抜群なまでにユーミンの日本語が耳にしっかりと入ってくるサウンドだった。マスタリングは誰がやっているのだろうってクレジットを見たら……。
―― 前田さんと、バーニー・グランドマンとの出会いから教えていただけますか。
前田 僕はこの世界に入った時からマスタリングを学びたかったんですよ。でも80年代当時の日本では僕が目指すサウンドを学ぶ場所が見つけられなかった。だから海外に行くしかなかったんですよ。その時、アメリカにはマスタリングの先駆者というか巨匠がふたりいたんです。バーニー・グランドマンとボブ・ラディック。どちらを目指すというか、言い方を変えればどっちの門を叩くかっていう材料の決め手になったのは、日本のアーティストのサウンドが僕にとって良く聴こえるほう。バーニーは当時ユーミンをずっと手がけていて、ラディックはラフィン・ノーズとか。自分のなかで邦楽やるならバーニーに学んだほうがいいだろうと思って、バーニーの門を叩いたということです。
―― バーニーに惹かれた決定打的な作品があったのですか。
前田 ユーミンの『ダイアモンドダストが消えぬままに』(’87年)ですね。僕は二十歳前後の頃、ポリドールスタジオ(当時)で働いていて。じつはそれまで邦楽を全然聴いてなかったんだけど、仕事でカラオケの音を録るための確認のために『ダイアモンドダストが消えぬままに』を聴いてみたら音が抜群に良くて、正直ビックリですよ。これマスタリングは誰がやっているのだろうってクレジットを見たら「Bernie Grundman」って。
―― その時はタイトル曲に惹かれたのですか。
前田 あの曲、この曲が良いというとらえ方はしなかったですね。アルバム全般ですよ。マスタリングってそういうことですから。ミキシングにしてもそうですけど。ユーミンのCDに関していえば、抜群なまでに日本語が耳にしっかりと入ってくるサウンドだった。その時に、最先端を行く邦楽に対して正確なアプローチがここまでできる人だったら絶対に術を学びたいと思いましたね。ユーミンは実際に日本のトップとしてアルバムも桁外れに売れていましたし、マスタリングを勉強したい僕としては、結果的に100万枚売る「技術力」が欲しいと思ってバーニー・グランドマンを選んだと言っても過言ではありません。
バーニー・グランドマンに会いたい! その一心だけでなんの伝手もないままバイトで貯めた200万円だけ握って単身渡米しちゃいました。
―― 実際にバーニー・グランドマンの門をどうやって叩いたのですか。
前田 え!? そんな個人的な苦労話をしてどうするんですか(笑)。
―― 日本の先駆者として若い頃の苦労話も是非聞きたいんですよ(笑)。
前田 いいですけど長くなりますよ(笑)。本場でマスタリングの勉強をしたかったからポリドールの仕事をやめて、さらにバイトで200万円くらい貯まったところで荷物をまとめて単身でアメリカ西海岸に行きました。最低限のお金だけ握って、なんの伝手もなくロサンゼルスへ。バーニーのところに辿り着きたかったから、とりあえず目指すはハリウッド!
―― 聞こえはいいですが……無茶苦茶ですね(笑)。
前田 若かったからね(笑)。とにかくバーニーに会いたい一心ですよ。でもとりあえずはアメリカに滞在するためのビザが必要だから英語学校通ったんです。当時B1、B2っていう旅行ビザを取らなきゃいけない時代だけど、旅行ビザだと2週間とか、長くても3週間だから、何ヶ月も滞在するためには学生ビザ必要でね。英語を勉強したのは半月くらいだったかな。それでもう日本に帰ろうと思って、辛かったから。スタジオにも入れないし、バーニーにも会えないし(笑)。
―― だってそもそも伝手がないですからね(笑)。
前田 そうですよね(笑)。日本に帰る前にやっぱり悔しいから、ロサンゼルス中のスタジオに電話してやろうと思ったんですよ。覚えたての英語で片っ端からダイヤルしました。でもカタコトの英語だから途中で切られちゃうんですね。もうイイや!って諦めかけた時に、パラマウント・レコーディング・スタジオにたまたま日本語が喋れるスタッフがいたんです。電話口で「おまえ日本人?」「だったらスタジオ遊びに来いよ」って。彼に言われるがままスタジオに遊びに行って、すぐさま「自分は日本ではレコーディングの仕事をやっていた!」って豪語したら、「それじゃあオレのデモ録ってくれ」って。
―― あ、風向きが変わってきましたね。
前田 運がよかった。彼はスタジオでブッキングのマネージメントをしているミュージシャンだったんです。そのスタジオで彼のデモ音源を録るようになって、そのうちに他のスタッフも「オレのもやって」って。たまたまオーケストレーションで録る場面があって。スタッフが少し困っているようだったので、「僕これは日本で全部やっていましたって」って。カラオケ録りの時にひとりでやっていたから、日本と同じように全部セットアップして録音できるようにしたら、チーフエンジニアに認められて「ここで働け!」って。
―― すごい。道が開けましたね!
