―― まずは、ピチカート・ファイヴとの出会いから聞かせてください。
蒔田 中学生のときからの話になるのですが、山下達郎さんのファンで『RIDE ON TIME』(’80年)のブレイク以降はアルバムが出るたびに発売日に買っていたんですね。その大好きな達郎さんが高校時代の仲間と自主制作したアルバム『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』が‘85年にアナログ復刻発売されたんです。パイドパイパーハウスの長門芳郎さんのレーベルBELIEVE IN MAGICからでした。レコードは伊藤銀次さんの耳にとまり、大滝詠一さんにも渡って、シュガー・ベイブのデビューにも繋がっていくという、今ではポップスファンなら周知の作品。レコードを買ったらインナーが入っていたんです。そこに、長門さんが運営するレーベルから出る新人ということで、聞き慣れないアーティストのインフォメーションが書いてあったんですね。その紹介文っていうのが、ただのプロフィールというよりも、メンバーが好きなものをズラッと並べてあるみたいなもので。スゴイ! この人たちはいろんなことにこだわったマニアックな人たちだな!って興味を持って。そのグループを注目するようになったんです。それがピチカート・ファイヴでした。
―― なるほど。
蒔田 しばらくしたら、ピチカート・ファイヴが長門さんのレーベルからではなくて、細野晴臣さんのレーベルNON-STANDARDからデビューすることになって。12インチ・シングル「オードリィ・ヘプバーン・コンプレックス」を早速買って聴いてみたんです。その時は“うんうん、細野さんのやっているレーベルから出るだけあっていわゆるテクノポップだなぁ”というふうに思って聴いていたんですね。その後、CBS・ソニー(当時)から『カップルズ』(’87年)がリリースされて、ああ、ついにアルバムが出たんだぁとワクワクしながら聴いてみたらサウンドがまったく変わっていてびっくり。それ以前の打ち込みの音楽とは違って、生のオーケストラ展開、スタジオ・ミュージシャンを起用。バート・バカラックへのオマージュだったりとか。ロック・バンドが主流のなかでも異質な音楽だったんですね。一般レコード店なら油断するとイージーリスニングのコーナーに置かれてしまうようなサウンドへの変化には、ホントにびっくりしました。
―― 『カップルズ』は当時アナログで買ったのですか。
蒔田 CDです。時代的にちょうどアナログからCDに切り変わるころで、自分も新しもの好きということもあってわりと早くから再生プレーヤーを買ってソフトもCDに変えていました。でも『カップルズ』を聴いたときは新鮮というよりも懐かしい感じがして。再生メディアもどんどん更新されていく80年代当時にこういった音楽をやっている人たちがいるんだって、NON-STANDARDレーベルのいわゆるテイチク時代の時よりもさらに興味を持って、彼らに注目し始めましたね。これからどんな活動するのだろうって思っていたら、翌年に今度はいきなりヴォーカリストが変わるんですよ。佐々木麻美子さんから男性になって。
―― 2代目ヴォーカリスト・田島貴男さん登場ですね。
蒔田 しかも、やっている音楽が今で言うところのソフトロックぽい印象だったのが今度はソウル・ミュージックを基調としたものに変わっている。またそこでびっくりして、“この人たちは一体なんなんだろう?”とさらに興味を持ちピチカートを追っかけるようになって。アルバム『ベリッシマ』(’88年)がリリースされたころ、僕、大学生になっていたんですけど、大学の近くの貸しレコード屋でアルバイトしていたんですね。西早稲田のYOU&Iです。
―― あの時代はYOU&Iで音楽に触れる機会が多かったですね。
蒔田 今はもう店はないんですけど、当時、明治通りと早稲田通りの交差点の近くにあったんです。当時の貸しレコに入荷する新譜っていうのは、いわゆる学生に人気があるようなヒットものしか扱わないわけですよ。だけど、どうしても『ベリッシマ』はお客さんみんなにも聴いてもらいたいと思ったので店のオーナーに言って、わざわざ『ベリッシマ』を取り寄せてもらいました。それで店の目立つところで、今で言うリコメンドコメントを書いて、CD店頭でガンガン流していわゆるひとりプロモーションしていたんですよね。
―― それじゃ、西早稲田ヒットに?
