「ゆっくりと、どっぷりと、ジャコに漬かって頂けたら幸いです」
中村梅雀
俳優として活躍しまたジャコを敬愛するベーシストとしても有名な中村梅雀、監修・選曲による不世出の天才ベーシスト=ジャコ・パストリアスのベスト・ワークス集! ジャコパスのソロ・アルバム、ウェザー・リポートのアルバムから選曲。
収録曲
- ① ドナ・リー
Donna Lee by ジャコ・パストリアス - ② コンティニューム
Continuum by ジャコ・パストリアス - ③ トレイシーの肖像
Portrait Of Tracy by ジャコ・パストリアス - ④ キャノン・ボール
Cannon Ball by ウェザー・リポート - ⑤ バーバリー・コースト
Barbary Coast by ウェザー・リポート - ⑥ お前のしるし
A Remark You Made by ウェザー・リポート - ⑦ ハヴォナ
Havona by ウェザー・リポート
- ⑧ スラング
Slang (Bass Solo) by ウェザー・リポート - ⑨ ティーン・タウン
Teen Town by ウェザー・リポート - ⑩ リヴァー・ピープル
River People by ウェザー・リポート - ⑪ パンク・ジャズ
Punk Jazz by ウェザー・リポート - ⑫ スリー・ヴューズ・オブ・ア・シークレット
Three Views Of A Secret by ウェザー・リポート - ⑬ リバティ・シティ
Liberty City by ジャコ・パストリアス - ⑭ 忘れ去られた愛
Forgotten Love by ジャコ・パストリアス
出典アルバム
-
ジャコ・パストリアスの肖像
Jaco Pastorius(1976)
①②③⑭⑮ -
ブラック・マーケット
Black Market(1976)
④⑤ -
へヴィー・ウェザー
Heavy Weather(1977)
⑥⑦ -
8:30
(1979)
⑧⑨ -
ミスター・ゴーン
Mr. Gone(1978)
⑩⑪ -
ナイト・パッセージ
Night Passage(1980)
⑫ -
ワード・オブ・マウス
Word Of Mouth(1981)
⑬
<<読み物としても楽しい豪華ブックレット付>>
●中村梅雀による解説・ジャコのブラック・ジャズ・ベース物語
●松下佳男(元アドリブ編集長)による曲解説
●ジャコ・パストリアス・バイオグラフィーほか
中村梅雀
(なかむら・ばいじゃく)
Photo by Hiroaki Nagino
1955年東京出身。代々歌舞伎俳優の家に生まれ9歳で初舞台。舞台、テレビ、映画など多方面で活躍。受賞も多数。ピアニストだった母の影響で12歳からベースギターを弾く。ベーシスト・作曲家としても活動。2008年初ソロ・アルバム『Bright Fortune』リリース。
Jaco Pastorius
(ジャコ・パストリアス)
text by 松下佳男
1951年12月1日、ペンシルヴァニア州ノリスタウンで生まれる。ジョン・フランシス・パストリアス3世と命名される。父、ジャック・パストリアスはジャズ・シンガー&ドラマー、ジャコの音楽のきっかけは父の影響が大きかった。
1959年7月、パストリアス一家はフロリダ州フォート・ローダーデイルに移住。ジャコは父からもらったドラムをプレイし、13歳で本格的にドラムを始める。その後、フットボールの練習試合中に手首の骨を骨折。当時ラス・オラス・ブラスという地元のR&Bバンドでドラムをプレイしていたジャコだが骨折による後遺症で手首に力が入らなくなり手術した。その頃、バンドのベーシストが空席になったためベースに転ずる。ベースは質屋で入手。ジャコは並外れた集中力の持ち主で、たった一週間の練習でベーシストとしてバンドに参加することになる。新聞配達のアルバイトで得た収入で、1966年製のフェンダー・ジャズ・ベースの新品を購入。
1968年ジャコのテクニックは向上し、フロリダで注目のベーシストとして認知された。左手ミュートによるファンキーなベース・スタイル、ハーモニックス、「アコースティック360ベースアンプ」、そしてフェンダー・ジャズ・ベースによるジャコの典型的スタイルは完成しはじめていた。
1969年、自身がリーダーとなったファンク・トリオ、ウッドチャックのメンバーとして活動。その後、地元のR&Bバンド、トミー・ストランド&ジ・アッパー・バンド、ウェイン・コクラン&C.C.ライダーズのベーシストとして活動。その時、運命の楽器となる「フェンダー・ジャズ・ベース1962」をケース付きで90ドルで入手。ライダーズ在籍9ヶ月の間に、バンドのミュージック・ディレクター、チャーリー・ブレントから様々な音楽知識を学ぶ。この時期に自身でフレットレス・ベースに改造。ジャコは作曲やアレンジの取り組みにも貪欲だった。<アメリア>はジャコが作曲した最初の曲。またバンドのためにジェイムス・ブラウンの〈ザ・チキン〉などをアレンジ。その後ジャズ・サックス・プレイヤーのアイラ・サリヴァンのバンドで定期的に活動し、一方でピーター・グレイヴスが率いるビッグ・バンドでも活躍。