前田 アシスタント・エンジニアになりました。人使いが粗い先輩に付いたのであちこちに車をドライヴさせられたり、夜食を買いに行かされたりして。ある日、いつものセッションが終わってマスタリングする時に「Bernie Grundman」と書いてある文字を見てビックリですよ。「も、もしかして今日バーニー・グランドマンの所に行くの?」って。「そうだよ。お前がドライヴして行くんだよ!」って。あのバーニーの所にこれから僕は向かう……って。
―― お話を聞いているだけで胸が高鳴ってきました!
前田 初対面でどんな挨拶をしたのかもう憶えていないけれど、「あなたのマスタリングを勉強したくてアメリカに来た!」って訴えたら、バーニーはあっけなく「レコーディングのほうが楽しいぞ」って(笑)。でも「マスタリングを学びたいから!」って引き下がらないでいたら、「どっちにしても今は空きがないからここでは働けないよ」って。でも諦めきれないから「邪魔にならない時間だけでもいいので仕事を見せて欲しい!」って頼んで。そこからバーニーがひとりで働いている土日とかにスタジオに行くようにして、ずーっと1年間横にいて、ずっーと勝手な見習い的なことをしていましたね。
ハリウッドでのアシスタント時代(22歳)。隣は師バーニー・グランドマン。
1年間ずーっとバーニーの横で仕事を見ていたけれどなんの進展もないので、「バーニー、悪いんだけど、ボブ・ラディックに僕の紹介状を書いてもらえない?」って(笑)。
―― パラマウント・レコーディングの仕事とバーニーの見習いの両立ですか。
前田 だから基本は寝てた(笑)。パラマウントでレコーディング・エンジニアもやらせてもらうようになっていたから土曜の朝まで自分の仕事をして、終わってからバーニーの所に行ってというのが何日も続きました。バーニーの横に立っていたはずなんだけど、気がついたら寝てた(笑)。でもバーニーは何も言わなかった。当時バーニーはウィルソン・フィリップスとかドクター・ドレとか手がけていたけれど、その音がまたスゲー気持ちよくて聴きながら寝ていました(笑)。
―― ハハハ。もしかしてそのまま気に入られて正式採用ですか。
前田 いやいやそんなに甘くないから。1年間ずーっとバーニーの横にいたけれどなんの進展もないので、正直もう限界かなと思って。でもマスタリングの勉強をする夢は諦めたくなかったから、「バーニー、悪いんだけど、ボブ・ラディックに僕の紹介状を書いてもらえない?」って(笑)。そしたらバーニー、本当に書いてくれて。めちゃくちゃいい人だから。気持ちはちょっと複雑だったけれど嬉しかった。でもしばらくしてバーニーの所にラディックから断りの手紙が届いたんです。「うちも空いてない」って。
―― ショックですね。
前田 相当ね。いまだにラディックからのお断りの手紙は持っていますから、これは捨てられないですよ。そしたらバーニーが「うちで働きなさい」って。結局’89年にバーニー・グランドマンのスタジオに正式に入りました。アシスタントとしてあらためてバーニーの横に立ったら「なんで作業の流れがわかるの?」って。「だって1年間あなたの横にいたから」。ホントに1年間横からバーニーの作業を観ていたから、アシスタント業務は全部わかっていたんです。これは日本人の特技だと思う。目で見て覚えるっていう職人修行の業というか。でもアメリカ人はそういうことをあまり理解出来ていない印象でしたね。そこから、重宝されました。
―― 日本人云々以前に、前田さんの目標意識の高さだと思いますが。いずれにしても本格的な修行が始まりましたね。大物アーティストに接する機会も増えたでしょうね。
