TM NETWORK 33年前の【Get Wild TV-CF】
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94年<LAST GROOVE 5.18>より【Get Wild '89】フルコーラス
2020.8.26(wed) release
MHXL-80/¥4,500 +tax
Blu-ray 1Disc/APPROX 110min
「TMを愛してくれて、どうもありがとう」(小室哲哉「DECADE」より)
【DECADE 2020 HD REMASTER】は94年4月21日、突然のTMプロジェクト「終了」を宣言したその夜、ラジオ番組「オールナイトニッポン」へ小室哲哉、宇都宮隆、木根尚登が生出演したドキュメントおよび84年~94年に発表された映像作品によって構成されたヒストリー・ムービー。既発の【DECADE】に収録の『TMN EXPO 3D PAVILION(使用曲:Crazy For You ほか)』の<3D映像>は、このたび発見された<2Dフル・カラー>のオリジナル・マスター素材へ差し替え編集、初収録にも注目!
収録曲 ▶
- Nights of the Knife<TV-CF 15">
- 金曜日のライオン<VIDEO-CLIP>
- 1974<VIDEO-CLIP~PARCO LIVE'84.12月>
- ACCIDENT<VIDEO-CLIP~日本青年館LIVE ’85.9月~VIDEO-CLIP2~中野サンプラザLIVE‘86.6月>
- TWINKLE NIGHT<VIDEO-SPOT>
- Interview<with 平山雄一‘87.10月>
- All-Right All-Night<VIDEO-CLIP>
- Come on Let's Dance<VIDEO-CLIP>
- Bang the Gong<Self Control Opening Film>
- Self Control<Fanks CRY-MAX at 武道館 ’87.6月>
- Get Wild<TV-CF 15">
- Get Wild<VIDEO-CLIP>
- KISS JAPAN DANCING DYNA-MIX<Opening Film'88.8月>
- KISS YOU<KISS JAPAN DANCING DYNA-MIX'88.8月><CAROL TOUR FINAL CAMP FANKS!!’89 '89.8月><RHYTHM RED TMN TOUR’91.1月>
- COME ON EVERYBODY<from the TV"eZ"'88.12月>
- JUST ONE VICTORY<VIDEO-CLIP>
- DIVE INTO YOUR BODY<VIDEO-CLIP>
- TIME TO COUNT DOWN<TV-CF 15">
- 69/99<VIDEO"WORLD'S ENDⅡ"Opening Film>
- TIME TO COUNT DOWN<from the TV"eZ"'90.11月><from the VIDEO "RHYTHM RED BEAT BLACk"'91.5月>
- Crazy For You<from EXPO '91.9月>
- Think Of Earth<from EXPO '91.9月>
- Love Train<VIDEO-CLIP>
- TMN COLOSSEUM Ⅰ・Ⅱ<TV-CF 30">
- 一途な恋<TV-CF 15">
- Nights of the Knife<TV-CF 15">
- 1974<フレッシュサウンドコンテスト>
*収録曲、内容の表記は既発商品に準じております。
2020.8.26(wed) release
MHXL-81/¥5,500 +tax
Blu-ray 1Disc/APPROX 117min
【All the Clips 1984~1999 Refinement】はミュージック・ビデオ20曲を収録したクリップ集。
特典映像として「Self Control and the Scenes from “the Shooting”」を追加収録。
TMのオリジナリティーや世界観を追求しつくしたコンセプト、こだわりぬき情熱を注いだTMのミュージック・ビデオはまさに永久保存、未来へ伝えておきたい作品群!
収録曲 ▶
- 金曜日のライオン
- 1974
- アクシデント
- Dragon The Festival
- Your Song
- Come On Let's Dance
- All-Right All-Night
- Self Control
- Get Wild
- Kiss You
- Come On Everybody
- Just One Victory
- Dive Into Your Body
- Time To Count Down
- Rhythm Red Beat Black
- Love Train
- Nights Of The Knife
- Get Wild Decade Run
- 10 Years After
- Happiness×3 Loneliness×3
*収録曲、内容の表記は既発商品に準じております。
SPECIAL(特典映像) ▶
Self Control and the Scenes from "the Shooting"
- Bang The Gong
- Self Control
- Time Passed Me By
- Spanish Blue
- Here, There & Everywhere
*収録曲、内容の表記は既発商品に準じております。
ご購入特典
*各特典のデザインは決まり次第発表させていただきます。
*いずれも数量に限りがございます。あらかじめご了承くださいますようお願い申し上げます。
<Sony Music Shop>
■2タイトルまとめご購入特典「ステンレスミニボトル ポケットサイズ」+「ポストカード2枚」
■単品ご購入特典「ポストカード」1タイトル購入につき1枚(*タイトルによって絵柄が異なります。)
DECADE 2020 HD REMASTER
All the Clips1984~1999 Refinement
<Amazon>
■2タイトルWご購入特典「トートバッグ」+「メガジャケ2枚」
■単品ご購入特典「メガジャケ」1タイトル購入につき1枚(*タイトルによって絵柄が異なります。)
<楽天>
■特典「コンパクト・ミラー」1タイトルにつき1個(*タイトルによって絵柄が異なります。)
<拠店特典>
■特典「ポストカード」1タイトル購入につき1枚(*タイトルによって絵柄が異なります。)
ティザー映像第二弾公開!
TM NETWORK 20曲のMVダイジェスト
Teaser Movie
【Get Wild】
8/26発売Blu-rayより
リマスター 比較映像公開!
TM NETWORK<ミュージック・ビデオ20曲>
【HDリマスター版】全世界配信!
金曜日のライオン(Kinyoubi No Lion)
1984.04.21
1974
1984.07.21
アクシデント(Accident)
1985.05.22
Dragon The Festival
1985.07.21
Your Song
1985.11.01
Come On Let's Dance
1986.04.21
All-Right All-Night
1986.11.21
Self Control
1987.02.01
Get Wild
1987.04.08
Kiss You
1987.10.01
Come On Everybody
1988.11.17
Just One Victory
1989.03.21
Dive Into Your Body
1989.07.21
Time To Count Down
1990.09.28
Rhythm Red Beat Black
1990.12.21
Love Train
1991.05.22
Nights Of The Knife
1994.04.21
Get Wild Decade Run
1999.07.22
10 Years After
1999.07.28
Happiness×3 Loneliness×3
1999.12.22
Episode 01:TOSHIRO ITO
-PART1-
最初の目撃者(witness)は、プロデューサーでもあり、エンジニアでもある伊東俊郎氏。TM NETWORKのデビュー・アルバムからスタジオワークに深くかかわり、TMサウンドを確立した重要人物の一人である。また、佐野元春、山下達郎、渡辺美里、米米CLUBなどの作品でも手腕をふるっている。前編にあたる今回は、伊東氏とTM NETWORKの出会いから。
── TM NETWORKの第一印象は?
