藤圭子劇場

『藤圭子劇場』スペシャルインタビュー 榎本襄(音楽プロデューサー)

「あの歌声を初めて聴いたのは彼女がまだ17歳の時でした」――。
藤圭子の鮮烈デビューから引退までの10年間担当だった
元RCAディレクター榎本襄氏だから語れる、もうひとつの“藤圭子劇場”。

榎本襄さん

藤圭子の歌い方は老舗レコード会社の“伝統的な尺度”には
ひっかからなかったんです。

――『藤圭子劇場』を聴くと、やはり後にも先にもいない歌い手さんだなと改めて思いました。

 

榎本  この作品に収録されているコンサートは全てワンマンコンサートなので、彼女の良さが全部出ていると思います。というのも彼女は生真面目すぎるというか、テレビ歌番組などで他の歌手と一緒になる時は、すごく周りを気にするんです。ちょっと引っ込み思案の部分が出てくるというか、歌いながらも落ち着きがないというか。レコーディングでも作家がいると歌いませんでした。「作家がいると気を遣ってしまって歌えない」と言っていました。

 

―― 歌う時はとことん歌に集中して歌いたいと。

榎本  「あの人に気に入られるためにはどうやって歌えばいいのだろうか」という邪念が入るからでしょうね。臆病とか小心とかそういう感じとはまた違うんです。気にしぃなんでしょうね。

 

―― 榎本さんが藤さんの声を聴いたのはいつだったんですか?

榎本  昭和43年、デビューの前の年です。彼女は17歳でした。作詞家の石坂まさをの自宅に居候して、僕が遊びに行った時に紹介されて、薄暮の中でギターを弾きながら歌った「カスバの女」を聴いたのが最初でした。彼女は小柄で痩せていて、髪をまとめていたので実際の年よりもずっと若く見えて、でも「こんなコが中低音で、ドスの効いた声出すんだ……」と驚いた事を覚えています。

 

榎本襄さん

―― 榎本さんのレコードマンとしてのアンテナが反応したんですね。

榎本  当時僕は新米ディレクターで、まだ担当歌手がいませんでした。先輩からは「担当する歌手を抱えていないやつは、誰でもよく見えるものだ」と言われました。『藤圭子劇場』のブックレットの中でも書いていますが、当時はレコード会社6社時代で、彼女は6社のオーディションを全部落ちていました。当時求められていたのが、個性よりも歌の技術でした。それで彼女は“荒っぽい”と指摘され、「細やかさがない」「こぶしが回らない」と言われ、老舗レコード会社の“伝統的な尺度”にはひっかからなかったんです。

 

―― でもそのマイナスと言われた部分が、結果的は藤さんの武器でもありますよね。

榎本  そうです。演歌歌手ではなくロック歌手としてならすごい子でした(笑)。

 

―― それで榎本さんは藤さんを獲りに行ったんですか?

榎本  それが、コロムビアレコードが新しく作った「DENON」というレーベルからデビューすることが決まっていて、昭和44年の6月か7月にデビューするという話を聞かされ、でもどうしても彼女と仕事がしたくて、ひっくり返すまでに半年かかりました。

 

―― そんな事ができるんですね……。

榎本  「DENON」はコロムビアの中でも新興レーベルだったので、本体からはお手並み拝見的なムードが出ていました。我々RCAもビクターの一部門でしたが、洋楽の世界ではNo.1でした。邦楽では新たに出発した新興レーベルでしたが。藤圭子と石坂の中ではやっとレコード会社が決まったという気持ちが強かったので、いくら僕が石坂と親しくても、さすがに話をひっくり返すというのはそう簡単にはいきませんでした。色々な関係者に相談に行って、実際に彼女を「DENON」に持っていった実力者にも会ってお願いをしました。でもその間も石坂まさをを必死で説得していて、藤圭子、石坂まさをと3人でずっと一緒にいて、RCAに行ったらああしようこうしようという“戦略会議”を毎日していました。それで7月5日が彼女の誕生日だったので、3人で食事をしている時「そうだ、今日僕も誕生日なんだ」と言うと、彼女が「嘘だ」というので社員証を見せたりして、驚いた石坂はそういう偶然とか縁起を大切にする人なので、ここから一気にRCAに流れが傾きました。9月25日にデビューシングル「新宿の女」をRCAから発売しましたが、実はその間に曲も4曲出来上がっていました。

