デニス・ボヴェル インタビュー

INTERVIEW WITH DENNIS BOVELL

聞き手:吉村栄一

通訳:伊藤亮一

●『B-2 UNIT』でのコラボレーションはどのようにして始まったのでしょう?

「1980年に日本に行ったドン・レッツがサカモトのスタッフから彼が私と連絡を取りたがっているという話を聞いて、彼が私の電話番号を教えた。その数日後にサカモトのレコード会社の社員が私に電話をくれたんだ」

●坂本龍一やYMOの名前は知っていました?

「知っていたなんてものじゃない。私は電話をもらう以前からYMOの大ファンだったんだ! とくに“ビハインド・ザ・マスク”がお気に入りだった。最高の曲だ。イントロのキーボードのファファファファファ、ファファ、ファファファファワ〜(笑)。そこでもう曲の虜になった。あのイントロはどこかレゲエやダブのマナーを感じたんだね。だからリュウイチが一緒にレコーディングしたいとオファーをくれたときには光栄に思ったよ」

●最初、どのようなオファーだったんでしょう?

「まず、彼の新しいアルバムのうち、数曲のレコーディング、ミキシングのエンジニアをやってほしいというものだった。私のダブ・サウンドにすごく興味を持ってくれていたらしい。70年代の終わりから80年代にかけて私は無数のアーティストやバンドの曲をダブ・ミックスしていた。レゲエのアーティストだけじゃなく、ボブ・ゲルドフのブームタウン・ラッツ、ケヴィン・ローランドのデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズといったロックやポップスのアーティストにも」

●後にオレンジ・ジュースのようないわゆるネオ・アコースティックのアーティストのプロデュースやエンジニアも手がけていますよね。

「そう、エドウィン・コリンズのオレンジ・ジュースや、ロディ・フレイムのアズテック・カメラのエンジニアもやった。彼らは素晴らしいメロディ・メイカーだ。だからこそ最高のリズム・トラックが必要だったんだ。素晴らしいメロディを強靱に裏打ちするリズムがね。だから私が選ばれた。リュウイチもメロディに対する私のダブ・サウンドのアプローチを気にいってくれたのかもしれないね」

●そしてもちろん、レゲエ/ダブ分野での活躍や、ザ・ポップ・グループ、スリッツなどのポスト・パンク・バンドのプロデュースでも。

「そうだね。当時、私はどうしてもリントン・クウェシ・ジョンソンやマトゥンビ、ザ・ポップ・グループやスリッツとか、当時は過激とされたダブやテープ・コラージュで知られていたからね。でも、実のところ私はあらゆる音楽に興味を持っていて、どんな音楽だって楽しんで聴くタイプなんだ」

●そして1980年の夏、坂本龍一とのレコーディングが、あなたのプライベート・スタジオで始まりました。

「そうだ、彼は私のプライベート・スタジオを初めて使ったアーティストだ! 実は当時、スタジオはまだ完成していなかったんだけど、それでもリュウイチとレコーディングしながらたくさんのことにトライできた。ダブという手法はリュウイチとレコーディングした頃は特殊だったけど、今ではスタンダードなサウンドの一つになったと言ってもいいだろう」

●当時のレコーディングの印象を教えてください。

「ユニーク! まさにその一言だ。彼も私も新しいサウンド・テクノロジーに心酔していた。スタジオで最も活躍したのがシンセサイザーのプロフェット10だ。名機と言われるのはプロフェット5だろうけど、私たちはあえて10を使った。シーケンスを創るのには10のほうがいい。また、リュウイチは最初にドラムのキックを録って、次はスネアといった具合に、先にリズム・トラックを創っていった。リズムからメロディやフレーズを生み出しているようだった。そして彼がひとつの音を録ると私がテープを再生する。リュウイチはそれを聴きながら次にどの音を録るかを考える。音が重なっていくと私はそれらをライヴでダブ・ミックスしていく。そうやって“ライオット・イン・ラゴス”は創られた。そう、あの名曲は私のスタジオでゼロから創られたんだ! スタジオ・レコーディング・ライヴによって創られたと言ってもいい。曲の欠片もないところから、最高の曲をリュウイチはスタジオで創り出したんだね(註)

(註)実際にはライナーノーツにあるよう「ライオット・イン・ラゴス」をはじめ、ほとんどの曲の大部分は日本であらかじめ各トラックを録音し、スタジオ80やその後のエア・スタジオでは追加のダビングとミックスを行なった。

●ダブ・ミックスも即興で録音していった?