伊東 当時、EPICソニーのプロデューサーだった小坂洋二さんからデモテープを聴かせてもらいました。ただ者でないのは、すぐわかりました。<新しい>と思いましたが、それ以上に<これよりもっと先>というか、<もっと新しい音>をやろうとしているのもわかりました。僕の場合、音が先。実際に三人に会ったのは、音を聴いてからです。EPICソニーがまだ青山一丁目にあった頃です。応接室で会いました。三人のビジュアルは陸サーファー(笑)。てっちゃんは腰に鍵をジャラジャラ下げていたし。ウツはロン毛のイケメン。木根にしても、その二人と一緒にいても違和感のない服装だった気がします。正直、あか抜けているな、と思ったのを覚えています。こう言っては誤解があるかもしれませんが、地方出身のロックバンドが東京で一旗あげてやるみたいな脂ぎったものは一切感じませんでした。あの頃、プロを目指すロックバンドと会うと、必要以上に股を大きく開いて座る人もいて(笑)。男臭さの強調なのか、威圧感なのか、そういう空気を発しているミュージシャンもいました。でも、彼らは三人がけのソファーに、本当に肩を寄せ合い、膝もちゃんと閉じて座っていて。そのときは、てっちゃんが一人で話していましたが、言葉の使い方も丁寧でした。と、音楽やスタジオワークに詳しいのもすぐにわかりました。
── 実際のデビューが近づくと、サーファーが金髪三つ編みや真っ赤に変貌するわけですよね。<おいおい。どうしちゃったんだ?>という戸惑いはありませんでしたか?
伊東 それは全然ありませんでしたよ。「髪形をこうしてみようか」みたいな話を、レコーディングスタジオでもちょこちょこしていたので。ある程度は、予想できていましたから。それに三つ編みも真っ赤な髪も似合っていましたから。ウツが真っ赤な髪になったときも、レコーディングが終わったあと、丸ノ内線で一緒に帰ったことがありました。すれ違う人たちも、ギョッとするより、え?誰?カッコいい!みたいな感じで振り返っていましたね。
── デビューシングル「金曜日のライオン (Take it to the Lucky)」のレコーディングの思い出はありますか?
伊東 当時、シンセサイザーにしても、他の機材にしても、レンタルすることが多かったんですよ。しかも、レンタル料がやたら高かった。なので、どれか機材を借りすると、それを使う箇所をまとめて録らなきゃいけなくて。シングル曲からレコーディングしたはずですが、基本的には何曲も同時進行でした。そんな状況でしたから、どの曲のどこでどういうことが起こったか、細かな記憶はありません(笑)。ただ、レコードになったとき、<あ、こういう曲名になったんだ>と思うことはよくありました。サブタイトルがついていたり。
── 「1974 (16光年の訪問者)」や「Self Control (方舟に曳かれて)」もサブタイトルがついていますね。
伊東 僕の個人的な見解ですが、メンバーの趣味というより、プロデューサーの小坂さんの趣味だったんじゃないかと思います(笑)。
── 思い出に残るミュージックビデオはどれですか?
伊東 レコーディングの費用もミュージックビデオの制作費も、一括して<TM NETWORK制作費>みたいな項目で予算組みされ、管理されるわけです。TM以外のアーティストも同じです。そうすると、もっと予算があれば、レコーディングでこういうこともできるのに、という気持ちは正直ありました(笑)。80年代中期、どのアーティストもけっこうな制作費をかけてビデオを作っていましたから。その意味では、「金曜日のライオン」「1974」頃は、僕の立場からしたら、ビデオ制作チームは敵でした(笑)。予算をもっとこっち(レコーディング)に回せよと。話が横道にそれましたが、ビデオの中で三人の立ち姿が決まってきたのは、「Come On Let's Dance」あたりからじゃないですか。坂西伊作が監督するようになった頃から。なぜそうなったかと、僕なりに分析すると、伊作も本気でTM NETWORKはカッコいい!と思っていたからだと思います。愛情の成せる業です。
CLOSE
Episode 01:TOSHIRO ITO
-PART2-
TM NETWORKヒストリーの目撃者である伊東俊郎氏。後編にあたる今回は、「Get Wild」「Dive Into Your Body」についても証言。また、現在に至るまで、宇都宮隆の活動を支える立場から、ボーカリスト宇都宮隆観にも言及。
── TM NETWORK初期の代表曲「Get Wild」の思い出を聞かせてください。
伊東 デモテープというか、プリプロの段階で、何回かバージョン・アップしていましたね。ただし、僕らからすると、前のバージョンとどこか変わったの?と思っても、てっちゃんの中では、確実に向上していたみたいです。デビュー当時からそうでしたが、てっちゃんの凄さのひとつは、音色でタイミングもスピード感も変わることを、深く理解していた点。簡単な例えだと、キックがドなのかドウなのかで違うってこと。ドのほうが当然、スピード感が出ますよね。だったら、空いたウをどう活用するべきか。そういうところは、デビュー当時から綿密に調整していました。「Get Wild」は、ボーカルも苦労した記憶があります。みっこちゃん(作詞家:小室みつ子さん)もスタジオに来て、「ここは息継ぎできない」「ここは口が回らない」とか、細かく修正しました。その頃になると、ディレクターとしてさんちゃん(山口三平さん)も制作チームに馴染み、コミュニケーションがより密になっていました。彼の存在も心強かったです。音楽的なことにも詳しかったし、英語にも堪能でしたし。スタジオワークのさまざまな局面で、選択肢が大きく増えました。
── 「Get Wild」のミュージックビデオを初めて観たときの感想を聞かせてください。
伊東 怪しい(笑)。香港がまだ中国に返還される前でしたし、世界一危険な空港とも言われていた時代だし、まだ九龍城もあった頃ですから。「Get Wild」のPVを観ると、ブルース・リーの映画の匂いがまだ残っていますよね(笑)。レコーディングしていたときだったか、「香港に行ってくる」と言うので、「そうなんだ」と返事をして…。次に会ったとき、「香港に行ってきた」と言うから、「いつ行ったの?」と、驚いた記憶があります。日帰り?と思うくらい短かったはずですよ(笑)。
── 「Get Wild」の頃には、TMサウンドと言えるものがほぼ確立されていたと思いますが。
伊東 もちろんあの三人の才能や実力の結果だと思いますが、「Get Wild」あたりには、環境もかなり整ってきていました。機材にしても。TM NETWORKのイメージも手伝ってか、各所から最新型の機材が集まってきていたのも、すごく恵まれていました。たとえばマイクにしても最新型のプロトタイプをソニーから貸し出してもらえたり。そのおかげでウツのボーカルも立ち上がりがよく録れたりして、スピード感やシャープさが増したのは事実です。他にもコンプレッサーやリバーブとか、いろいろ試作品を貸し出してもらっていました。他にも、ヤマハがてっちゃんに最新型のシーケンサーやシンセサイザーを提供していたし。TMの音をより新しく、より新鮮にしていた一端は、最新機材の結集にもあると思います。
── 新しさに不安定さはつきものですが、それでも新しさを求めたのがTM NETWORKだったということですね。