 

1stシングル 新宿の女

1stシングル
「新宿の女」
1969年9月25日発表

2ndシングル 女のブルース

2ndシングル
「女のブルース」
1970年2月5日発売

3rdシングル 圭子の夢は夜ひらく

3rdシングル
「圭子の夢は夜ひらく」
1970年4月25日発売

「圭子の夢は夜ひらく」はインパクトがあり過ぎるから
サード・シングルにしたんです。

―― その中から「新宿の女」をデビュー曲に選んだ理由を教えて下さい。

榎本  この子に何をすべきかという事を、デミング博士の “魚の骨理論”を取り入れ、ます魚の背骨を書き、頭の部分を大きな矢印にして彼女をどういう歌手にしていきたいかを書きました。その一大目標に向かって何をなすべきかと言う各論が背骨に追加され……更に細論が枝分かれされていくというもので、僕らが魚の頭の部分に書いたのは、彼女を“スター”にするという事でした。ヒット曲を作るだけではなく、スターにしようと。「女のブルース」とか「圭子の夢は夜ひらく」はインパクトがあって、一瞬で“売れセン”とわかる曲ですが、「新宿の女」はそういう意味では一回聴いて「お!」という感じになるのではなく、用意した曲の中では一番地味で、聴けば聴くほど味が出てくる作風でした。最初に曲がビッグヒットすると、曲に負けてしまって、次が売れない事例が多々ありました。所謂“一発や”もそうですが、売れたとしてもまず曲に勝たなければいけない。同じ社内で、彼女の前の年にデビューした内山田洋とクールファイブの「長崎は今日も雨だった」がミリオンヒットになったが、2曲目の「別れ雨」は極めて低調で「長崎~」はヒットしたけど、クールファイブはスター化しなかったという事です。だから「新宿の女」を売る事と「藤圭子」を売る事は表裏一体ですが、より“前に”打ち出したのは「藤圭子」でした。

 

―― デビューの時のアーティスト写真、黒のベルベットのスーツに白いギターを抱えた、どこかに愁いを感じる美少女というビジュアルがインパクトありました。

榎本  痩せていたので、どうやったらふくよかな感じに見せる事ができるかを考えて、撮影した時は真夏で彼女にはかわいそうな事をしましたが、真冬に着るベルベットを着てもらいました。当時で1着20~30万したと思います。彼女が汗かきでなかったからよかったですが、真夏のキャンペーンはあれを着て走り回っていました(笑)。しかも1着しかなかったので、でも洗濯ができない素材なので汗を拭きとって、消臭剤みたいなものを使って手入れしていました。ギターは白ですが、当時はビクターのハードが発売していたブラック&シルバーのステレオがヒットしていて、どうせなら“オールビクター”で藤圭子を応援してもらいたかったので、黒のベルベットにシルバーのギターを持たせることにしました。でも白いギターを銀粉でコーティングしたら、乾燥が十分ではなかったのか、高いベルベットのスーツにべたべた銀粉が付くので、銀粉をあきらめて、白いギターになりました。石坂さんが「盲目の母の手をとって、演歌の星を背負った宿命の少女」というキャッチフレーズを考えたのですが、長すぎするし、ちょっと内容的にあまりにもお涙頂戴的な感じだったので、「演歌~」になりました。

 

――“演歌”と言い切ってしまったんですね。

榎本  そこなんですよね。演歌といいながらも僕は演歌が好きではありませんでした。少なくとも家で演歌は聴いたことがないです(笑)。でも彼女に関しては演歌という言葉を付けた事で、何か制約ができたかといえば、決してそんな事はなく、彼女はデビュー前は流しをやっていて、流しの事を演歌師とも呼んでいました。オリコンが歌手別で、演歌、歌謡曲、ポップスとカテゴライズしていったんです。

 

