DJ OSSHY TOKYOの未来に恋してる!
安心・安全・健康的なディスコ・カルチャーを伝達することを使命とするDJ OSSHYのインタビュー連載
第56回 【対談⑰ マリーン×DJ OSSHY[前編]】
ジャズのアドリブに触れるたびにマリーンも成長していったんじゃない?(DJ OSSHY)
そういう経験があったから今の自分がある。もう何でも来い! 今はそんな感じです(笑)(マリーン)
DJ OSSHY この対談連載でマリーンをお迎えすることができて嬉しいです。具体的にお仕事を一緒にしたのはたぶん、マリーンがドナ・サマーの曲をカヴァーした・アルバム『マリーン・シングス・ドナ・サマー』だよね?
マリーン そう、2013年のリリースなので、ちょうど10年前になりますね。
DJ OSSHY ちょうどその頃、私が<Dynasty Tokyo Surfer's Night>というイベントを恵比寿のact squareでやっていた頃で、はじめて1、2年ぐらい経ったくらいだったかな、マリーンの当時の事務所のマネージャーが毎回通われていて、「ここでイベントを一緒に組んでやってほしいな」みたいな話をしてくれたんだよね。「実現するといいですね」みたいな話をしていたら、本当にドナ・サマーのトリビュート・アルバムをリリースされたタイミングで、「じゃあ、そのプロモーション含めて、Dynastyではなく、別立てのリリース・イベントをでやろう」ということになった。最初にマリーンのステージがあって、ぼくはそのあとのディスコ・タイムを担当するという2部構成だったよね?
マリーン そうでした。最初に私が歌わせてもらって、引き続き、OSSHYさんがフロアを盛り上げてくれて。
DJ OSSHY そのイベントがきっかけで、act squareの制作チームもマリーンと馴染みになって、その体制で昨年の豪華客船「飛鳥Ⅱ」での史上初となるディスコクルーズ<Dynasty 80's LIVE and MUSIC ON ASUKAⅡ>が結びつくんだから、何が起こるかわからないよね。
マリーン<Dynasty 80's LIVE and MUSIC ON ASUKAⅡ>
DJ OSSHY<Dynasty 80's LIVE and MUSIC ON ASUKAⅡ>
マリーン 出会いって、すごい不思議ですよね。出会っても縁のない人たちって、結局そのままになっちゃう。でも、どこかで気持ちがつながったりとか、そういうのってありますよね。気持ちが合う人とは、なんか昨夜一緒だったんじゃない? みたいな感じの気持ちで会えるのがOSSHYさん。え? それって私だけが思ってる(笑)?
DJ OSSHY いやいや、そんなことないよ(笑)。共通の仲間が多いので、しょっちゅうマリーンの話題になるんだから。だから、会ってなくてもご無沙汰感はないよね。今日会うのも、去年の「飛鳥Ⅱ」以来だし。マリーンが毎朝LINEしてくれるから毎日会ってる感じがする(笑)。
マリーン そうそう、毎朝のLINEが日課になっていて。私の親しくさせてもらっている方々に送ってるんですけど、OSSHYさん返信してくれますよね。うれしい。私は、みなさんが元気でいてもらいたいと思って、毎日LINEしてるんです。しょっちゅう会ってなくても、マリーンはあなたのことを思ってますよ、っていう気持ちで送ってるの。だから誰にも送っているわけじゃないんです。本当に自分に近い仲間だけ。
DJ OSSHY うれしいね。ぼくも毎朝マリーンからLINEが届くたびにマリーンのことを思ってます。ところで、ぼくらが最初にお仕事を一緒にしたそのドナ・サマーのアルバムなんだけど、多くのディーヴァの中で、どうしてドナ・サマーだったの?