伊東 新しいといえば、「Dive Into Your Body」で女性コーラスをフィーチャーしたのも新しい展開でした。あれで華やかさが増したというか、それまでとは種類の異なる色気が増したというか。だから、ウツの歌い方も変わっています。それまではすべてジャストのタイミングだったのが、少しだけ外すこと、少しだけ音符を伸ばすことでR&Bの匂いをさせてみたり。「Kiss You」や「Dive──」の頃になると、レコーディングをしているときも、ウツの中では<ライブで表現しなければならない>という意識が強くなっていました。ダンスやパフォーマンスも視野に入れてのボーカル録り。これも新しい展開でした。35年以上も彼とつきあってきて思うのは、ウツは2時間のステージなら、最後の1秒までベストパフォーマンスを出すにはどうするべきか、その命題から逆算している気がします。マラソン選手なら、コースを分析し、何Km地点まではどう走るみたいな戦略がありますよね。どこでスパートするかとか。野球のピッチャーでも完投を目指すなら、何回までは速球中心の組み立てとか。中盤は変化球を多めにするとか。だから、ウツは発想がアスリートなんですよ。類まれな音楽的運動神経を持っている音楽的アスリート。そこに焦点を当て、今一度TMを聴き返してみてください。僕の言っていることが理解していただけるはずなので。
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Episode 02:YOJI KOSAKA
-PART1-
TM NETWORKヒストリーを紐解くにあたり、<最重要>と言える目撃者(witness)の登場だ。元EPICソニー小坂洋二プロデューサー。TM史を書き改めなければならないほどの発言が次々に飛び出す。全4回の、PART1は、激震必至、TM NETWORK結成前のエピソードから。
── 本日は、古いお話をうかがいたいと思っています。よろしくお願いいたします。
小坂 30年以上前のことなので、記憶が確かでないところや記憶が間違っているところもあるかもしれませんが、できる限りお答えします。
── 木根尚登著『電気じかけの予言者たち』には、デビューを目指し、「1974」と「パノラマジック」の2曲入りカセットテープをレコード会社や音楽事務所などに郵送する記述があります。カセットにはTM NETWORKと小室さんの自宅の電話番号だけ書き、メンバー構成などの詳細は一切明かさず送ったと。その中の1本が小坂さんの元に届いたのがすべての始まりですね。
小坂 いえ、若干違います。83年でしょうか、確かなことは忘れましたが、ある音楽雑誌の編集者から私のもとに1本のカセットテープが届きました。その編集者がそれをどういう経緯で手にしたのかまでは知りません。ただ、「ご興味ありませんか?」という、推薦よりもっと軽い、紹介のような形だったと記憶しています。聴くと、シンセサイザーとキーボードで構成されたインストゥルメンタルでした。アルバム1枚分くらいの曲が入っていたはずです。インストなのにメロディが聴こえてきました。知らず知らずにそのメロディを耳が追ってしまうというか…。気がつくと、何度も繰り返して聴いていました。聴いていくうちに、そのインストに日本語の歌詞のボーカルが乗っている音像が、私なりに広がりました。もしもそれが実現できたら、当時の日本の音楽シーンになかった新しい音楽が生まれそうだと、予感がしました。で、インストの制作者にすぐに電話して会いました。それが小室哲哉君です。
── 始まりは小室さんのインストですか!?
小坂 そうです。
── 公式ストーリーとは異なります。
小坂 私は、小室君と話していたので、それがどういう形で宇都宮君や木根君に伝わったかまではわかりません(笑)。しかし、小室のインストを聴くと、彼がやろうとしていること、やりたがっていることがわかりました。実際に会って話すと、すべて一人で多重録音しているとのことでした。
── 今のお話をうかがい、TM NETWORKのアルバムにインストが入っている必然性が今まで以上に担保された思いです。
小坂 今言ったような私なりの感想と「ボーカルの入っている音楽をやりませんか」と、私なりの提案を初対面のときにしました。小室君も「わかりました」と了解してくれ、連絡を取り合うようになりました。「三人組でいきたい」「グループ名はTM NETWORKにしたい」などの報告も、どのタイミングだったか定かではありませんが、受けていたと思います。一方、私からは、簡単に言いますと、「この業界を騒がせてきてくれ」みたいな要望を出しました。どう騒がすかといえば…。例えばですが、コンテストで優勝するとか、各レコード会社で争奪戦になるとか。そんな話も小室君にした記憶があります。すると、本当にフレッシュサウンズコンテストで優勝し、木根君の本に書いてあるというデモテープを郵送するプロモーションにより、各レコード会社で争奪戦になり、驚きました(笑)。
── 小室さんの第一印象は?
小坂 今の小室君とまったく同じです。素直だし、率直でした。若かったので、常識的な好青年という印象でしょうか。彼も私も早稲田大学だったこともあり、学生時代の話をした気がしますが…。
── 宇都宮さんと木根さんの第一印象は?
小坂 宇都宮君は、確かに口数は少なかったと思います。もともとそうなのか、初対面だからそうなのか、その時点ではわりませんでした。木根君も緊張していたのか、饒舌ではなかったですね。初対面からしばらく経って、TM NETWORK以前に宇都宮君が歌っていたバンドの音も聴きました。こう言っては申し訳ないけど、ありがちな和製ロックバンドでした(笑)。小室君の曲での宇都宮君とはまったく別です。そういう経歴も各自のパーソナリティーもほとんど知りませんでしたから、彼らとマネージャーと私と、5人でとある方の別荘で10日間ほど合宿しました。オリエンテーションみたいなものです。そのときですね、彼らが何を考えているか、何を目指しているか、ゆっくり話し合えたのは。とはいえ、ブレスト(ブレインストーミング)と言えるほどのものではなく、実際は酒を飲むか、ゲームをしていました(笑)。それでも10日も一緒にいると、それぞれの人物像も見えてきます。改めて確認できたことは、小室君が目指している方向に宇都宮君と木根君も賛同していることでした。
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Episode 02:YOJI KOSAKA
-PART2-
PART1にして早くもTM NETWORKオフィシャルストーリーが書き改められた。目撃者(witness)元EPICソニー小坂洋二プロデューサーの証言はそれほど重い。PART2の今回は、ミニアルバム『TWINKLE NIGHT』頃まで。そして、またしても衝撃の証言が炸裂。「解散」の二文字が小坂氏の口から飛び出す。
── 「金曜日のライオン(Take it to the Lucky)」をデビュー・シングルに決めたのは、小坂プロデューサーのジャッジでしたか?
小坂 私だったのか、他の誰かだったのか…。思い出せません。でも、あんな曲は、それまでの日本の音楽シーンにはなかったので、私がデビュー曲に推したのかもしれません。ただし、私が「これじゃなきゃダメだ」と言った覚えはありませんけど(笑)。どれでも良かったと言っては語弊がありますが、どの曲だろうと、小室君の音楽の新しさを伝えられると思っていのは確かです。その中でも「1974」のほうが従来のポップスに近かい気がしていました。
── 1984年4月21日、TM NETWORKがめでたくデビューしましたが、当初、前面に出ていたのは小室さんと宇都宮さんでした。木根さんを隠れキャラにしたのは、小坂さんのプロデュースですか?
小坂 私は関知していません。きっと彼ら、つまりメンバー三人と当時のマネージャーの青木さんで決めたことだと思います。もしかしたら木根君が被害妄想で自ら一歩引いたのかもしれないけど(笑)。
── 1st(デビュー)アルバム『RAINBOW RAINBOW』は、期待したほどの結果が得られませんでしたが…。
小坂 レコーディングにしても、ジャケットにしても、ビデオクリップにしても、随分と制作費をかけました。デザイナーやスタイリストも一流を集めたのに、豪快に空振りしました(笑)。
── EPICソニー社内でお叱りを受けた記憶は?
