名作ビデオと振り返る
ジョージ・マイケル活動軌跡

MTV発、第2次ブリティッシュインヴェイジョン

 1981年、一日中ミュージックビデオ(以下MV)を流し続けるMTVが、アメリカのケーブルテレビで開局した。全米ヒットの法則=ラジオオンエア×地道なライヴ活動をたった一日で覆したこの革命は、以降、世界共通の最重要音楽プロモーション手段となったが、この新しい宣伝方法の恩恵にいちばんあずかったのは、じつはアメリカではなく英国アーティスト達だった。イギリスのアーティストたちは映像を通じてリスナーの目に届けば、わざわざ楽器を持って大西洋を渡る必要がなくなった。元々ビジュアル発信に長けていたミュージシャンが多いお国柄だけに、彼らが創り出すMVは、3分間に凝縮した劇場映画の予告編のような楽しさと、華やかさに満ちあふれていた。MTVムーヴメントに乗って1982~83年にデュラン・デュラン、カルチャー・クラブらがアメリカで大成功を収めた現象は、60年代にイギリスから大挙北米大陸に押し寄せたビートルズ、ストーンズ以来の第2次ブリティッシュインヴェイジョンともてはやされ、多くのスターがブラウン管から生まれた。80年代を回顧する記述にデュラン・デュラン、カルチャー・クラブ、ワム!を第2次ブリティッシュインヴェイジョンと一緒くたにしていることを見受けられるが(筆者も便宜上多用することが少なくないが)、正確にはワム!のこの大波には乗っかっていなかった。もっと正しく言えば“少し乗り遅れた”のだ。しかし、このことはワム!にとってはFANTASTICなことだった。

全英No.1アイドル・デュオ、ワム!

 1982年~83年、本国イギリスでは「ヤング・ガンズ」(3位)、「ワム・ラップ!」(8位)、「バッド・ボーイズ」(2位)、「クラブ・トロピカーナ」(4位)とヒットチャートを驀進し、アルバム『ファンタスティック』はイギリスでは史上4組目となるデビュー作初登場1位に輝いていたが、アメリカではこの時点では全くと言っていいほどヒットしていなかった。正確には戦略なのだが、第2次ブリティッシュインヴェイジョン後発デビュー組としての時差、MV製作への低投資、EPICレコード移籍前などの状況とも無縁ではないが、北米大陸はまだワム!受け入れる準備が出来ていなかったという方が適当かもしれない。一方、日本では意外な形でそのウェイヴが届いていた。

お茶の間から“見晴らしいいよ、ハイポジション”

 日本国内ではMVを流す番組はまだ数えるほどしかなかったが、日本に落ちてきた男デヴィッド・ボウイの宝焼酎「純」(’80年)、ムカデダンスが人気だったマッドネスのホンダ「CITY」(’81年)、マイケル・ジャクソンのSUZUKIスクーター「Love」(’82年)などが常に話題の日本独自の“洋楽アーティスト出演CMライン”にワム!が乗ったのだ。’84年、全英No.1アイドル・ポップ・デュオの日本での事実上の“お茶の間デビュー”だった。マクセルのカセットテープ「UD」シリーズのCMで、「バッド・ボーイズ」が流れるなか、宙に浮かびながら笑顔を振りまいたジョージ・マイケル&アンドリュー・リッジリー。“見晴らしいいよ、ハイポジション”。このキャッチーなCMインパクトは絶大で、一躍ワム!は人気洋楽アイドル組の仲間入りを果たした。同年夏、「ケアレス・ウィスパー」が全英シングルチャートのトップに輝き、そのカヴァー「抱きしめてジルバ」(西城秀樹)、「ケアレス・ウィスパー」(郷ひろみ)も秋頃に日本でヒット。ワム!のオリジナルヴァージョンはオリコン洋楽チャートで4週連続1位を記録。12月にはジョージ・マイケルがリードヴォーカル参加したBAND AIDの「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」とワム!の「ラスト・クリスマス」が全英チャートの1,2フィニッシュを飾った。イギリスと日本が大ヒットしていたころ、アメリカでもBIGなワム!旋風が吹きはじめようとしていた。