前田 もう自分が憧れているアーティストがバンバン来るわけですよ。マイケル・ジャクソンがスタジオに来た時は驚きましたね。ある日、電話がかかってきて、「ビッグPだけど、ビッグ・ベースいる?」って。ブライアンってエンジニアのことで、「なんかビッグPと名乗る人から電話なんだけど……」「プリンスだよ! おまえ失礼な態度で応対していないだろうな」。「あ!?…たぶん大丈夫です」みたいな感じ。あーいま自分はハリウッドのスタジオで音楽の仕事をしているんだって実感できる毎日でしたね。
―― 西海岸から当時の日本の音楽シーンも客観的にとらえることができたのではないでしょうか。
前田 まさに。いずれは日本に帰るつもりだったから、全部リサーチしていました。バーニーのスタジオでマスタリングした広瀬香美さんがヒット、同じくB'zもどんどん売れていく、そしてTK時代……小室さんは実際にバーニーのスタジオにも来ていましたからね。globeのアルバムや安室奈美恵さんの「CAN YOU CELEBRATE?」もウチでしたね。バーニーのスタジオがマスタリングしたサウンドが日本で邦楽ミリオンヒットになっていく様子はいろんな意味で勉強になりました。そんな僕が日本で初めて仕事したのは、たまたま帰国していた時に声をかけられた安室さんの『SWEET 19 BLUES』(’97年)でした。青山にあったエイベックスのオフィスにアナログ器機を稼働させられる仮設のマスタリング部屋をわざわざ作ってね。エンジニアのキース・コーエンと一緒にマスタリングしましたね。
Bernie Grundman Mastering Tokyoの代表になりましたが、ハリウッド本社で得たあの音楽作りのエッセンスだけは忘れなかった。
―― この頃に前田さん、Bernie Grundman Mastering Tokyoのオープン準備をしていますよね。
前田 そうでしたね。バーニーに「日本に帰るつもりでいる」っていう話をしたら「そうか……」と。「で、帰ってどうするんだ?」と。黙っていたら「じゃあ日本でBernie Grundman Mastering Tokyoを作るか!?」っていう話が持ち上がり。でも本当はバーニーもはじめ積極的じゃなかったんです。海外にブランチを持っているスタジオなんて当時はなかったから。海外、しかもアジアに進出するっていうのは異例中の異例だったから。成功するかどうかは本当に誰にもわからなかったはず。元々A&Mレコードにいたバーニーと一緒に独立したカール・ビショップっていう頼れるエンジニアがハリウッド本社にいて「トーキョーは任せろ。オレが機材全部作るから大丈夫」って。
―― バーニー・グランドマンを名乗る以上は装備も大切ですよね。
前田 その頼れるカールが僕に最初に言ったんです。「東京のビルのエレベーターのサイズを測って教えてくれ」って……なんでだろうとは思っていました。それから、しばらくして東京のスタジオにセットするすべての機材はほぼハリウッドで調達。そして、ハリウッドのスタジオに東京のスタジオと同じサイズの線を書いて、2週間かけて一度テーピングで機材を組み上げたんです。それを各パーツに分解してまた東京で組み立てることにしたんです。ハリウッドから直送されたそれぞれの機材パーツは、そのままこの東京のエレベーターにピッタリと収まったんです。これには関心しましたね(笑)。
―― これでハードは完備。あとはハリウッドで養ったソフトですね。