小坂 いえいえ。誰も私を叱れません。なぜなら、こうすれば売れると、わかっている人間なんていないから。もしかしたら「もうこんなに金を使うなよ」くらいの気持ちがあったのかもしれませんが、直接言われることはありませんでした。私は売ることがあまり上手ではないし、得意でもないし、売らんがために策を弄するのも苦手なほうです。ところが、彼らはまったく違っていました。売れたい、売れなきゃダメだ、という気持ちが強かった。だから、私が頼みもしないのに、握手会をやったり、キャンペーンで全国各地を回ったりしていました。あの頃、口には出さなかったけれど、<別にやらないでもいいんじゃない?>と、実は思っていました(笑)。
── 2ndアルバム『CHILDHOOD'S END』の売れ行きも芳しくなかったですね。
小坂 今だから言えますが、あまり売れるとは思いませんでした(笑)。新しいことをやっているし、やろうとしているし、小室君の才能に疑いの余地はなかったけど、それと売れるのは別問題ですから。売れるためのコツというか、ツボというか、当時の小室君はそういうものにまだ手が届いていませんでしたね。だから、3枚目のアルバムを作り始める前、小室君と私、二人のあいだでは「これでダメだったら解散しよう」という話になっていました。
── ミニアルバム『TWINKLE NIGHT』収録の「ELECTRIC PROPHET (電気じかけの予言者)」。当時、ライブではおなじみの1曲でしたが、噂によると、あの歌詞をあの頃の小坂プロデューサーは、あまり評価されていなかったと聞きました。
小坂 それはあくまでも噂です。あの曲はシングル・ヒットを狙ったわけでもなく、当時の小室君が純粋にやりたい曲でしたから、私が歌詞について、あれこれ口を挟む余地はありません。小室哲哉の世界です。評価するとか、評価しないとかではなく、<てっちゃんはこういう世界を見ているんだ>という驚きは覚えています。
── では、デビュー当時、あるいはブレイク前の作詞家・小室哲哉については、どう思われていましたか?
小坂 デビュー当時から、彼が作詞したいなら、彼が作詞すればいいと思っていました。ただ、「Self Control」で結果を出すまでは、とにかくメロディを含む音にできる限り集中したかったのではないでしょうか。「これはどうしても自分で歌詞を書く」と主張した曲はなかったはずです。私にしても、心の中では、<自分で作詞まですればいいのに>と思っていましたが、なぜかいつも歌詞はお任せしますみたいな流れになりがちでした(笑)。デビュー当時、一昨年亡くなった私の友人でもある麻生香太郎君に作詞を依頼したこともありました。彼は、東大出身でインテリジェンスもあるし、歌謡曲の作詞はお手の物だけど、小室君のメロディやサウンドにはまる歌詞は書けませんでした。
CLOSE
Episode 03:SAMPEI YAMAGUCHI
-PART1-
二人目の目撃者(witness)は現・フリーランスの山口三平氏。1984年からスタートした、TM NETWORK北海道プロモーションのキーマンである。北海道から全国区へと人気が拡大したことを思うと、TMブレイクの導火線に着火した人物とも言えるだろう。また、85年からは、ディレクターとしてTMと密にかかわった。
── TM NETWORKデビュー当時の、北海道プロモーションの仕掛け人が山口さんですよね。
山口 仕掛け人というか…。ある日、TM NETWORKのアーティスト担当だった坂西伊作から電話があって。彼と僕は同い年だったこともあり、割りと近い間柄でした。で、伊作が「TMを北海道で売り出したい」と。「ある程度の予算も確保した」と。プロモーション案の概要を聞き、一回僕が預かりました。そこから各方面に相談してみたり、伊作が提示してくれた予算で、テレビ・スポットなら、どれくらいのことができるかとか、調べました。ちょうどその時期、UHB(北海道文化放送)で始まるテレビ番組があったんですね。情報番組の『おもしろザウルス』。それと組めれば、面白い展開になるんじゃないかと、番組サイドに提案をしてみましたところ、興味を持ってくれて合意できました。東京と何度も電話する中、TMのメンバーも頻繁に北海道に足を運ぶ確約も取れたし。番組のレギュラーではないけど、定期的に出演したり、番組主催のイベントにもゲスト出演したりする計画も進みました。月並みな言い方ですが、全員一丸となって取り組みました。
── 北海道時代の思い出のミュージックビデオは?
山口 「1974」です。あれを見せると、何はともあれ、札幌のマスコミ関係者の方々は全員がビックリしていました。正直、「チャラい」と嫌う人も少なくなかったけど、逆に「面白い!」と前のめりになってくれた方も多かった。だから、北海道でのプロモーションが成功したわけです。そのマスコミ関係者以上に、あの時代に、あのヴィジュアルやファッションも含め、あの新しさを受け入れてくれた北海道のファンの人たちは、本当に感度が高かったんだと思います。
── 少しだけ時が流れ、86年になる頃、山口さんはTM NETWORKのディレクター、坂西さんは映像監督になっていましたね。
山口 はい。「Come On Let's Dance」は伊作の監督作品です。実は、あの曲ができたとき、TMチームの中では、これで全国的にブレイクする!と意気込んでいました。伊作も「てっちゃん、これだよ!これ!」と、熱くなっていたし(笑)。僕も、売れると確信していました。
── ただ、「Come On Let's Dance」は結果を出せなかった。落胆しましたか?
山口 いえ。全然。もちろん売れ行きという指標もひとつの結果ですが、評判やアーティストの成長などの指標も含め、総合的に判断すると、結果は上出来だったと思います。冷静に捉えて、多少荒削りなところもある、とわかっていましたし。<荒削り>という言葉はTMには似合わないけど、アーティストが大きく成長するとき、大事な通過点だったと思います。あの頃、バブルという時代やEPICソニーの社風も手伝って、20代だった僕らにかなり好きにやらせてもらえたのも大きかったですね。というか、好きにやっちゃった、というほうが正解かもしれませんけど(笑)。
── 新しい船を動かすのは新しい水夫ですよね。
山口 80年代、銀座ビデオテックというビデオの編集スタジオに行くと、伊作をはじめ、僕と同世代の社員が何人もそこに住んでいたような印象がありました。いつ行ってもいるし、いつまでもいるし(笑)。そこから撮影現場に行き、そこに戻るし。ライブビデオの仕上げや、ビデオコンサートBEEの編集について、「あーでもない」「こーでもない」と、全員で喧々諤々していました。単なる結果オーライだけかもしれないけど、映像の専門的な知識がなかった分、ルールを知らないからこそ新しいことができたのかもしれませんね。そういうクラブ活動的な空気は、TMチームにもありました。宇都宮さんと木根さん、当時のマネージャーの青木さん、作詞家の小室みつ子さん、伊作と僕、全員が同じ年ですから。小室さんだけ1コ下。10歳上の小坂さんが顧問の先生なら、3、4歳上のエンジニアの伊東俊郎さんが先輩みたいな。そういう同世代チームだったことも大いにプラスでした。
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Episode 03:SAMPEI YAMAGUCHI
-PART2-
二人目の目撃者(witness)である山口三平氏。その証言パート2。ロサンゼルス・レコーディング「KISS YOU」、ロンドン・レコーディング『CAROL』、リプロダクションアルバム『DRESS』などについての貴重な証言が飛び出す。また、山口氏の中での三部作についても触れていただいた。
── EPICソニー時代のTM NETWORKは、海外レコーディングに積極的でしたね。
山口 その最初が3rdアルバム『GORILLA』。あのアルバムは、TMにとって変革のレコーディングだったと思います。というのは、起用するミュージシャンの幅を飛躍的に広げたから。それは小室さんの希望です。個人的な見解ですが、小室さんは吸収したい時期だったからじゃないでしょうか。その幅広い選択肢の中にニューヨークのミュージシャンも含まれていたわけです。だから、短期でしたけど、ニューヨークに飛びました。僕の中では、『GORILLA』『Self Control』『humansystem』が制作手法上での三部作です。内外を問わず、求めるミュージシャンたちと積極的にかかわっていく、さらには宇都宮さんの歌唱法が確立されていくという点での三部作。前回、「Come on Let's Dance」が荒削りと言いましたが、それが洗練されていき、『humansystem』へたどり着くという捉え方をしています。
── ロサンゼルス・レコーディングの思い出は?