『メイク・イット・ビッグ』でワム!全世界制覇

 2ndアルバム『メイク・イット・ビッグ』からのリードシングル「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」。2人お揃いの真っ白なトレーナー、健康的に日焼けした顔に白い歯、若さむき出しのピッチピチ短パンでハジけまくったダンスが目に焼き付くアイドル然としたMVは、瞬く間にアメリカのティーンネイジャーのハートを鷲づかみにし、シングルは全米ヒットチャートを駆け上っていった。「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」(’84年11月1位)「ケアレス・ウィスパー」(’85年2月1位/年間1位)「恋のかけひき」(’85年5月1位)「フリーダム」(’85年9月3位)の連続特大ヒット、アルバムチャートも全米初制覇と、’85年のアメリカでは遅れてきた“ワム!インヴェイジョン”を巻き起こした。日本でも『メイク・イット・ビッグ』は、松田聖子のベスト『Seiko-Train』を抜きオリコン総合アルバムチャートで堂々1位を獲得、『メイク・イット・ビッグ』ワールドツアーも翌‘85年1月から日本でスタートし、全公演完売のワム!旋風を巻き起こした。4月には欧米アーティストとして初の中国公演を敢行、7月にLIVE AID英国ステージで圧倒的な存在感を見せつけた。飛ぶ鳥を落とす勢いをみせたワム!には雑誌のグラビアを飾るアイドルとしての華やかな側面以上に、アーティストとしての高い評価が人気の裏付けとなった。

『メイク・イット・ビッグ』は、ウキウキなバブルガム・ポップ、造詣の深いモータウンソウル、綿密に積み上げられたウォール・オブ・サウンド、コマーシャルヒットなグラム、ディスコ、ヒップホップと英国ポップスの全てがジョージの天才的なメロディで昇華され、追随を許さない究極のポップアルバムとなって時代を飾った。16歳で「ケアレス・ウィスパー」で草案し、19歳で「フリーダム」を書き上げたジョージ・マイケルの理想のポップスワールドが、ワム!の名前を借りて、『メイク・イット・ビッグ』で見事に具現化したのだ。

 アルバム収録曲が世界各国の電波に乗って一人歩きを始めた頃、ジョージの中ではワム!はもう終わっていたのだろう。世界がワム!と共振したとき、ジョージはワム!の解散を決め、更なる音楽探究を始めていた。内省的な神秘性を放っていたソロシングル「ア・ディファレント・コーナー」(’86年4月全英1位/6月全米7位)は、そんなメッセージのひとつでもあった。アンドリューと別れて次のステップを踏むためのけじめとしてジョージはワム!としてイギリスでは『ザ・ファイナル』、アメリカでは『エッジ・オブ・ヘヴン』を発表し、1986年6月、ウェンブリー・スタジアムの解散コンサートで理想型の第1章に自ら幕を降ろした。

真実=FAITH=で再び世界の頂点

 1987年夏、イギリスBBCでは放送禁止、アメリカでも放送自粛局が多発した衝撃的なタイトル「アイ・ウォント・ユア・セックス」(’87年6月全英3位/8月全米2位でワム!のアイドルイメージ脱却に成功したジョージ・マイケル。1stアルバムを控え、そのネクストサウンドに注目が集まった同年秋。全世界のFM放送局でソロアルバムのリード曲が一斉にオンエアされた。
「フェイス」(’87年12月1位)は教会音楽を思わせるパイプオルガンがフェイドイン。突如アコースティクギターのカッティングが聴こえてくる。耳元で囁くようにパフォームされたナチュラルヴォーカル。ジョージのシングル史上最も再生時間が短く、もっともシンプルなサウンドには、黒人音楽へのありったけの愛情と、その黒人音楽への束縛からの脱却を白人音楽ポップスという手段で包括する奇跡的な1曲となって世界中に鳴り響いた。幼少の頃にイギリスで流行していたギター1本のスキッフルロックへのオマージュをも込めたかのような3分間のマジックだった。

 くしくも「フェイス」MVは前シングル「アイ・ウォント・ユア・セックス」が流れるオールドジュークボックス映像から始まる。それはこのアルバム全体を示唆しているかのようなオープニング映像でもあった。「アルバム『フェイス』の中に好きな曲が1曲もなければポップスファンの資格はない」(*1)。確信にあふれたコメントに異議を唱える者は当時誰もいなかったはずだ。歌表現の深奥を極める「ファーザー・フィギュア」(’88年2月全米1位)、ゴスペルの雰囲気で愛を包み込んだバラード「ワン・モア・トライ」(’88年5月全米1位)、隙のないリズムメイクが圧倒する90s型ファンキーナンバー「モンキー」(’88年8月全米1位)、スタンダードJAZZヴォーカルの魅力をポップスファンに教えてくれた「キッシング・ア・フール」(’88年11月全米5位)……。

 作詞、作曲、アレンジ、プロデュースのすべてにいたる正真正銘のジョージ・マイケル作品。アルバム『フェイス』はワム!時代からジョージ・マイケルを愛聴してきた世代が、あらためて自分の応援してきたアーティストがとてもつもない才能を持ちあわせた人間だったと再認識する1枚となった。白人アーティストとして初の全米R&Bアルバムチャートで1位を獲得。同時期にマイケル・ジャクソンがアルバム『BAD』でより人種を越えたポッファンにも訴えるポップスアプローチを展開していたが、「BLACK」「WHITE」の反比例が興味深い。この驚異的な成功でジョージ・マイケルはミュージシャン以上の存在になっていた。