―― デビュー時のプロモーションで、「新宿25時間立体キャンペーン」が大きな注目を注目を集めました。

榎本  どういうキャンペーンをやろうかという話になった時、彼女の喉の強さはみんな知っていましたし、ギターでなんでも弾いてどこでも歌えますので、あの企画を考え、ビクターレコード本体の宣伝部が手伝ってくれて、マスコミもテレビ、ラジオ、業界紙、通信紙に集まってもらい、大々的にやる事ができました。なので決してゲリラ的にやったのではなく、一軒一軒お願いをしました。普通はキャバレーで、いきなりビッグバンドの前で歌わせてなんてくれませんから、事前に彼女を連れていって、バンマス、メンバー全員に挨拶をさせ「飛び入り的な感じでやりますので、よろしくお願いします」とお願いをしました。25時間というのは、少女が25時間も歌い続けるというインパクトを狙ってのものです。

 

―― なかなかないキャンペーンですよね。

榎本  実は9月25日に「新宿の女」を発売したのですが、イニシャルは当時の新人としては破格の2.5万~3万枚だったと思いますが、バックオーダーが11月に入っても0だったんです。テレビに一本も出演できていなかったという事もありますが、上司からつつかれ、なんとかしなければいけないと思い、石坂さんと考えました。それで大きく取り上げてくれたのが、ブックレットにも当時の紙面が載っていますが、スポーツニッポンの小西良太郎さんでした。

 

―― その反応はいかがでした?

榎本  あの記事が導火線になったと思っています。何日か後に、突然バックオーダーが三桁きて、それが続いて4桁になって、という感じで全国から反応があって、みんなで祝杯をあげました。テレビ、新聞、ラジオ他にどんどん彼女の露出が増え、波及効果がすごかったです。露出があると、そのビジュアルがものをいうというか、興味を持ってもらえました。

 

1stアルバム 新宿の女

1stアルバム
『新宿の女』
1970年3月5日発売

2ndアルバム 女のブルース

2ndアルバム
『女のブルース』
1970年7月5日発売

凄まじいヒットの“瞬間風速”のなか 18歳の藤圭子と腹を割って
話ができる人がいなかった。

―― 1970年のオリコンアルバムランキングは、藤さんの作品がほぼ一年間1位を独占という人気ぶりでしたが、あの時ご本人的にはもっともっと売れたいという気持ちが強かったのか、それとも戸惑いのようなものがあったのでしょうか?

榎本  嬉しかったという気持ちだけはあったと思います。無欲といえば無欲だったと思いますが、どこか満たされない気持ちもあったようです。というのは、当時のプロダクションは、経験者不在の、いわゆる素人集団に近かったので、18歳の藤圭子と腹を割って話ができる人がいなかったんでしょうね。孤独感に苛まれていたのだと思います。同じレコード会社という事で、違うディレクターが『演歌の競演/清と圭子」(クールファイブ・藤圭子)という企画盤を出したののですが、これがきっかけで前川清さんと結婚しまたが、淋しい気持ちが大きかったのだと思います。結婚する事がメディアに漏れて、大変でした。

 

―― 最初のヒットが大きすぎて、キャリアの後半もヒット曲はありましたが、大ヒットではなかったために失速したような印象を持たれていました。

榎本  そうですね、“瞬間風速”と言われました。ファン層は老若男女、広い層だったとは思いますが、ルックスが良かったのでアイドル的な存在でもありました。そういうファンを裏切る行為が二つありました。それは結婚と、我々の責任でもありますが4枚目のシングルに「命預けます」という任侠ものを出した事です。石坂さんは任侠ものが好きで、女優の藤純子さんのファンでした。藤圭子の本名は阿部純子で、いつかこういう曲を歌わせたいと思っていたのではないでしょうか。でも一連のヒット曲の後に、あの任侠ものを出す事を止められなかった僕が悪いんです。

 

―― 歌手を辞めるという相談は榎本さんにはあったんですか?

榎本  事務所がブッキングしてくる仕事の質の悪さに悩んでいました。お正月の「かくし芸大会」で網タイツを履かされたと言って、怒って泣きながら帰ってきた事もありました。それと新人を自分とのバーターで売り出そうとする事にも納得していなかったり、少しずつ事務所への不満が溜まっていっていました。私はレコーディングプロデューサーでもあったので、レコーディング時はもちろん彼女に会いますが、それ以外では一切会わせてもらえなくなっていました。石坂さんの考えだとは思いますが。

 

榎本襄さん

阿久悠の歌詞「上野は暗く」を僕が「夜空は暗く」に
変えてしまったんです(笑)。

―― ファンもそうですが、榎本さんもこの『藤圭子劇場』に収録されているファーストコンサートが出色だとおっしゃっていますが、このコンサートに向けて、どんな話し合いがあったんですか?