蒔田 そんなうまくはいかないですよ(笑)。お店のスタッフや知人はすごく気に入ってもらえても、お客さんは全然借りてくれないんですよ。店内どこにいても聴こえているはずだし、しつこいくらい面出ししているのに(笑)。YOU&Iには卒業間際までかれこれ2年半くらいはアルバイトしていたのですが、『ベリッシマ』のレンタルは合計10回転もしてなかったと思う。
―― 『ベリッシマ』は時代とは違う空気を醸し出していたとか。
蒔田 『ベリッシマ』が発売された’88年頃は、久保田利伸さんとかに代表されるソウル系。あとはBOØWYやブルーハーツとかのバンド系。あとは、バブル時代の真っただ中ということもあってみんな浮かれていましたから、基本的にはアッパーな感じの音楽を好まれていましたね。そんな中にあって、この『ベリッシマ』という作品は、巷で当時流行っていたような音楽と比べるとサウンドも、歌詞も含めて、今聴いてもそう思うと思うんですけど、まあ、暗い……暗いというか、憂いのある歌詞とサウンドで、佐野元春さんの楽曲で言うところの“マーヴィン・ゲイの悲しげなソウル”みたいなものが10曲入っているアルバムなんです。客観的に見たらヒットする内容ではないということは学生の僕でも分かっていました。ただ、自分はこの世界がすごく好きだったんです。この音がすごく好きだったんです! 少しでも、ひとりでも多くの方にわかってもらいたいと思って一所懸命にプロモーションしていたんですけどね(笑)。
―― 小西康陽さんもいまこの話を聞いたらきっと喜んでくれますね。
蒔田 どうでしょうか(笑)。レンタルしてくれたその10人が(店が)早稲田近辺に在たからかどうかは分からないんですけど、その翌年かな、ピチカート・ファイヴが早稲田の学祭に来たんですよ。『女王陛下のピチカート・ファイヴ』(’89年)を出したあとだったと思うんですけど。そのときに、初めてちょっと大学の中でも知れ渡って校内プチブレイク的な雰囲気が出て、個人的にもなんかちょっとやったかな、貢献出来たのかなっていう感触はあったんです。そのときのステージは、貴重なメンバー構成で、当然、田島貴男さんがヴォーカル、小西さんがベースを弾き、高浪慶太郎さんがギターを演奏していました。のちに3代目ヴォーカルとなる野宮真貴さんがバックコーラスを務めていました。
―― 蒔田さんは実行委員ではなかったのですか。
蒔田 全然メンバーではないです。早稲田でも有名な企画サークルが毎年催すステージでした。なんにしても嬉しかったですよ。だって、大学の周りでピチカート・ファイヴを聴いているリスナーなんてひとりもいなかったんですから。だから、やっぱり、同じ感覚を持った数少ない人が同じ学校にはいたんですね。
―― もしかしたらレンタルした10人の中のひとりが実行委員のメンバーかもしれないですよ。
蒔田 だとしたら美しい話なんですけど、さすがにそこまで裏は取れていません(笑)。で、結局、その後は、ピチカート・ファイヴは日本コロムビアに行ってブレイクしてみんなが知る存在になっていくわけですが、野宮真貴さんのヴォーカル全盛期は変わらずいちリスナーとしてずっと応援していました。ちなみに僕は大学卒業後はレコード店のWAVE、そのあとにVAPの子会社のビデオ卸しの会社に勤めました。それからポニーキャニオンに行って、それでBMGに入って、いまはここソニー・ミュージックに来たっていう感じです。
―― 巡りめぐってピチカート・ファイヴ初期の発売元に勤めているのは、運命的ですね。
蒔田 やっぱり嬉しいですね。そういったこともあって、『カップルズ』『ベリッシマ』っていうのは、フェイバリット作品として、もう、ずっと僕の胸の中にあったんです。只のファンとして、アナログで再発してくれればいいのになーとずっと思っていたんですが。まあ、一向に出る気配もないので、自分で計画を立てて、企画書も作ってみたんです。『カップルズ』が2017年に20周年だったので記念盤アナログをリリースしようかなっていう計画です。ピチカート・ファイヴのこの作品に関しては、まったく手がつけられていなくて、今のこの部署に来たら、まずこれを出したい、というか、いつか出したいと思ってたんですよね。そうしたら、たまたま、タワーレコードさんの方でパイドパイパーハウスが限定復活するので、その目玉企画として、ピチカート・ファイヴのアナログを出してくれませんか? というオファーが会社に来た。で、さらに同時に、隣の部署でアナログレコードレーベル「GREAT TRACKS」を発足するという動きがあって。ちょうどその3つが同じタイミングだったんです。
―― 呼び寄せましたね(笑)。
