡・冬景色』を唄われたんですよね。
「さゆりさんの横で『津軽海峡・冬景色』を唄わせていただいた時もそうでしたが、別の機会に『北の女房』を一緒に唄った時も心臓が飛び出そうになるほどめちゃめちゃ緊張しました。一緒に唄いながら横を見ると、さゆりさんも唄いながら微笑んでくださって、とても感動して唄えなくなりそうでしたから、それからさゆりさんの方を見ないで、なんとか唄い切りました…(笑)」
━━ 20年目からの10年を改めて振り返ると?
「以前に比べると、歌を披露する場所や歌番組も減ってきて…音楽業界が苦しい時代に突入して、ヒット作を生む苦しさにもがいた10年でもあります。でも、だからこそ、これまでできなかったチャレンジができるようになり、石原詢子をもっと幅広く表現できるような作品を作ることができた10年、でもありますね」
━━ 30周年記念曲『雪散華~ゆきさんげ~』は、まさしく、また新たなチャレンジ精神が結実したような、今までの石原詢子作品にはなかったタイプの意欲作。
「はい。ここからはじまる、と思える作品です。こういう激しい女の情念を描いた作品を、ずっと唄いたかったんです。そして、これからの石原詢子が進化する、大きなきっかけの歌になるんじゃないかな…いや、そうしないといけない、と思います」
━━ 最後に、これから達成したい夢の目標は?
「誰もが口ずさめるようなヒット曲を…可能性は決してゼロではなく、その未来を開く鍵は必ずあると思うんです。幸い、これから演歌を唄うにおいて、私は脂がのってくる年代に突入しますから、隠されている鍵をワクワクしながら見つけ出していきたいですね」
石原 詢子
1988年10月 | シングル「ホレました」で演歌のアイドル「エンドル」としてCBSソニーからデビュー。 キャッチコピーは「私はあなたの日本一。」 |
1994年 | 7枚目のシングル「三日月情話」が第27回日本作詩大賞優秀作品賞を受賞 |
1994年 | アルバム収録曲「予感」がNHK「サンデー経済スコープ」エンディングテーマに起用 |
1997年 | NHK「どんとこい民謡」の司会に抜擢 |
1997年 | 10枚目のシングル「手鏡」で「第30回日本有線大賞」有線音楽賞受賞 |
1998年 | NHK「コメディーお江戸でござる」(後に「コメディー道中でござる」)に7年間レギュラー出演 |
1999年 | 12枚目のシングル「みれん酒」が大ヒット、「第32回日本有線大賞」有線音楽賞受賞 |
2000年 | NHK「第51回NHK紅白歌合戦」(歌唱曲「みれん酒」)初出場 |
2001年 | セネファ「せんねん灸」CMイメージキャラクターとしてCM出演、CMソングを担当(16年目) |
2003年 | 17枚目のシングル「ふたり傘」が大ヒット、NHK「第54回NHK紅白歌合戦」(歌唱曲「ふたり傘」)出場 「第36回日本有線大賞」有線音楽賞受賞、「第36回ベストヒット歌謡祭」(旧全日本有線放送大賞) ゴールドアーティスト賞受賞、プレイステーションゲームソフト「新DX億万長者ゲーム」にキャラクター出演 (ゲーム内のオープニング・テーマ「浮世物語」、エンディング・テーマ「ラビリンス」の歌唱も担当) |
2004年 | 元旦、「第84回天皇杯全日本サッカー選手権大会」(国立競技場)で国歌独唱 NHK『中学生日記』エンディング・テーマ「ガンバレ!ワタシ」(45年間放送された同番組開始以来唯一のボーカル入りの番組オリジナルのエンディング・テーマ曲)歌唱 |
2006年 | 初主演舞台「終着駅」(全10回公演/音楽制作:つんく) |
2007年 | 故郷、岐阜県「飛騨・美濃観光大使」就任 |
2015年 |
第39回全国育樹祭にて皇太子殿下ご臨席のもと国歌独唱 これまでにシングル39枚、アルバム38枚をリリース |
出演情報/イベント
9/9(土) | 「ふるさと自慢うた自慢」NHKラジオ第1 16:05~ 放送予定 |
9/30(土) | 「ふるさと自慢コンサート」NHKラジオ第1 16:05~ 放送予定 |
10/15(日) | 「新・BS日本のうた」 NHK-BSプレミアム 19:30~20:59 放送予定 |
11/3(金・祝) | 「デビュー30周年記念 石原詢子ディナーショー」 【会 場】 ホテルJAL シティ 田町 東京 「鸞鳳(RANHOU)」B1F 【時 間】 16:30~受付/17:00~ディナー/18:15~ショー |