「そう! いまでもはっきり憶えているけど、リュウイチは楽曲を彼独特の計算で創る。私は私がオリジナルのダブを計算して創る。全てはスタジオの中で行われたんだ」

●どんな機材でダブ・ミックスが創られていったんでしょう?

「レコーディング・システムは24トラックのアナログ・テープ・レコーダーがベースになっていた。ダブ・ミックスはそれこそ私がスタジオに導入したあらゆるテープ・エコーやディレイ、リヴァーブを駆使した。ある程度のミックスができると、さらにそれをダビングしてダブ・サウンドを突き詰めていく。ダブ×ダブだ」

●レコーディングやミックスは順調でした?

「とにかく早かった。リュウイチはアイデアを出すのも早いし、それを具体的な音にするのも早い。彼には豊かなアイデアがあって、私もたくさんのアイデアを出した。そのどれを具体化するかの判断も早い。彼はスタジオでは一切悩まなかったと思う。そして彼には思い描くダブ・サウンドがあったが、それを超えるダブ・ミックスをやらなければと私は考えていた」

●単なるエンジニアではなく、もっと大きな役割も負っていた?

「そうだなあ、あえて言うなら私は“ヴィジョナリー(先見の明を持つ者)”だったね。リュウイチの創り出すサウンドの、さらに先を読んだ。リュウイチに必要だったのは思いつくことをその場で録音できるエンジニアとスタジオで、そこに私はダブという新しい要素を加えたんだ」

●当時なにか特別なリクエストはありましたか?

「いや、それが何もなかったんだ。リュウイチは自分の理想の音を録音して、私はそれを自由にダブして、ミックスした。すごいことだよね。あの坂本龍一から任せてもらえるなんてね」

●あなたのスタジオでのレコーディングのあと、2回目の渡英ではエア・スタジオでもレコーディングしていますよね。

「そう、だけど私はエア・スタジオでのレコーディングには立ちあっていない。エア・スタジオはサー・ジョージ・マーティンが創った当時では最新鋭のスタジオで、ドルビー・システムやデジタル24トラックの設備があった。私はジョージ・マーティンと話をして彼のドルビー・システムに対応する幾つかの機材をリュウイチのレコーディングのために借りただけで、エア・スタジオで作業をしたことはないよ」

●レコーディング中にあなたのスタジオにスリッツが来てセッションをした、という話を聞いたことがあります。

「はっきりとは憶えていないけど、当然ありえたことだ。というのも私のスタジオであのYMOの坂本龍一がレコーディングしているということはあっという間にロンドンの音楽業界で拡まったし、スタジオもオープンしたてだったからスリッツだけじゃなくていろんなミュージシャンが見学にやってきた。そうして彼と仕事したことや、スタジオの評判が拡まって、後にトンプソン・ツインズなど、アメリカでも大成功するヒット・メイカーと仕事をすることができた。私はポップな曲でも少しだけダブの要素を入れた。それが新しさだったんだね、きっと」

●日本でも多くのミュージシャンがあなたと坂本龍一が創り出したダブ・サウンドの影響を受けています。

「そうだとうれしいね! 私はリュウイチに限らず日本のミュージシャンには当時から関心があって、それこそ、YMOの高橋幸宏は世界最高のドラマーのひとりだとも思っていた。というのも、彼がドラムを叩いたサンディー&ザ・サンセッツの“ドリップ・ドライ・アイズ”なんて、完璧なレゲエ/ダブ・サウンドだった。あの曲は日本で初めてレゲエとダブをポピュラー・ソングに導入したんじゃないかな。サンディーの美しい声がダブ・サウンドの過激さをうまく中和してもいるしね。その後もオーディオ・アクティヴや中島美嘉など多くの日本人と仕事をした。サンディーとはつい最近も、彼女のソロ・アルバム『HULA DUB』を一緒に創ったんだ。私は日本のミュージシャンも食べ物も文化も大好きで、一時期は毎年のように日本に行っていた。多くの日本のミュージシャンとの縁もリュウイチのお陰だよ」

●来日のときに坂本龍一と会ったりしました?

「もちろん! レッド・シューズとか六本木インクスティックに連れていってもらったことがある。でも、実は私はクラブにはほとんど行かないんだ(笑)」

●「ライオット・イン・ラゴス」はクラブ・アンセムで、『B-2 UNIT』は世界初のテクノ・ダブの名盤になったのに?