山口 いろいろありますが、たとえば「KISS YOU」も思い出深い1曲です。プロデューサーの小坂さん以下、スタッフの推しが強かったのを覚えています。僕も伊作も「次のシングルは、これで行きたい!」と主張しました。TMのイメージからすると、ちょっと硬派です。だから、小室さん的には、少し心配していた気がします。
── ロンドン・レコーディングはロサンゼルス以上の長期滞在になりましたね。
山口 ある意味、引っ越しでした(笑)。実際、小室さんは、一足先に現地に引っ越していましたし。あのレコーディングから、大竹健さんが参加したのも大きな戦力アップです。
── 現 ソニー・ミュージックエンタテインメント コーポレートSVPの大竹さんですね。
山口 そうです。彼も現地に住み、小室さんをフォローしながら、もちろんTMのレコーディングの面倒も見てくれました。スタジオの仕事は当然ですが、日常的なところも彼が全員をケアーしてくれて。彼がいなかったら、『CAROL』は完成していないかもしれません。それくらい頼みの綱でした。
── 70年から多くの名盤や名曲を生んだエア・スタジオ(AIR Studios)も使いましたね。
山口 名門中の名門です。ロンドンのど真ん中にあって利便性も良かったです。もちろんスタジオの中もロビーも格式を感じるというか…。天井も高く独特の雰囲気を醸し出していました。ところが、ある日、冷蔵庫に入っていた牛乳を、木根さんがカーペット敷きの床にぶちまけちゃって(笑)。その日一日は、そのあたりに乾いた牛乳の匂いが漂っていたから、通るたびに誰もが「臭っ!」と言っていたのを覚えています(笑)。
── ロンドン・レコーディングの次が、世界各地でリプロダクションされたベストアルバム『DRESS』。
山口 世界的にも初かそれに近い試みだったのではないかと思うので、無事に完成したときは、嬉しくもあり、安心もしました。ところが、会社的には「とはいえベストアルバムだよね」という意見もあって。ディレクターの僕が呼び出されました。偉い方々は、不安だし、不機嫌で。しかも、ちょうど運悪く、眼鏡を壊してしまい、仕方なくサングラスをしていた僕に「おい、まずはサングラスを取れ!」と。そこから説教半分の事情聴取です。「こんな制作費をかけて大丈夫か?」と、けっこうな勢いで問い詰められました(笑)。
── 実は、山口さんも不安でした?
山口 いえ。「大丈夫です」と大見栄を切って帰りました。『CAROL』のときも、予算を大幅にオーバーにしていたので、経営者にしたら、こいつらに任せておいたら飛んでもないことになるかも?と思ったんでしょうね(笑)。ただ、結果的には、『CAROL』も『DRESS』も、おかげさまで黒字に着地できたので、ドン・キホーテにならずに済みました。
CLOSE
Episode 04:NOBUAKI TAKAHASHI
-PART1-
新たな目撃者(witness)は、アートディレクターであり、デザイナーでもある高橋伸明氏。TM NETWORKデビュー当時、EPICソニー・デザイン室に所属。TM初期のアートワークをいくつも手がけている。過去、TMについて多くを語ってこなかっただけに、初公開!?の証言が飛び出しそうだ。
── TM NETWORKの初仕事を教えてください。
高橋 シングル「1974」のジャケットでした。上司から写真を渡され、「やってくれ」と。そこから僕がデザインしたり、別の方だったりという時期ありました。セカンド・アルバム『Childhood's End』やミニアルバム『TWINKLE NIGHT』のデザインは僕が担当しました。でも、『GORILLA』は僕じゃない。
── スチール撮影時、思い出の残るエピソードはありますか?
高橋 てっちゃんが遅いのはいつものことでした(笑)。とはいえ、ウツも早いほうでもなかったし(笑)。スケジュール通りだったのは、木根君だけだったかも。でも、三人とも紳士的ですから、撮影現場は至って静か。僕がデザインをするとき、大川直人に撮ってもらうことが多くて、彼も物静かだし、メンバー三人も大声ではしゃぐタイプではないので、粛々と撮影を進めていた印象です。基本的に、彼らは自分からポーズを決めるのが得意ではなかったので、撮っている大川の背後で、僕が身振り手振りでリクエストすると、それにもちゃんと応えてくれていました。
※メンバーと高橋氏(今回の写真はすべて高橋氏よりご提供頂きました)
── 『TWINKLE NIGHT』のジャケットでの<小室哲哉だけ別世界>なのは、高橋さんのアイデアですか?
高橋 どうだったのか。そこの記憶は定かではありません。ただ、てっちゃんだけ別世界にいる空気があったのは事実です。ウツと木根君は、この世界の住人だけど、てっちゃんだけが違っていたというか。
── アルバム『Self Control』は…。
高橋 僕です。あれからですね、じっくり関わるようになったのは。(山口)三平や(坂西)伊作から「とにかく格好いいジャケット作ってよ」と言われたのを覚えています。その打ち合わせのあと、僕がイメージしたジャケットのデザインは、ディープ・パープルの『ファイアボール』。写真の撮り方は、ビートルズの『ミート・ザ・ビートルズ』でした。「今までよりロックっぽく」とか、あの頃、主にやり取りしたのは、ディレクターの三平でした。
── 『Self Control』のジャケットでは、木根さんがサングラスを外していますね。
高橋 あれは僕がお願いしました。最終的に陰影の濃い写真になるから、どうせ目元ははっきり写らないので、と。
── 「木根のサングラスは…」と、事務所の抵抗はありませんでしたか(笑)。
高橋 もしもあれば、記憶にあるから。なかったと思いますよ(笑)。ちなみに『Self Control』のジャケットのてっちゃんの顔は、左右を反転させています。だから、ジャケットには左の横顔として使っているけど、実際は右側から撮った横顔。ポラロイド写真を撮ってみて、左右どちらの顔を使うか決めました。
── シングル「Get Wild」のジャケットは、『Self Control』の流れですか?
高橋 『Self Control』の撮影時の、別バージョンを合成したはずです。記憶が曖昧ですが、もしも『Self Control』撮影時に「Get Wild」の発売日もわかっていたら、意図的に木根君のサングラス・バージョンを撮っておいた可能性もあります。
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Episode 04:NOBUAKI TAKAHASHI
-PART2-
デザイナー高橋伸明氏は証言する。「まるで学校のクラブ活動みたいな時代だった」と。別の目撃者(witness)にも同様の証言があった。つまり、冷静沈着なプロフェッショナリズムではなく、情熱と自由のによって支えられていたプロジェクトだったということ。TM NETWORK部は楽しかったということ。
── 『humansystem』のジャケットのオブジェは、どのような経緯で制作されたのですか?
高橋 デザインは僕がしました。三人の人間が合体しているイメージでスケッチを描き、事前にてっちゃんに見てもらったと思います。それから多田美術さんに実際に造形をお願いしました。
── ジャケットのTM NETWORKのOも印象的でした。あれも?