1974年3月、マイアミのクリテリア・スタジオでデモ・アルバムをレコーディング。デビュー作に収められた曲<コンティニューム>、<オーカス・ポーカス>などがある。1975年7月、衝撃のデビュー・アルバム「ジャコ・パストリアスの肖像」のプロデューサーとなるブラッド・スエット&ティアーズのボビー・コロンビーと出会う。エピック・レコードとソロ契約。9月~12月、デビュー・アルバムをレコーディング。12月、ウェザー・リポートのツアーでマイアミを訪れていたジョー・ザヴィヌル(kyd)と出会い、デモ・テープを手渡す。1976年1月、ジョー・ザビヌルから声がかかりウェザー・リポート「ブラック・マーケット」をレコーディング。〈キャノン・ボール〉と〈バーバリー・コースト>(ジャコ作曲)で華麗なベース・プレイを見せる。4月1日、ウェザー・リポートに正式加入。「ジャコ・パストリアスの肖像」をリリース、グラミー賞2部門でノミネートされる。7月ウェザー・リポートでモントリュー・ジャズ祭に参加。10月、ウェザー・リポートの「ヘヴィー・ウェザー」(ジャコは共同プロデュース)をレコーディング。1977年3月、「ヘヴィー・ウェザー」をリリース。50万枚をこす大ヒットとなる。<バードランド>と<ティーン・タウン>がシングル・カットされる。これを機にウェザー・リポートは大ホールでコンサートを行うようになる。
1978年2月、ウェザー・リポート「ミスター・ゴーン」(ジャコは共同プロデュース)をレコーディング。6月21日から7月2日にかけてジャコはウェザー・リポートで初来日。ウェザー・リポートのアメリカでのワールド・ツアーのライヴ演奏をアルバム「8:30」(ジャコは共同プロデュース)のために8月~11月にかけて録音。1979年6月、ウェザー・リポート、プレイボーイ・ジャズ・フェスティバルに出演。8月、ウェザー・リポートのアルバム「8:30」リリース、グラミー賞受賞。11月2日ベルリン・ジャズ・フェスティバルでベース・ソロ・ライヴを行う。
1980年1月ワーナー・ブラザーズとソロ契約。6月21日~7月4日にかけてウェザー・リポートで来日。6~7月、ウェザー・リポート「ナイト・パッセージ」(ジャコは共同プロデュース)をレコーディング。8月「ワード・オブ・マウス」の録音をフロリダ在住のエンジニア、ピーター・ヤロネスとともにスタート。11月ウェザー・リポートの「ナイト・パッセージ」リリース。
1981年5月31日~6月14日にかけてウェザー・リポートで来日。7月、ソロ・アルバム「ワード・オブ・マウス」をリリース。9月ウェザー・リポートの「ウェザー・リポート」をレコーディング。12月1日、故郷フォート・ローダーデイルのナイトクラブ“ミスター・ヒップス”で30歳のバースデイ・ライヴ・パーティを行なう。その後、1995年「バースデイ・コンサート」として発表された。12月ウェザー・リポートを脱退。
1982年1月、ウェザー・リポートの「ウェザー・リポートをリリース。1月15日、ワード・オブ・マウス・ビッグ・バンドの正式デビュー公演がニューヨーク“サヴォイ・シアター”で開かれる。その後マイアミ、シカゴ、サンフランシスコ、ニューヨーク(クール・ジャズ・フェスティバル)などで全米ツアーを敢行。9月1日~5日、東京、横浜、大阪でワード・オブ・マウス・ビッグ・バンドで来日コンサート(オーレックス・ジャズ祭1982)。
1983年1月「オーレックス・ジャズ・フェスティバル82ライヴTWINS1&2/ジャコ・パストリアス・ビッグ・バンド」を日本のみでリリース。4月「TWINS1&2」を1枚にしたコンパクト盤「インヴィテイション」を全米リリース。5月、ワード・オブ・マウス・スモール・バンドで来日。ギタリストの渡辺香津美が参加。
1984年2月~5月ニューヨークのクラブで定期的にライヴを行う。6月“プレイボーイ・ジャズ・フェスティバル”に出演。7月、“第7回ライヴ・アンダー・ザ・スカイ”にてギル・エヴァンス・バンドのゲストとして、最後の来日を果たす。
1985年~1986年にかけて、ニューヨークやヨーロッパなどで精力的なツアーをおこなう。1987年2月、ニューヨークからフロリダへ生活を移す。4月~9月体調を崩し不安定な生活を送る。9月11日、ジャコはカルロス・サンタナのコンサートを見た後、フォート・ローダーデイルの郊外にあるミッドナイト・ボトム・クラブで入場を断られ、用心棒と乱闘になり意識不明の重体になる。昏睡状態は10日間続き、9月21日、収容されていたプロワード・カウンティ・ジェネラル・メディカル・センターにて親族が見守る中、かえらぬ人となる。享年35。