「そう、私はクラブよりもライヴ・ハウスが好きなんだ(笑)。しかし、“ライオット・イン・ラゴス”が40年近くもクラブ・アンセムであることはよく知っている。あの曲は言わば音楽の“アイス・ブレイキング(氷を崩した)”な存在だ。ダブ・サウンド、クラブ・ミュージックとしては世界で初めてアナログとデジタルのレコーディング技術の橋渡しをした曲かもしれない。まさしくアナログ機材とデジタル機材のハイブリッドな作品になったんだ。しかし、大切なことがある。これは言っておきたいのだけど、リュウイチと“ライオット・イン・ラゴス”をレコーディングしたあとに私はガーランド・ジェフリーズと共にリントン・クエシ・ジョンソンの“マイアミ・ビーチ”という曲をプロデュースした。アメリカで続いている黒人差別を歌った作品だ。その歌詞に“自由の都市で暴動(ライオット)が起きている”という節がある。“暴動(ライオット)”という言葉はあの頃の世界の状況を表していたと私は思うんだ。クラッシュも暴動という言葉を使っていたね。音楽はそれが創られた時代を必ず反映するものだ。社会的だったり、政治的な状況が音楽に映り込むことは自然なんだよ。80年代、戦争ではなくて、世界中で市民の暴動があった。“ライオット・イン・ラゴス”はその時代の象徴の一つなのかもしれないね」

●また、‟ライオット・イン・ラゴス”にはダブだけではなく、ファンクの影響も感じます。

「そうだね、リュウイチもファンク、特にアフロ・ファンクの影響を受けていたんじゃないかな」

●あなたはアフロ・ファンクのイノヴェーターであるフェラ・クティとも仕事をしていますね。『ライヴ・イン・アムステルダム』は名盤中の名盤です。

「ありがとう! リュウイチも当時はアフロ・ファンクやジュジュ・ミュージックに興味を持っていたかもしれないね。フェラはアフリカのモダンなビートを創った張本人だ。『ライヴ・イン・アムステルダム』は私とフェラ・クティにとっても重要な作品になった。あのライヴ録音をスタジオでプレイバックしたらベースに取り除けないノイズがのっていたんだ。どれだけノイズをミックスで取り除こうとしても出来なかった。そこでやむなく、スタジオで私がベースを弾いて差し替えたんだ。フェラ・クティの音楽にとって、ベースとドラムのアンサンブルは最重要だし、そのことを理解してベースを差し替えられるのは私しかいなかった」

●いま振り返って、あなたのキャリアの上で『B-2 UNIT』とはどういう存在でしょう?

「ひとことで表現すると“ランドマーク”かな。なにしろ私にとってアナログとデジタルのサウンドをハイブリッドした最初の作品でもある。24トラックのアナログ・レコーダーで録った音をデジタル機材でミックスした。ダブ・エコーもアナログとデジタルを混ぜている。“ダビング・イントゥ・ザ・フューチャー”! アナログとデジタルの極めて幸福な婚姻だと言える。本当に幸せな音楽だよ」

●最後に坂本龍一にメッセージを!

「リュウイチ、あなたが変わることなく素晴らしい音楽を創っていることをよく知っているよ。私たちがずっと前に創った音楽は今でも世界中で愛されている! またいつか一緒に音楽を創ろう! 次に会えるのを楽しみにしている!」

(2019年8月5日 WhatsAppによる取材)

dennisbovell.bandcamp.com


坂本龍一 B-2 UNIT

アナログLP

3,700yen+tax

完全生産限定盤

MHJL-101

Sony Music Shopで購入

SACDハイブリッド

3,000yen+tax

紙ジャケ仕様

MHCL-10122

Sony Music Shopで購入

ハイレゾ配信

【96kHz・24bit】

Download / Streaming

通常配信

Download / Streaming


- 収録曲 -

アナログLP

SIDE A

  1. differencia
  2. thatness and thereness
  3. participation mystique
  4. E-3A

SIDE B

  1. iconic storage
  2. riot in Lagos
  3. not the 6 o'clock news
  4. the end of europe

SACDハイブリッド/ハイレゾ/通常配信

  1. differencia
  2. thatness and thereness
  3. participation mystique
  4. E-3A
  5. iconic storage
  6. riot in Lagos
  7. not the 6 o'clock news
  8. the end of europe