高橋 僕ですね。
── Oの目玉が…。
高橋 目玉じゃないけど(笑)。
── 可愛い。
高橋 いや、可愛いとかじゃなくて…。僕としては、ロシア・アバンギャルドの雰囲気を出したかったんだけど(笑)。
── 失礼しました。
高橋 でも、毎回、そういう遊びも許容してくれる大らかな人たちだったのは確かです。今、思い出したけど、TM NETWORKが当時としては、長い英語だったので、いろいろ試していたのかもしれません。大文字と小文字の使い分けとかも含めて。
── では、『CAROL』のジャケットは?
高橋 あれは、てっちゃんの中で<作画やデザインは(アニメ制作会社の)ガイナックス>と決めていたはずです。ジャケット・デザインの打ち合わせには行きましたが、「ここにロゴを入れたい」「表4のここに定型文が」とか、僕は事務的な確認でした。
── 『DRESS』は?
高橋 僕です。ポラクロームというのがあって。簡単に言うと、専用の機械を使い、その場で現像できるポラロイド・フィルムです。それを使って遊ぼうよって発想でした。そのポラクロームに、まずは模様を撮影して、次に三人を撮影するという、多重露光して、現場で現像して、すぐに見ることができるという撮り方をしました。シングル「GET WILD '89」とかも同じです。
(今回のメンバーの写真はすべて高橋氏よりご提供頂きました)
── 80年代のTMとの仕事を振り返り、思うことはありますか?
高橋 僕がウツや木根君より1コ上なので、だいたい同世代。先ほど名前を出した大川も、確か二人と同じ歳だったはずですし。しかも、僕もEPICソニーに入社して、まだ2年か3年しか経っていない頃でしたし。デビューしたてのTMの三人にしても、三平や伊作にしても、同世代が集まって、わいわいやっていた時代でした。まるで学校のクラブ活動みたいな時代でした。
── ロック同好会みたいな?
高橋 確かに共通言語としてロックはあったのかもしれません。ウツのソロ・デビューのときに紹介した、コスチュームをデザインするGORI(鈴木好弘)さんも同世代のロック好きです。だから、東京ドームでのTMN終了コンサートの衣装や30周年コンサートの衣装とかも手がけるくらいの仲になれたのかもしれませんね。
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Episode 05:MASAHIKO UEYANAGI
-PART1-
上柳昌彦。フリーアナウンサー(元ニッポン放送アナウンサー)。これまで登場していただいた制作陣より一歩客観的、FANKSより一歩内側。そんな唯一無二の立ち位置の目撃者(witness)。1986年から始まったニッポン放送『HITACHI FAN! FUN! TODAY』『ぽっぷん王国』、この2本の生放送を通し、J-POP勃興の一翼を担った伝道者でもある。
── あの時代、毎晩が文化祭のような熱気だったのではないですか?
上柳 ラジオからヒット曲が生まれる時代でしたから。おっしゃるとおり熱気がありました。ただ、自分は音楽番組を志望していたわけではなく、どちらかといえば夜のワイド番組を担当できればと思っていました。でも、(ニッポン放送では)すでに『三宅裕司のヤングパラダイス』が大人気でしたから。これは無理だと諦めていました。そうしたら上司から「深夜の音楽番組を生で1時間」と言われ…。裏(番組)がTBSの松宮一彦さんの『SURF&SNOW』でしたから、話を聞いた瞬間、こりゃ無理だと思いました(笑)。松宮さんは曲をきっちりかけるスタイルを確立されていたので、同じことをやっても、それこそ勝ち目がない。だったら僕はトークのほうに少しばかり重心を置こうと。たとえばTM NETWORKにしても、あんなにダンサブルな音楽で、煌びやかなコンサートなのに、話せばこんな一面もあると、リスナーのみなさんにご紹介できたらいいなと。TMのコンサートはMCがありませんよね。でも、僕の番組に出演してくださったときは、<ここにきちゃったら仕方ない>と、どこかで許してくれていたんでしょうね。ありがたいです。あれ?どっちが先でしたっけ?TM NETWORKがブレイクしたのと、小室さんが渡辺美里さんの「My Revolution」の作曲をしたのは。
── 86年の「My Revolution」が先でした。
上柳 では、TMの「Come on Let's Dance」と「My Revolution」は?
── リリースは「My Revolution」が3ヵ月先でした。
上柳 ということは、ほぼ同時期ですね。最初に美里さんとお会いした頃、確かまだ高校の制服を着ていた印象があります。
── 大江千里さんの「十人十色」が84年。REBECCAの「フレンズ」が85年。久保田利伸さんデビューが86年。
上柳 まさに一気に花開いた時期だったんですね。久保田さんと初めてお会いしたとき、印象としては、音楽好きの大学生でした。一緒に活動されていたMother Earthのギターの羽田一郎さんも大学のバンド仲間だったはずですし。TOKYO FMホールでのコンサートのときなんて、衣装のズボンのサイズが合わなかったらしく、ずっとたくし上げながら歌っていました(笑)。それをからかうと、久保田さんは「それ言わないでくださいよ」と、困った顔をされていましたね。
── 都市伝説をひとつ確認させてください。上柳さんがTM NETWORKのステージで熱唱したことがあるというのは事実ですか?
上柳 いえいえ。あれは歌わされたんです(笑)。「カリビアーナ・ハイ」でした。何年だったか、そこの記憶は定かではありませんが、場所は日本青年館でした。ファンミーティングのステージです。僕が歌う企画が決まると、次は「じゃあ、本番は、ウツの衣装を着てね」と。もうその時点で三人ともニヤニヤされていました(笑)。しかも、本番日が迫ってきたら、「音合わせがしたい」と言われ。ついては、ツアー中だったのかな、「福岡まで来てください」となりました(笑)。
── 迷惑な人たち(笑)。
上柳 福岡の会場にうかがうと、コンサート前の楽屋で小室さんのピアニカと木根さんのアコギと、宇都宮さんはタンバリンだったのか、とにかく4人で練習したのを覚えています。当然、仕事の一環ですけど、博多ですから、九州一の繁華街ですからね、心の片隅に期待はありますよね。終演後の打ち上げとか(笑)。どんな美味しいものを食べられるのかなと。ところが、コンサートが終わったら、巨大なディスコに連れて行かれ、焼きそばだの、炒飯だの、東京でも食べられるものがテーブルに並べられて…。小室さんの偏食は有名でしたから、仕方ないにしても、宇都宮さんも木根さんも楽しそうにしていらして。あれ?僕の博多の夜は?どこ行ったの!?(笑)。
── 本番では、宇都宮さんの衣装を?
上柳 はい。日本青年館に行くと、派手な柄のロングコートみたいなのが用意されていました。それを着てFANKSのみなさんの前に登場して、爆笑されながら、キャーキャー言われながら、歌わされた貴重な思い出です(笑)。
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Episode 05:MASAHIKO UEYANAGI
-PART2-
TM NETWORKのみならず、J-POPのテンプレートが構築された時代の目撃者(witness)でもある上柳昌彦。記憶に残る、TMとのいくつものレアな体験。それがもしかすると、<金色の夢>だったのかもしれない。
── 上柳さんは1957年生まれですよね。
上柳 はい。だから、宇都宮さんと木根さんと同い年です。
── 同世代ならではの「中学時代はあれが流行った」「高校時代はあれを聴いた」なんて話題もあったのではないですか?