前田 バーニー・グランドマンのハリウッドのスタジオで働けて本当に正解だったと思うのは音楽制作に不可欠なエッセンスを備えることができたことです。例えば邦楽でいえば異国なのにどうして日本のリスナーが聴きたい音を生み出せるのか。ハリウッドのスタジオで働きながらその空気感をどうやって異国の地で共有するのか。その答えはここでは言いませんが、同じ空の下で学べたことは大きかったですね。Bernie Grundman Mastering Tokyoの代表という形になりましたが、日本でもエッセンスは大事に持っていたいなと。
―― 以前、佐野元春さんは対談インタビューのなかで「音楽というのは、その時代に生きる人々と密接に結びついている。だからヒットサウンドというのは傾向がある。その傾向を嗅ぎ分けて熟知している方達が、マスタリング・エンジニアだと僕は思っている」と語っていますね。
前田 なるほど。そういう言葉を聞いてプレッシャーがあるかと言われれば、正直なくはないんですけど。時代のセンサーというものは100%フル稼働させて常に仕事はしていますね。たくさんの人に聴いてもらいたい。どうしたらひとりでも多くの人に伝わるのかなってことは常にスタジオのなかで考えています。これまで多く学んだことが今に繋がっているのは間違いないですね。
Bernie Grundman Mastering Hollywood
アナログレコードは物理的に内周いけばいくほど音が悪くなる。だから下手な人のカッティングはすぐにわかります。
―― 今回の佐野元春の初期オリジナル・アルバムの再リリース制作にあたってマスタリングを施したのは前田さん。ロサンゼルスでカッティングを行ったのはバーニーさん。奇しくも日米師弟合作となりましたね。
前田 僕自身がもし発注者だったとしてもバーニーに切ってもらいたいです(笑)。クオリティが圧倒的に高いですから。まあ、もちろん他にも優秀な技術者はたくさんいて、良い作品を上げてくれるし、気になったところはすぐに直してくれるんだけど。バーニーはそういうやり直しもほとんどないんですよ。しかも発注者の好みを事前に知っていることが多いんです。「君はこうやって切ってほしいんだろ」って。そういうところは本当に敏感な人だから。
―― カッティングは大事なんですね。
前田 下手な人が切るとすぐにわかります。30cmアナログは33と1/3っていう一定のスピードで回転しています。物理上、同じ回転数だから内側にいけばいくほど遅くなるんですね。内側の溝はどんどん歪みが増えていくなか、大きな容量を切っていこうと思うとすごく大変な作業になる。そうすると内に食い込んでいくほど音がこもってくる、ヌケが悪くなる。これは物理的に仕方がないんです。だから内周にいけばいくほどスローなバラードが多い。ゆっくりしたスピードのほうが早いものより切りやすくて、音も変わらないから。5曲目とかにバラードが多いのはそのせい。下手な人が切ると、内側にいくほど音が詰まってくる。すぐにわかります。
―― いま話してくれたアナログ盤ルールってミドル世代でも意外と知らない人多いと思います。
前田 音楽マニアじゃなければ知らなくて当然です(笑)。内周いけば音が悪くなる。だから昔から高音質重量盤の2枚組とかあるじゃないですか、A面3曲B面3曲みたいな。15分くらいにするのは内を切りたくないから。いい音のレコードって、パッと見たら真ん中がエラくあいていたりするんです。
―― 前田さんが修行時代にバーニーさんのカッティング作業を横で見ていて、カッティングを学ぼうとは思わなかったのですか?
前田 80年代の後半だからCDに移り変わっていく時。すでに需要が減っていたこともあり結局僕が切ったのほとんど1~1年半くらいでした。だからバーニーのレベルには全く届いていないし、きちんと学べてもいない。あと怖いし。
―― 怖い?