榎本  オリジナル曲は歌うのはもちろんですが、それ以外をどうするかという事で、石坂は作詞家なのでライヴに関してはあまり細かい事は言いませんでした。選曲はRCAの中で決めました。基本的には僕が決めたのですが、営業の意見も入れなければいけなくて、結果、僕が気に入らない曲も3~4曲入っています(笑)。一貫性がない、幕の内弁当のような内容になってしまいました(笑)。「新宿の女」「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」もド演歌ではなく、グループサウンズもそうですが、3連リズムが特徴のイタリアンロックなんです。そういう流れで作っている音楽だったので、その前後にすごく古い曲を持ってくると、やっぱり違和感がありました。でも言い方を変えればバラエティに富んでいる、と(笑)。コンサート自体は、声も荒れていなくて、発声的にも最高で、体調も良く、彼女がその後から背負う負の要素も全くない時で、まっさらで一番いい状態の時でしたので、良かったです。

 

―― ご本人はカバーする曲に対するこだわりのようなものはありましたか?

榎本  全くなかったです。彼女が好きな音楽は、ロカビリーとグループサウンズなので、選曲で彼女の好みを入れていくと、お客さんが求めているものとは違ってくるんです。

 

―― 最後に、榎本さん的に、特にお気に入りの曲を教えて下さい。

榎本  「圭子の夢は夜ひらく」は僕のアイディアも詰まっていますし好きですね。「別れの旅」「京都から博多まで」も好きですが「別れの旅」は特にお気に入りです。最初阿久悠の詞は「上野は暗く」から始まる所謂“ご当地ソング”だったのですが。それを「夜空は暗く」に変え、2番以降に出てくる「仙台」「八戸」「青森」も同様に勝手に変えてしまったんです(笑)。この日にレコーディングしないと発売に間に合わないというタイミングで、でも阿久悠に連絡をしても捕まらないとマネージャーが言うので、事後承諾でと決めてGOしました。作品というのはディレクターが作家に発注して書いてもらうものです。もちろんコンセプトや内容はきちんと説明しますが、そうして上がってきたものは作家の手を離れ、ディレクターのものになるんです。だから料理の仕方は何も言われたくないですし、僕はレコーディングに作家は呼びませんでした。当時はそういう考え方で仕事をしていました。「別れの旅」は発売されても何事もなかったのですが、しばらくしてから阿久悠さんから「あれは僕の詞じゃないので、クレジットを外してください」と連絡がきました。謝罪に伺いたいといっても会ってくれなくて、でも阿久さんのマネージャーさんがお店で偶然会うように仕向けてくれました。阿久悠とは何時間話しても、話しが合いませんでしたけどね(笑)。最後は納得してくれました。

インタビュー・文/田中久勝

榎本襄さん

榎本襄(えのもと・じょう)

音楽プロデューサー。1964年、日本ビクター株式会社に入社。‘68年、RCA事業部邦楽ディレクター。‘75年、RVC株式会社(RCA VICTOR COMPANY)出向。制作室長、部長等、BMG第2制作部長、第3制作部長を歴任。’94年には渡部全助と株式会社スバックをスタート。現、同product CEO。

 

【RCA~RVC時代のディレクターとしての担当アーティスト】

藤圭子、野路由紀子、牧村三枝子、津々井まり、北野ルミ、葛城ユキ、千葉マリア、ニック・ニューサ、ペドロ&カプリシャス、角川博、北原由紀、畠山みどり ほか

 

【RCA~RVC時代のプロデューサーとしての担当アーティスト】

西城秀樹、内山田洋とクール・ファイブ、和田アキ子、森田健作、浅野ゆう子、竹内まりや、桑名正博、山下達郎、大貫妙子、EPO、近藤真彦、水前寺清子、キム・ヨンジャ、石川秀美、浅野ゆう子、レイジー、神野美伽、三笠優子、ヒロシ&キーボー、福山雅治、角松敏生、男闘呼組 ほか

 

【創美企画時代】吉田美奈子、千住明、矢野誠、山木秀夫 ほか

◀ 藤圭子劇場へ戻る

藤圭子 その他の商品はこちらから▶