蒔田 偶然です(笑)。じつは最初は『カップルズ』ではなくて、タワーさんは『ベリッシマ』をリクエストされたんです。でもタワーさんの心は分かっていました。ここ数年ずっと、『ベリッシマ』をアナログで欲しいという声は多くのファンから上がっていましたから。オークションに出るたびに高い値段がついていたことも当然知っていたので高い需要は理解していました。でも一応順番としては、やっぱり『カップルズ』があっての『ベリッシマ』っていう流れをきちんと一度作らせてもらいたくて。どうしても両方アナログで出したいんです!っていう企画を小西さんのところに持っていきました。
―― レコード業界の中で蓄積されてきたノウハウをここで一気に出そうって感じだったんですね。
蒔田 いやいや。制作のノウハウ自体ないです。僕は制作現場にはいなかったので。でも作品の重要性っていうのは誰よりも理解していた自負があったので、制作担当に配属されて本当に偶然、いいタイミングで、ベクトルが合致したので進められた企画だったんです。
―― 学生時代から憧れていた小西さんに会いに行くのはちょっと感慨深いですよね。大学生のバイトの蒔田クンに聞かせてやりたいですよね(笑)。
蒔田 ははは。そうですね(笑)。いちばん最初に小西さんの所に伺ったのは、タワーレコードの行さんと、「GREAT TRACKS」のプロデューサーの滝瀬さんと自分の3人でした。もう要件を言うことが精一杯で、深い話は当然そのときは出来なかったですね。検討してもらえないでしょうか。というところで話は終わったんですけど。そこからしばらくして、小西さんから、今度はちょっと、じゃあ、ひとりで来てくれませんか、って言われて、話しに行きました。
―― ひとりはちょっと緊張しますね。
蒔田 そうですね。小西さんはどんなやつがどんな思いでアナログを作りたいって言っているのかあらためて確認したかったのかもしれませんね。夜の10時に事務所にお邪魔して、かれこれ1時間くらいお話をさせてもらいました。自分の友人たちからもアナログ盤は出して欲しいってリクエストがあるから、レコードにするのはいいよね。やりましょう! ってそのときに初めてちゃんと言ってもらえて本当に嬉しかったです。ある意味、あの時間は面接だったと、自分では思っていますから(笑)。
―― いよいよアナログ制作に着手ですね。
蒔田 アナログを作るという作業になると、通常CDと比べてプレスの関係で早く進行しないといけないっていうのもあってですね。リリース自体は夏っていうことは決まったんですけど、そこから逆算して、すぐにマスターをどうするかっていうことを決めなくてはいけないんですね。小西さんが最初に出された条件として、アナログを作るのであれば、自分がまずカッティングには立ち会いたいという話だったんですよ。
―― 確か『GREAT TRACKS』プロデューサーの滝瀬さんの意向としては、海外でカッティングしてそのまま海外でプレスするというのがレーベルのテーマでしたよね。
蒔田 そうなんです。でも滝瀬さんは小西さんがそこまで拘って言うなら海外で立ち会っていただこうかな、ということになったんですね。ところが、あいにくカッティング・エンジニアのバーニー・グランドマンさんのスケジュールと小西さんのスケジュールがどうしても合わなくて。じゃあ、どうしましょうっていう話になった時に、こちらから提案として、小西さんの意向に沿うような形で乃木坂ソニースタジオで、小西さんの意図する形のマスタリングをもう一回し直して、それをアナログ盤用マスターとしてロサンゼルスに持って行ってカッティングしてもらうというのはどうですか、ということでご納得いただけて、リマスターをする形になったんです。
―― 同時発売されたリマスタリングCDはどの時点で具現化したのですか。
蒔田 先ほどの話はアナログ盤を出すためのリマスターのこと。なので、当初はCDを出すという話は誰もしていなかったんです。ですが、リマスタリングした音が素晴らしくて、今だからこそ聴いてもらうことに意味がある非常に時代にフィットする音だと思ったのです。この音をアナログで聴けない環境のリスナーもいっぱいいるはずだから、そういった人たちにもやっぱり体感してもらいたい、この音をCDのカタログとしてやっぱり残したいとの思いを共有してもらいました。さらに配信でリスナーの裾野が広がっているのでハイレゾでも出させてもらえませんか?というお願いをして、最終的にはそこもOK!になって3形態で出せるというような流れになったんです。
―― 結果から生まれたいい流れですね。