前田 コワいコワい。アナログレコード盤の大元になるラッカー盤ってけっこう貴重なんです。金属板の表面にラッカー塗布した盤を切り刻むわけで、磁気テープのようには音を消せないから、一回でも切って失敗すればもうダメになっちゃう。5枚失敗、10枚失敗って考えると……ほんとに怖いですよ(笑)。さらに針も飛ばして一緒に失敗したら……修行時代だったらもう給料もらえませんから。
―― 「GREAT TRACKS」のプロデューサーでもある滝瀬さんは、80年代の輸入盤サウンドの再現を目指し、アナログレーベルを立ち上げたわけですが、そのあたりに共感するところはありますか。
前田 歯がゆい意味で共感できます。80年代はアナログマスターから盤を切っているからクオリティが高い状態。僕らはそれが基準だと思っているんだけど、いまはなんだろうこのアナログ盤は? というものは世の中にいっぱいありますよね。CDのマスターから切っている人も多くて、これはもはやアナログじゃねえな、CDのノイズが増えただけじゃんみたいな。ほんとにいっぱいあるんですよそういうチャラいものが(笑)。
―― あまり笑えないですね。
前田 コストがかかるならそんなに追求しなくてもいいよっていう音楽人間も知っている。「えっ、それ24bit/96kHzのファイル作るのにいくらかかります? それならCDから切ります!!」っていう人がホントにいますから。もちろんそれぞれ事情があるのは理解しています。そんな歯がゆい思いをすることが多いなかで滝瀬さんのようにちゃんと作ろうと思っている人もいるから。ひでえなって思うモノと、すばらしいなって思うモノと、いまは当たりと外れが多すぎて、どうしようかなって泣きそうになる時がある。
佐野元春の80年代初期3枚に共通するアナログならではの音の立体感を感じて欲しいです。
―― 今回の佐野元春プロジェクトでの歯がゆさは。
前田 大丈夫です。ないです(笑)。そこはご心配なく。気になったのは「さしすせそ」の音ぐらいだったけれど、バーニーと僕と設定したレベルに到達しているので何の問題もなくスムースに進行できました。「GREAT TRACKS」のコンセプト通り、ちゃんと音も伸びているし、すごく気持ちがいいはず。『BACK TO THE STREET』は佐野さんの疾走感が全部生々しい音で伝わります。目の前で演奏しているかのような臨場感まで伝わると嬉しいです。『SOMEDAY』は独特のサウンドですがソウルがそこにあることも伝わると思っています。それから3枚とも共通するアナログならではの音の立体感をすごく感じて欲しいです。
―― 今回は重量180g盤。発売当時の130gとは全然違いますか。
前田 ヴァイナルの重さによって、反りにくくなるから音が安定するというメリットがあるんですよね。音質はどれくらいの違いがあるのかって比較はこの場で説明するには難しいところもありますが、再生クオリティは高いんで、驚くと思いますよ。こんないいんだって。当時よりも、70年代80年代よりも再生能力じたいも上がっているんですよ。いま作られたものだから、当時作られたものとは違っているし、個人的な比較は楽しいんじゃないかな。盤だけじゃなくて、アナログプレーヤーにしても、昔のやつを引っ張り出せる人は当時感じと比べても面白いかもしれませんね。新しく再生機を購入した人は130gと180gを比較するだけでも新しい発見があるかもしれませんね。
―― アナログ盤は奥が深いとも言われていますが。
前田 アナログレコードって、CDとは違うし、ハイレゾとも違う、ましてやストリーミングとも違う。じゃどんな世界ってなんだろうなって考えると、私見ですが自ら演奏している気持ちになれるんですよ。だって、わざわざ盤を丁寧に拭いてから置いて、針を降ろさないと再生しないんですよ。クソめんどくさい(笑)。で、終わったら放置は出来ない。また針上げて、今度ひっくり返してまた拭いて。パチって音が鳴ったら嫌だなって思うじゃないですか、大抵の人がボリュームを下げたりするわけで、これってけっこう演奏に近い行為なんですよ。ただボタンを押すんじゃなくて、実際に音楽を楽しむ行為を自ら行っているんです。この楽しみはデジタル再生ではなかなか味わえないですね。80年代から佐野さんのファンの方は、もう一度アナログに触れてみるのはいいかなって思いますね。少年時代、青春時代とは違った価値観のなかで楽しみ方も変わっているかもしれませんし、同じような興奮が得られるのかもしれません。曖昧だった記憶が鮮明になるかもしれません。
インタビュー・文/安川達也(OTONANO編集部)
Bernie Grundman Mastering Tokyo
代表:前田康二(Yasuji Maeda)
オフィシャルサイトはこちらから▶
Bernie Grundman Mastering Hollywood
代表:バーニー・グランドマン(Bernie Grundman)
オフィシャルサイトはこちらから▶
BERNIE GRUNDMAN(バーニー・グランドマン)
カッティング・エンジニア
●アメリカ合衆国のオーディオ・マスタリングエンジニア。1966年からロサンゼルスのコンテンポラリー・レコード 、そして1968年からA&Mレコードのマスタリング部門での活躍を通じ、キャロル・キングやマイケル・ジャクソン、スティーリー・ダン等名盤の数々にエンジニアとして貢献する。 1984年にはハリウッドで自身の名を冠したマスタリングスタジオ、「バーニー・グランドマン・マスタリング」を開業し、グラミー賞ノミネートをはじめ数々の権威ある賞を受賞している。