 スキッフルビートを刻むブーツ、色映えるダメージジーンズ、ティアドロップ(通常レイバン型)サングラス、調整された“無精髭”、サイド借り上げオールバックのボリュームヘア……。ワム!からのイメチェンを図った「フェイス」のMVでのジョージ・マイケルは2色、セピア、フルカラーを混ぜ合わせた映像のなかで、最高のセックスアピールを放っていた。エルヴィスを彷彿させるアコギを抱えた腰フリは、1988年最もセクシーなお尻男性部門にも選ばれ、彼の一挙一動が注目を集めた。ジョージ・マイケルのファッションを真似る若者は日本でも多発。「フェイス」ワールド・ツアーのオープニング公演は、『メイク・イット・ビッグ』に続いてまたしてもここ日本が選ばれた。世界初日となった’88年2月19日の日本武道館会場には、ダメージジーンズ、ティアドロップ、オールバックスタイルのファンたくさんいたが今となっては懐かしい。このステージは、終始無機質なまでのデジタル・ビートで、聴きなれたヒット曲をアレンジしたクラブ状態となった。来るべきデジタルシーンの到来を巨大アリーナで具現化したのだ。

大成功の代償。偏見なしで聴いて欲しい。

 1990年秋、世界中が熱狂した『フェイス』から3年。ジョージは、80年代と決別し、90年代ジョージ・マイケルを誇示するために“偏見なしで聴いて欲しい”という意味のタイトルアルバム『リッスン・ウィズアウト・プレジュディス Vol.1』を発表する。さらに時代のアイコンとなったビジュアルイメージを一掃するため、そしてリスナーのイマジネーションを豊かにするために先行シングル「プレイング・フォー・タイム」(’90年10月全米1位)はMVを製作しなかった。丹念なサウンドプロダクトと、憧れのブラックミュージックをも超越した高い水準の楽曲集となった作品だったが、これまでのような連続ヒットには恵まれず、アルバムも前作には到底およばないワム!以来最も平凡なセールスに終わってしまった。このことから派生したレコード会社との不協和音は裁判にまで発展し、『vol.2』は発売されないまま、ジョージは音楽活動の制限を余儀なくされてしまう。

 一方で次シングル「フリーダム'90」のMVでは、ナオミ・キャンベル、シンディ・クロフォードらを出演させ“第一次スーパーモデルブーム”を作り上げ、ジョージ・マイケルはファッションリーダーとしてもがぜん注目されるようになっていた。そんななかで行われた’91年春の東京ドーム公演は、『リッスン・ウィズアウト・プレジュディス Vol.1』収録曲をいっさい演奏しなかった。先のヨーロッパ公演で盛況だった自分の持ち歌を披露しない“カヴァー曲セットリスト”をそのまま日本に持ち込み、企画の趣旨を理解していない観客をその場で置き去りにし、一部評論家から酷評を浴びている。あまりにも素晴らしい声量によるパフォーマンスだった故に、ベストヒットライブを期待したファンをガッカリさせたが、28歳のこの挑戦は今となっては評価したい。

自身をさらけ出したカミングアウト

 1995年、スティーヴン・スピルバーグ監督の仲介でドリームワークスSGK/ヴァージンへの移籍が決定し不毛な争いはようやく終結。ジョージはすぐさま名曲「ジーザス・トゥ・ア・チャイルド」を発表、そしてアルバム『オールダー』で復活を遂げた。

 その矢先、あの事件が起こる。1998年、ジョージはロサンゼルスの公園で、公衆わいせつの現行犯で逮捕。音楽界を超えたセンセーショナルな話題となって世界中を駆け巡った。のちにゲイであることを自らカミングアウト。ひとり歩きしていた“噂”が“真実”となった瞬間でもあった。裏切られたという一部ファンの反発と、よりアーティスティックな活躍への期待が渦巻くなかで、ジョージ・マイケルはこの一件を逆手に取って新曲「アウトサイド」のMVでパロディ化してみせた。自分に対してこのユーモアセンスと度胸には好意的な視点が向けられ、ジョージは音楽活動を再開した。

 2002年には「アイ・ウォント・ユア・セックス」以来のセックス讃歌である「フリーク!」、9.11テロを受けてイラク戦争に突入した米英両国の首脳を批判した「シュート・ザ・ドッグ」、初めてゲイのリスナーに向けて作ったものだといわれる「フロウレス」など束縛知らずの活発的なリリース展開。2004年には4thアルバム『ペイシャンス』を発表。インターネットを通じて子供たちがポルノに汚染されていく様を描いたという「フリーク!'04」は、「僕みたいな人間がこんなこと言うって、おかしいかもしれないけど…」(*2)、とトイレでわいせつ容疑で逮捕された自分にツッコミを入れている。