蒔田 そうですね。最初から企画として3形態で出すというものではなくて、あくまでもアナログ盤ありき企画だったことは間違いありません。で、その肝心のリマスターですが、オリジナルマスターが幸いとってもきれいな状態で残っていたので、そのマスターを使って、エンジニアはソニー・ミュージックスタジオの阿部充泰さん、そしてアドバイザーとして、ピチカート・ファイヴのコロムビア時代のエンジニアを務めていた廣瀬修さんを迎えて、小西さんの立ち会いのものに作業を行いました。
―― 役者が揃った感じですね。
蒔田 で、大きく何かを変えたという訳ではないのですが、細かい部分での手は加えてはあります。しかし、それがどこかというのを、ここで細かく言うのはちょっと野暮だと思うので、あえて言いません。それでもいろいろと作業をしたなかで、ひとつ言えるのは、今回のリマスターっていうのは、あくまでもアナログ盤にした時にリスナーにどう聴こえるかというのが根本にあります。音のバランスだけじゃなくて、例えば、曲間も変えたりとかしています。いま、あらためてそういった意味で「アナログ盤に作り直した」というものになっています。
―― それはスタジオで生まれた結果ということですか。
蒔田 もちろんスタジオに入る前から方向性は決めていましたが、エンジニアのおふたりと小西さんと僕と4人でスタジオに入って、最終的に小西さんが決めていくんです。だから、最終的な指示は全部小西さん。CDはアナログ盤へのマスターをそのままCDにしているんです。なので、CDで聴いたとき、例えば、いま流行りのいわゆるJポップと比較すると、ちょっと専門的な話になると、2デシベルくらいレベルが低いんですよ。敢えて、そうしているんです。オリジナルのアナログマスターの音をそのまま聴いてもらいたいという意図のもとに、今回は敢えてボリュームを詰め込まずにしています。だからリスナーの方が手元のボリュームで大きな音で聴いていただくと、より意図したことが伝わりやすいものになっているはずです。
―― 好きなようにボリュームをひねってくださいということですよね。
蒔田 一時期すごく、マスタリング時にボリュームを上げるというのが、どこのスタジオも競うように流行った時代もあったんですけど、わりと最近はそれも抑えられていると感じています。それでも最新のいわゆるヒット曲と一緒に聴いてみると、ボリュームは少し低く感じるかもしれません。それは意図した、ということです。その全てに小西さんが立ち会って出来たアナログマスターを持って、『GREAT TRACKS』プロデューサーの滝瀬さんが、アメリカのバーニーさんのところへ飛んで行ったんですが、そっから先の話は滝瀬さんにお任せしたいです(笑)。
『GREAT TRACKS』プロデューサー 滝瀬茂インタビュー
―― 蒔田さんの次の作業は?
蒔田 ジャケット制作です。最初はオリジナルをそのまま復刻することがベストだと思っていました。いざ、じゃあ、ジャケットを小西さんどうしましょうか?という確認を含めたデザインの打ち合わせをした時に、いやあ、今回、まず、ジャケットをE式にしたいんだ、と。
―― E式とはなんですか。
蒔田 E式とは、ヨーロッパ式のジャケットのことなんです。で、オリジナルはA式、いわゆるアメリカ式のもので、ダンボールの紙型に印刷した紙を貼り付けていくというものなんです。E式というのは、印刷した紙を直接折って曲げて作ってくという文字通りヨーロッパのスタイルのジャケットで、小西さん曰く、E式のジャケットの方が、印刷して出来上がったイメージにいま自分が欲しいものに近いと、いうことでE式に決定しました。そうすると、必然的に裏側が、A式とは違って、折り目が出る形になるので、裏側のデザインの縮尺が変わってくるんですね。裏側のデザインの縮尺が変わるのであれば、ジャケットも裏側を変えようかと。
―― なんだか手がこんできましたね。
蒔田 表面に関していうと、基本的にはもう完全に出来上がったデザイン。『カップルズ』でいうと田淵稔さんというデザイナーが作られ、『ベリッシマ』でいえば、信藤三雄さんの作品なんです。これはもう完成品。ここに手を加えてはいけない!と尊重したうえで、品番を変えるという最低限の施しで終わっているのですが、問題の裏側は、縮尺が異なる部分もあるので、小西さんの要望によって、すごく細かく変わっているんです。それも、小西さんの思いとして、オリジナルを持っている人も、またこうして、新たな作品として買ってもらえるようにと、両方持っていたいなと思われるものを作りたいというのがありました。どっちの方がいいのかという話ではなくて、どっちもいいよね!っていうものを作りたかったのです。
『カップルズ』のオリジナルアナログ裏ジャケ(左)と昨夏再リリースされた裏ジャケ(右)
―― 強度はどうなんですか?
