現代女性ジャズ・シンガーの最高峰、円熟の境地に達したディー・ディー・ブリッジウォーターが、故郷メンフィスを高らかに歌い上げる!本作は故郷メンフィスにゆかりの深い曲、制作陣が揃ったメンフィスへのオマージュ。プロデューサーのローレンス・ブー・ミッチェルは、メンフィスの名門ロイヤル・スタジオのオーナーであり、2009 年に亡くなった名匠ウィリー・ミッチェルの息子でもある。またサウンド・プロデューサーのカーク・ウェイラム(sax)もメンフィス出身。収録曲は“キング・オブ・ロックンロール”:エルヴィス・プレスリー、STAX を代表するシンガー:オーティス・レディングなど、ソウル/ブルース/ゴスペルの名曲が選ばれている。
そう、わたしはテネシー州メンフィスで生まれました。父が以前(1949年~52年)マナサス高校で音楽の教師をしていて、教え子のなかにチャールズ・ロイドやフィニアス・ニューボーン、ハロルド・メイバーン、ブッカー・リトル、ジョージ・コールマン、フランク・ストロジアがいたことは、わたしの誇りです。ですが、父がラジオ局WDIAでディスクジョッキーをしていたことはまったく知りませんでした。ルーファス・トーマスやB.B.キングらと並んで、“マット・ザ・プラッター・キャット”の名で番組を持っていたのです。
3歳のとき、わたしは家族と共にミシガン州フリント(母の生まれ故郷)に引っ越しました。WDIAを発見したのは、十代の夜遅くのことです。それからというもの、わたしにとってWDIAは秘密の音楽の園になりました。このアルバムに収めたどの曲も、それを歌っていた方々もみんな、そこで発見しました。1947年、すべての番組がアフリカ系アメリカ人向けの、全米で初めてのラジオ局で見つけたのです。
このアルバムを通して、“もうひとつの”わたしの姿をぜひ、皆さんに知っていただきたいと思っています。この音楽がいまも昔もわたしにくれる喜びをぜひ、皆さんに知っていただきたいのです。“ソウル村”の気骨に溢れる、ファンキーで、ソウルルフなサウンドの数々を。そう、わたしはジャズ・シンガーです。2017年度のNEAジャズ・マスターのひとりです。でも、これはずっと前から、いつかしたいと夢見ていたことなのです。
2014年、わたしは故郷メンフィスに帰り、ウィリー・ミッチェルが世界的に有名にしたかのロイヤル・スタジオに入りました。コンソール卓についてくれたのは、彼の息子で、現在のオーナー、ローレンス“ブー”ミッチェルです。同じメンフィス出身で、わたしの魂のきょうだいカーク・ウェイラムにはつねに導いてもらいました。わたしの長女でマネージャーのトュラニ・ブリッジウォーター=コワルスキーには、この旅路を最後まで一緒に歩んでもらいました。
このアルバムから聞こえてくるのは、わたしが自らの過去を振り返り、深く掘り下げた結果です。疑問の答えはすべて見つかりました。わたしの人生はくるりとひとまわりし、きれいな輪になりました。いま、わたしは自分というものをすべて理解しています。いま、わたしの魂はとても安らかです。
〈セルフライナーノーツより抜粋〉ディー・ディー(翻訳:新井崇嗣)
ディー・ディー・ブリッジウォーター
(Dee Dee Bridgewater)
1950年、米・テネシー州メンフィス生まれ。
父親がジャズ・トランペッター/音楽教師だったこともあり、幼い頃からジャズを歌い始めた。60年代後半から、ホレス・シルヴァーやサド・ジョーンズ、ソニー・ロリンズ、ディジー・ガレスピーら著名なジャズ・ミュージシャンとの共演を経て、1974年、アルバム『Afro Blue』でソロ・デビュー。立ちあがって踊りながら歌う激しいパフォーマンス・スタイルが話題を呼んだ。同時期に出演したブロードウェイ・ミュージカル『ザ・ウィズ(The WIZ)』が好評を博し、1975年のトニー賞で助演女優賞を受賞するのと同時に、グラミー賞でベスト・ミュージカル・アルバム賞を受賞した。80年代はミュージカル女優として活躍する傍ら、フランスに移住。90年代、ジャズの世界での活動を再開し、1998年にはグラミー賞ジャズ・ヴォーカル・アルバム賞を受賞した。これまでに4度グラミー賞に輝いている。2015年、ソニー・ミュージックのMasterworks / OKehから『Dee Dee's Feathers』をリリース。現代のジャズ・シーンで、もっとも成功しているシンガーのひとりと高く評価されている。