 同年公開(2005年日本公開)されたドキュメンタリー映画『ジョージ・マイケル~素顔の告白』では、それまで公言されることのなかったリアルライフが、ジョージ本人の口から次々と明かされる衝撃的な内容となった。富と名声について、政治について、セックスについて、愛について赤裸々な告白となったのだ。劇中での、盟友アンドリュー・リッジリーとの再会シーンは、映画の中で最もリラックスした表情をみせ、旧来のファンも歓喜させる本作のハイライトのひとつになった。各々にジョージを語るコメント出演陣は、エルトン・ジョン、ボーイ・ジョージ、スティング、マライア・キャリー、ノエル・ギャラガー(オアシス)らスーパースターたちがズラリ。あらためて彼の交流の華やかさを知ると同時に、好気メディアの報道イメージとはかけ離れた人間ジョージ・マイケルの実像が浮き彫りになった。来日記者会見の席上では、ゲイへの偏見や差別が依然日本では根強いことについて、こうコメントした。「それぞれの国の文化の違いによってスピードの違いはあっても、必ず変化する」。

「<フリーダム>以降は真剣に作曲家として生きて行こうと思えた」(ジョージ)

「正直言って、若いころ、ルックスに自信があったことなんて一度もないんだよ。だけど、ただひとつ、絶対に自信があったのは、自分のソングライターとしての才能だったんだ。音楽の世界に足を踏み入れた瞬間から、それは一度も揺らいだことはないよ。19歳で、<フリーダム>のオリジナルヴァージョンを書いたとき。自分でも信じられないくらい“すごいものができちゃった”と思ったんだ。嬉しかったよ。それまでは、自分にどんな能力があるかなんて、全然わからなかったけど、<フリーダム>以降は真剣に作曲家として生きて行こうと思えるようになったんだ」(*3)

 2009年暮れに発表した「December Song」は、「ラスト・クリスマス」以来25年ぶりとなるクリスマス・ソングとなった。旧来ファンを安心させる“不変”さと、音楽への飽くなき音楽探究心を覗かせる“可変”さのバランスが妙。

2016年、マイペースな活動を続けながらアーティスト歴40年に突入しようとしていたジョージ・マイケル。これまでと同様に変化や偏見に恐れず自らの信念に基づきあらたなアーティスト活動に挑み続けていくはずだったが……。

ジョージ・マイケルこそ80sリアルスーパースター

 80年代最大のスーパースター。この枕詞が相応しいのは、2009年に他界したマイケル・ジャクソンだろう。それは今さら説明不要の誰もが認める史実だが、周知、マイケル・ジャクソンは70年代からスポットライトを浴びているスターのひとりでもあった。80年代に多感期を過ごした洋楽世代にとって、マイケル・ジャクソンは物心が付いた時からスーパースターだった。

一方、ジョージ・マイケルは純粋なまでに“80年代が生んだスーパースター”だ。80年代前半の世界で最も成功したアイドルポップデュオ=ワム!から、80年代後半の世界最高のポップエンターテイナー=ジョージ・マイケルへとステップアップしていく様を目の当たりに出来たことは、時のめぐり逢わせとはいえ、筆者を含む80s洋楽世代にとっては幸運なことだった。

ジョージ・マイケルを聴いていますか? もし、いまあなたの部屋の引き出しや棚に、もしくは押し入れの奧にワム!やジョージ・マイケルのアルバムが眠っていたらもういちど手にとって聴いてみて欲しい。胸がキュンとなるトキメキ以上の新しい再発見に感動するはずだ。ジョージ・マイケル未体験リスナーの方は、もちろん今から聴いてみても遅くはない。比類なき極上のポップサウンドに出会うことを約束する。もちろん、余計な“偏見なしで聴いて欲しい”。

今頃きっとEDGE OF HEAVENで足を組んで微笑んでいるジョージ・マイケル。素晴らしい音楽をありがとう! RIP

2016年12月
安川達也(OTONANO編集部)/1970年生まれ

(*本稿は2011年2月発売『FAITH』デラックス・コレクターズ・エディション資料用に寄稿した内容に加筆したものです)

【ジョージ・マイケル発言出典】
*1:1987年ローリングストーン誌インタビューより抜粋。
*2:映画『ジョージ・マイケル〜素顔の告白〜』マスコミプレスより抜粋
*3:Blu-ray/DVD『Live in London』(2010年)プレスリリースに寄せたコメントより抜粋