蒔田 そうなんです。最初、E式ってやっぱりペラペラの紙のイメージがあって、そのぶん正直ちょっとコストを抑えられるかなって期待したんですが(笑)……実際に当初のE式で予定していた紙でやると、やはり強度の面で問題が起きて、紙の質も含めてトライ&エラーを繰り返したんですよ。結局、最終的には他のアーティストでよく使われている紙質よりもさらに厚めの紙を使っています。最終的にはジャケットに関していうと、当初の予算をはるかに超えるくらいのコストをかけてしまいました。結果、小西さんも非常にも満足していただけるものが出来て、お客さまにも胸を張って提供できましたが、これディレクター的にはダメですよね(笑)。
―― 蒔田さんのピチカート・ファイヴへの愛情の証でもありますね。
蒔田 今回、ピチカート・ファイヴの作品を、こうやって幸運にも出すことができて、しかも、アナログだけではなくてCD、ハイレゾを含む配信も通じて、いろんな形態で出すことができるようになりました。ただ、フォーマットの優越を語ってもらうっていうことよりも、その中身の「音楽」を聴いてほしいなっていうのが一番の思いですね。あと、今回、たまたま、リーダーである小西さんを中心として、この復刻プロジェクトというのは成り立ったわけですけど。当然、『カップルズ』にしても、『ベリッシマ』にしても、それぞれ当時のグループの作品で、その時に関わったメンバーの方たちの活躍があったからこそ、成り立った作品で、そこは小西さんも非常に気にされていたことでした。だから当時のメンバーのみなさんにも今回、さまざまな形でご協力いただいてうえで、復刻を出せたっていうのが、自分としては本当に嬉しかったです。
―― 復刻プロジェクトのディレクターとして学んだことも多かったようですね。
蒔田 そうですね。重要なのは、こういう僕らリイシューのディレクター、カタログ制作のディレクターっていうのは、当時関わっていたミュージシャンなり、スタッフなりの思いを汲んだ上で、当時のファンは勿論ですが、それをどうやって当時届かなかった、あるいは、これから聴いてもらえるような見えないリスナーたちにも音楽を届けるか、を考えながら制作していかなくてはいけない。この制作の過程をいかに丁寧に行うかが大切なことなんだと思いました ね。でも同時に難しいこともあります。
―― というのは。
蒔田 愛情や思い入れの部分にこだわってしまうと、ただのひとりよがりのノスタルジックなものになってしまうんですよ。まあ、もちろん、「想い出の音」として成り立つ作品もいっぱいあるでしょうから、それはそれでいいと思うんですけど。例えば『カップルズ』『ベリッシマ』にしても、いまの時代の方がこの憂いを持った歌詞っていうのは響くんじゃないかなと僕は思ったんですよね。当然、昔のファンの方たちの想いもあるのですが、どちらかというと、いまの若いリスナーがまっさらな気持ちで『カップルズ』『ベリッシマ』を聴いてどう伝わっているのかなってところが、今回の復刻プロジェクトの大きなポイントではありました。
―― 一般発売されてから、じつは日にちが経ってるわけで、冷静に1回振り返る時間になっていると思うんですよね。どうですか? リスナーの反応含めて、その思いっていうのは伝わっているのでしょうか。
蒔田 リスナーの感想という意味では『カップルズ』『ベリッシマ』のアナログが出来あがったときに一番最初に感想をくれたのが大学当時に一緒に聴いてた友達でした。これは嬉しかったです。でもどうですかね……どうなんでしょうね。一般的な評価はまだ正直まだ分からないです。ただ自分の中では、まだやれたかなっていう欲はやっぱり出てきたので、それがあるから、次もやりたいなっていう気持ちにもなっていますね。
―― 次は2月22日に発売される小西康陽7インチ・プロジェクト第1弾のコンピレーションCD『エース』と、ピチカート・ファイヴの『カップルズep』『ベリッシマep』ですね。
蒔田 はい。期待してください。でもこの話をするとまた話が長くなってしまうので、また別の機会にしてください(笑)。よろしくお願いします。
インタビュー・文/安川達也(OTONANO編集部)
蒔田聡(まきた・さとし)
株式会社ソニー・ミュージックダイレクト
ストラテジック制作グループ 制作1部 ディレクター
●大学卒業後、音楽の関連会社を漂流した末に、1994年にBMGビクター株式会社(当時)入社。営業中心に15年勤め、2009年の合併に伴い(株)ソニー・ミュージックコミュニケーションズへ。乃木坂スタジオ勤務を経て、2016年から現職。まだ誰も知らないレコード屋さんを発見し、ひとりで嬉々としてレコードを掘る夢を未だに良く見るほどの音楽中毒患者。気晴らしの趣味はプロ野球観戦。ただし、最近は贔屓のチーム(西武ライオンズ)が優勝から遠のき、気晴らしにならないのが悩みといえば悩み。