『マリーン・シングス・ドナ・サマー』
2013年5月22日発売
マリーン まだ日本に来る前、フィリピンにいた時にドナ・サマーのブームがあったんですよ。本当にどこに行ってもドナ・サマーの曲が流れていて、ラウンジに行っても生バンドが演奏していました。フィリピンの人たちは音楽が大好きで、バスやジープニーでも音楽が流れてないとみんな乗らないんですよ。音楽が流れていないバスやジープニーだと、わざわざ乗り換えるくらい、みんな音楽が好き。子供たちも自転車に乗るときは、必ず小さなラジオを積むんですよ。どこにいても音楽の胎教ができちゃう国なんです(笑)。
DJ OSSHY ほんとだね。でも、そんなに音楽が鳴ってたら苦情も大変なんじゃないの?
マリーン 日本だと大きい音で音楽を鳴らしたら、すぐ苦情が来ますけど、フィリピンは全然そんなことないんですよ。隣の家も大きな音で鳴らしてるし、自分も鳴らしてるから(笑)。実はフィリピンって、アメリカの音楽でも映画でもほとんどオンタイムで届けられる国だったんです。今はもうインターネットやSNSがあるから変わりましたが、私が住んでいた当時は日本よりも先に4~6か月くらい前、アメリカで公開された後、1週間ほどで映画が公開されていました。
DJ OSSHY マリーンは何歳までフィリピンにいたの?
マリーン 18歳まで。19歳になる1週間前に日本に来ました。
DJ OSSHY そうか、じゃあ、当時街中でドナ・サマーがあふれている青春時代の思い出なんだ。
マリーン そうなんですよ。「マッカーサー・パーク」とか「Love To Love You Baby」とかがすごく流れてました。
DJ OSSHY 「Love To Love You Baby」は、日本だと「愛の誘惑」という邦題が付けられていた。「マッカーサー・パーク」はマリーンのライヴでもフィナーレに向かうタイミングで歌われてすごく盛り上がるよね。
マリーン ドナ・サマーってディスコのイメージが強いですけど、シンガーとして彼女を見つめ直すとやっぱりすごいと思ってしまうんですよね。歌詞もしっかりしているし。憧れのひとりだから、2012年に亡くなった時もなんで?って、すごく悲しかった。亡くなる前も70、80年代に負けないくらい魅力的だったし。
DJ OSSHY フィリピンではディスコに行ってた?
マリーン 18歳の頃、もうホテルのラウンジとかで歌ってたんですね。ホテルにはディスコもあって自分のブレイクタイムの時にディスコ行って踊るんですけど、今何が流れていて、みんなが好きな曲は何か、とかもチェックしてましたね。
DJ OSSHY さすが、アーティスト目線だね。その頃からジャズを歌ってたの?
マリーン 「ジャズを歌う」という意識は当時なかったんですよ。昔あるピアニストに「マリーン、長く歌いたいんだったら、絶対ジャズの曲を歌わないとダメだよ」って言われたんです。「ポップスは歌ってもある程度までしか伸びないけれど、本当に自分がずっと歌いたいんだったら、ジャズのスタンダードをレパートリーにいっぱい入れた方がいい」とも言われたんですね。でも、ジャズって、難しいというイメージがあったんですけど、日本に来てまだアイドルだったある時に、日本テレビの偉い方が「マリーンがちゃんと歌っているのを見たい」と言われて、六本木のバレンタインで歌ったことがあったんです。
DJ OSSHY 広くはないけど有名店ですよ、ジャズやソウルの。
マリーン そう、小さなお店で、そこで「ミスティ」を歌ったんです。歌っているときに、「私はこれを歌いたい」と気づいたんですよ。当時はアイドルとして活動をしていて、しゃべる時も「おはようございます」と「よろしくお願いします」だけでいいからって、マネージャーから言われていたんです。まあ、その頃は日本語全然しゃべれなかったんですけどね(笑)。歌い終わったら、バレンタインのマスターが「うちで歌う?」と言ってくれたんです。マネージャーも月に1回くらいならと許してくれて、そうしてジャズを歌い始めた。お店には『スイングジャーナル』など、ジャズの専門誌がたくさんあって、そこで初めて本格的にジャズを知るようになっていったんです。サラ・ヴォーンやカーメン・マクレエの名前は知っているけれど、写真を初めて見たり。そんな感じでジャズに触れていったんです。
DJ OSSHY アイドルをやりながら、ジャズに足を踏み入れたんだ。
マリーン でも、ジャズって自由な音楽じゃないですか。イントロは入れるんですけど、インプロになるとどこで戻ればいいのかわからないんです。プレイヤーの顔を見て、目を見て、そうするとみんなが「せーの」って合図をくれる。ステージは楽しいんですけど、歌ってもわからなくなってくるんですよ、みんなコードも変えてくるし。
DJ OSSHY でも、ジャズのアドリブに触れるたびにマリーンも成長していったんじゃない?