上柳 僕は、中学と高校、音楽はフォークとロックだったので、最初にTM NETWORKを聴いたときは、自分の歴史にはない音楽だと思いました。ダンサブルな音楽は聴いていなかったので。でも、当時の上司の浅野(啓児)さんが新しいものに飛びつく方で、「TM NETWORKのステージが素晴らしい!」と誘われ、中野サンプラザに行きました。あの頃は、バリライトと言っていたと思いますが、80年代としては、画期的なムービングライトを使った照明でした。だから、どっちかと言うと、照明を見に行ったような(笑)。ステージは照明も含めまぶしいくらいキラキラしていて、音楽はダンサブル、衣装も派手だったので、どうやってインタビューしようと悩みました(笑)。ところが、実際にスタジオでお会いしたら、物静かだし、丁寧だし、感じのいい人たちでした。しかも、いい香り(笑)。あの頃は、ダイエースプレーの匂いが強いバンドもけっこういましたが、TMの三人は、コロンなのか、ムースだったのか、ほんのりいい香りしていました。
── 宇都宮さんは寡黙でしたか?
上柳 多くを語る方ではありませんでしたね。でも、ニコッと笑ってこっちを見られると、同じ歳、同性でありながらも、ドキッとさせられてしまうような人でした(笑)。
── 木根さんは親しみやすかったですか?
上柳 そうですね。TM NETWORKなのに10代の頃に聴いていた音楽が、吉田拓郎さんやかぐや姫だったとうかがい、意外でしたが、音楽の趣味が同じだったので、話しやすかったです。
── 小室さんは声が小さかったですか?
上柳 木根さんがオールナイトニッポンのパーソナリティをやられたり、小説を書かれたりしたのも、小室さんのプロデュースの一環ですよね。木根さんに肩書というか、色みたいなものをつけるためのプロデュースだった気がします。そういう点では、80年代からプロデューサーだったと思います。ただ、ラジオなのに声を張らない(笑)。
── TM NETWORKとの距離が特に近かった時期は、いつ頃ですか?
上柳 ラジオの生放送をやっていた86年から90年の4年間です。88年でしたか、年末でした。「笑っていいとも!」のスタッフから「テレフォンショッキングに小室さんが出演することになりましたが、小室さんが芸能界に友達がいないとおっしゃっていて、なんとかなりませんか」という電話をいただき、「いくら何でも」とお断りしたものの、口説き落とされたという顛末でした。当時、ラジオ番組『FAN! FUN! TODAY』なども担当していましたが、同時に「ディレクター業務も覚えろ!」と会社に言われ、タモリさんの録音番組のADをやっていまして。「TM NETWORKからの紹介は…」と出て行ったら、タモリさんから「あんたはラジオのディレクターだろ」と突っ込まれました(笑)。
── 前回の博多リハーサルといい、迷惑三昧(笑)。
上柳 いえいえ。人生において忘れられない場面をプレゼントしていただきました(笑)。
── ちなみに上柳さんが紹介されたのは?
上柳 RED WARRIORSのダイアモンド☆ユカイさんでした。
── そんな上柳さんにとって最も思い出深いTM NETWORKの1曲は?
上柳 1曲に絞るのは難しいですが、「SEVEN DAYS WAR」を初めて聴いたときは驚きました。それまでのダンサブルや派手な曲調とは正反対だったので。でも、凄くいい曲だと思いました。映画『ぼくらの七日間戦争』の主題歌でしたよね。会社から「TM NETWORKが主題歌を担当するんだから、この際、お前も映画にちょっと出ろ」と言われ(笑)。ニュース・キャスター役で出演させていただきました。その縁もあり、試写会の司会もやらせていただいて、デビューしたばかりの宮沢りえさんともお会いできました。映画に出演している、同世代の子供たちを明るくまとめていて、可愛くて賢い学級委員長みたいな印象でした。
── では、最後になりますが、今回発売されるブルーレイ2作品をご覧いただいた感想を聞かせてください。
上柳 『DECADE 2020 HD REMASTER』を改めて観たとき、自分があんなに長くナレーションをしていたのに驚きました(笑)。生放送当日、ナレーションをしたことは覚えていましたが、もっとコンパクトだったと、勝手に記憶を書き換えてしましたね。あのスタジオ「ラジオハウス銀河」で、TMが生演奏したことも思い出しました。番組が生放送だったのか、収録だったのか、記憶が定かじゃないですが、リスナーの方々をご招待して、TM NETWORKの生演奏を見てもらうという主旨でした。当日、機材の搬入が始まると、小室さんのキーボードが次から次と運び込まれ、どんどん場所を占拠して、気がついたら、円形に組み上げられていました。お客さんはどこに座るんだろう?という状態になりました(笑)。小室さんに「こんなにキーボード必要ないでしょ?」「使うのは1台か2台でしょ?」と言ったのを覚えています(笑)。こうしてお話していると、次々に記憶が蘇るし、久々に三人とお会いして話したくなりました。
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Episode 02:YOJI KOSAKA
-PART3-
内と外、主観と客観、表と裏、両方の視点からの目撃者(witness)元EPICソニー小坂洋二プロデューサー。ゆえに証言は、独自の説得力をまとい、もうひとつのTM NETWORKを発見できる驚きと喜びをともなっている。いよいよ小坂プロデューサーの全4回インタビューの後半がスタート。
── 「Come on Let's Dance」では、ヒットの予感がありましたか?
小坂 どうだったか…。確かな記憶はありませんね。ただ、日本人には受けるだろうな、とは思いました。でも、私が最初にイメージした、それまでの日本の音楽シーンになかった曲とは違っていました。このあたりからですかね、ダンスの要素が強くなったのは。最初に聴いたカセットテープには、その要素はありませんでしたから。でも、ダンスの方向に舵を切った小室君の判断が、売れるという点では、正しかったということになります。「Come on Let's Dance」は何年でしたか?
── 86年4月。12インチシングルでの発売です。先ほど、話に出た3rdアルバム『GORILLA』の先行シングルという位置づけだったと思います。
小坂 そうですか。じゃあ、徐々にライブの動員も増え始めていた頃ですね。当時、確か中野サンプラザでもコンサートができるようになっていました。そのステージで宇都宮君が転倒して、足首を捻挫しまして…。
── TM NETWORKの歴史をまとめた、ファンクラブ限定本『The FANOPÉDIA #1990』によると、FANKS DYNA-MIX TOURについて<ファイナルの中野サンプラザ2DAYSのチケットが2時間でソールド・アウト。そのサンプラザで「アクシデント」演奏中にアクシデントが起きた。宇都宮隆が転倒。しかし、そのまま立ち上がって踊ったため、多くの人たちは演出のひとつと思ったようだ>となっています。
小坂 なるほど。そのコンサートの後、マネージャーの青木さんを含め、一同が集合して、「今からってときに…」「これでしばらく動けなくなったらマズい」とか、喧喧囂囂でした。そんな調子でしたから、当時は、上り調子ではありましたが、「売れた」という実感も実績もありませんでした。私の記憶によれば、あの中野サンプラザの週か翌週かでした、『シティーハンター』のタイアップの話がきたのは。
── その話に飛びついた(笑)。
小坂 ええ。検討するなんて余裕はなかったので。飛びついた結果、「Get Wild」が生まれたわけですから、結果オーライ(笑)。
── TM NETWORKがブレイクする頃、仮想ライバルを設定していましたか?
小坂 当時は、誰が活躍していました?
── THE ALFEE、REBECCA、安全地帯…。
小坂 そういう方々を意識したことは一切ありません。彼ら自身も特定の誰かをライバル視することはなかったです。というのは、音楽にしても、ライブのやり方にもしても、ビジュアルにしても、TM NETWORKが目指しているものの先駆者という存在が見当たらなかったからです。だから、自分たちの道を見極めるのに時間がかかったのかもしれません。もしも意識していたとしたら、その当時一番売れていた方です。チェッカーズなのか、少年隊なのか、おニャン子クラブなのか知りませんが。要するに、誰を越したいではなく、一番売れている人を越えたいってことです。三人とも、その意識は持っていたと思います。
── <一番になりたい>という意識は、小室さんだけ?
小坂 いえ。宇都宮君の中にもあったと思います。TM NETWORKとして1位を目指す気概が。ウツは、そういう思いを胸の中に強く持っていても、あまり言葉に出さないだけです。
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Episode 02:YOJI KOSAKA
-PART4-
最重要目撃者(witness)。Very Important PersonやMost Valuable PlayerにならえばMost Important Witness。つまりMIWである元EPICソニー小坂洋二プロデューサーの証言は、TM史に新たな解釈を与えてくれる。PART4の今回が最終回。しかし、気になるのは、謎めいた「哲学」の詳細だが…。
── TM以前の、宇都宮さんが歌っている音源をお聴きになったとき、TMの宇都宮隆とは別だと言われましたが…。小室メロディ、小室楽曲を自分のものにしようとする宇都宮さんにどのようなアドバイスをされましたか?
小坂 小室君の曲を歌いこなすのは大変だったと思います。彼がTM以前に歌っていた和製ロックというか、フォークロックと、小室君の曲はまったく異質ですから。デビュー当時、苦戦していた宇都宮君をうまく導いたのが、ボーカル・ディレクションも兼ねていた伊東俊郎君でした。ただ、ライブは…。伊東君もいないし、レコーディングのように歌い直せませんし。その都度、気づいたことを伝えていました。言っていたのは、主にノリについてです。メロディやビート、符割りなどを体に覚えこませないと、ライブ中、ノリが悪くなったり、スピード感が出なかったりするので。そんな私の話を頷きながら、真剣に聞いてくれていました。彼は無口な人間ですが、考えていることは思い切り考えています。だから、彼の性格をちゃんと理解したうえで、彼に伝わる言葉を選びながら話しました。
── いつ頃までアドバイスされていましたか?
小坂 ホール規模での初の全国ツアーの頃は、ことあるごとに気がついたことを伝えていました。でも、アリーナ規模のコンサートをやるようになった頃には、もうほとんど言うことはありませんでした。レコーディングも同じです。『humansystem』頃までですね、私が制作現場に深く関わっていたのは。ロスのレコーディングも気合を入れてのぞみましたから。曲としても「Human System」は好きでした。きっと宇都宮君も好きだと思いますよ。あえてそんな話をしたことはありませんが、スタジオで歌っているときの彼の顔を見たらわかります。なぜなら、二人でいっぱい遊んだから(笑)。彼と私は、言葉にしなくてもお互いわかるところがあります。
── ロサンジェルス・レコーディングのように長い時間、寝食をともにすると、時として険悪な空気が漂うこともあったのでは?
小坂 全然なかったです。海外レコーディング以外でも、彼らとはそういうことは一度もありません。彼らが声を荒げているのを見たこともないし。あ…。
── ありました?
小坂 『humansystem』のレコーディング中、小室君がスタジオで黙々と曲作りをしていたので、ちょっと暇になり、伊東君と木根君を連れて、ゴルフ場に行きました。彼らは生まれて初めてのゴルフでした。私がカートを運転していましたが、道をそれ、コースの木に衝突してしまいました。そのとき、木根君が右手首をカートと木にはさみ、骨折してしまって…。スタジオに戻り、事情を説明すると、あのときだけはさすがのてっちゃんもムッとしていました(笑)。「ギター弾けないじゃん」と顔に書いてありましたから。記憶が定かではありませんが、「Leprechaun Christmas」のアコースティックギターは、右手首にギブスをはめたままの木根君が弾いた気がします。
── 最後におうかがいしたいのは、TM NETWORK再活動の可能性について、です。
小坂 それについては、答える立場にないと思います。彼らは、いつのまにか、avexに移籍していましたが(笑)、もしもあのままソニーに居残っていたら、30周年のあのコンサートができたか否か、わかりません。でも、実際に5年前、あれだけ大きなコンサートができたわけです。ということは、彼らが選んだ道は間違っていなかったということ。だとしたら、小室君の引退にしても、それに伴う活動停止という選択も間違っていないのかもしれない。…あまり言いたくないけど…。小室君が引退してから、二人で話しました。「哲学の話をしたい」と言ってきたので。
── 哲学?
小坂 ま、これくらいにしておきましょう。あとはご想像にお任せします。それほどもったいぶる話でもないですが…。続きは、チャンスがあれば、小室君に訊いてください。
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TM NETWORKデビュー36周年突入!
12時間生配信!!
ライヴ映像で盛り上がろう!
《日時》
2020年7月4日(土) 10:00 ~ 22:00
《URL》
<こちらの配信は終了致しました>
《タイムテーブル》
◆10:00~OPENING、ビデオコンサート「BEE」特集①
「DECADE 2020 HD REMASTER」8/26リリース告知
*「BEE」冒頭無音につき音量にご注意ください。
メンバーQ&A、84年渋谷PARCO PARTⅢライブダイジェスト、
メンバー 紹介、DRAGON THE FESTIVAL、8月の長い夜、永遠のパスポート
BEEオリジナル撮影MV、木根尚登ナレーション、小室哲哉イラストによるスタッフ紹介コーナー
等
◆10:45頃~DRAGON THE FESTIVAL TOUR(85年日本青年館ライブ/APPROX96min)
◆12:20頃~ビデオコンサート「BEE」特集②
レコーディング風景、DRAGON THE FESTIVAL、BEEオリジナル撮影MV
木根尚登第一回監督作品「日本一のバンド男」、当時の告知 等
◆12:55頃~KISS JAPAN DANCING DYNA-MIX(88年代々木オリンピックプール/APPROX48min)
◆13:45頃~ビデオコンサート「BEE 」特集③
YOUR SONG、小室哲哉ロングインタビュー
読売ランド・オープンシアターEAST、中野サンプラザホールライブダイジェスト
当時の告知映像、メンバー紹介ビデオ
等
◆14:45頃~FANKS CRY-MAX(87年日本武道館/APPROX50min)
◆15:35頃~Epic Records Presents TV "eZ" 特集
CAMP FANKS!!’89 ライブ for ”eZ”、WORLD’S END ライブ for ”eZ”
LOVE TRAIN、TIME TO COUNT DOWN/SPOT
◆16:30頃~TMN Album「EXPO」 Special Interview
*未商品化:アルバム発売時限定プレゼント用に制作
◆17:05頃~final live LAST GROOVE 5.18(94年5月東京ドーム/APPROX153min)
◆19:40頃~final live LAST GROOVE 5.19(94年5月東京ドーム/APPROX145min)~ENDING
*映像は一部再編集した内容を含みます。配信の編成は年代順ではございません。
*タイムテーブルの時間は目安となり当日の進行により変動、またご視聴の環境による時間差が生じます。
*映像の内容は事前の予告なく変更する場合もございます。
*ご契約のインターネット通信料にご留意ください。
*当日の状況により中止することがございます。予めご了承くださいますようお願い申し上げます。
宇都宮隆
全曲TM NETWORK楽曲で構成され、
「UTSUなりの35周年」を体現したツアーを収録の
『Dragon The Carnival Live Blu-ray』発売中!
詳細はこちら
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