マリーン そうなんですよ、おかげさまでそういう経験があったから今の自分がある。もう何でも来い、今はそんな感じです(笑)。
DJ OSSHY その時代はみんな腕利きのすごいミュージシャンたちばっかりでしょ。
マリーン はい、みなさん素晴らしいプレイヤーでした。そんな中のひとり、あるベースの方が私が歌っている最中に自分のウッドベースを置いてお客さんの席に行ってずっとお酒を飲んでることがあったんですよ。すごく失礼だし、ショックで、私の歌はそんなに魅力がないのかってもういろんなことを思いながら最後まで歌い通したんですが、ステージから降りたら涙が止まらなくて。そういう経験もありました。BODY & SOULでの出来事だったんですが、Kyokoママが「大丈夫だからね。マリーンは何も悪くないから。大丈夫だから」って、ずっと慰めてくれたんです。
DJ OSSHY Kyokoママはぼくもよく存じています。それはひどいね。昔はジャズの現場に限らず、そういうことが多かった気がする。
マリーン でも、その人くらいでした、私の場合は。ほかの方はみんな私のことをかわいがってくれて、みなさんがサポートしてくれたから今のマリーンがいる。あ、なんか泣きたくなってきちゃった(笑)。
DJ OSSHY じゃあ、アイドルの仕事をしつつ、ジャズ・シンガーになりたいという気持ちがどんどん強まっていったんだ。
マリーン とにかく歌いたいという気持ちでいっぱいでした。アイドル、ジャズ・シンガーに限らず。今だから言えるんですけど、アイドルの時はあんまり歌う機会がないんですね。歌う場所も三越の屋上とか高島屋のロビーとか、そういうところしかないんですよ。新人だったので。
DJ OSSHY ぼくは『サマー・ナイト』('82年)や『マジック』('83年)をリアルタイムでよく聴いていたけど、もうその頃にはアイドルを卒業していたということだよね。
マリーン
『マジック』
1983年9月21日発売
マリーン アイドルは70年代の終わりから80年代にかけての2年間だけでした。どうしようかな、フィリピンに帰ろうかなと思っていた頃、THE SQUAREの安藤(正容)さんと伊東(たけし)さん、それにマネージャーの青木(幹夫)さん、プロデューサーの伊藤八十八さんが、私が歌っているときに来ていて、Kyokoママに紹介されたんです。THE SQUAREは名前は知っていたんですが、なんと彼らは私の歌うところを見て、THE SQUAREに入れたいと思っていたそうなんですよ。ちょうどヴォーカリストを探していたみたいで。良ければ声をかけよう、ダメだったら声をかけずにそのまま帰ろうということになっていたそうで、声をかけてくれた。その話がフェイドアウトした後に、また伊藤さんが見に来てくれたんです。
当時、銀座7丁目の中央通りに東芝銀座セブンというショールームがあって、1階のステージで月に1回、自分の歌いたい曲を歌っていたところに伊藤さんが現れて。私はフィリピンで15歳の時にもうビアガーデンで歌ってるから、それはもういろんな男性からアプローチされました。だから男性は女性を見たら声をかけてくるものと思っていたから、肩書きなんていちいち気にもしていなかったんです。誰が来ても「こんにちは」と挨拶するくらいの距離感で対応をしていたんですが、伊藤さんは名刺を出してくれたんですよ。ぼくはこういう仕事をしている人ですと説明もしてくれて。でも、フィリピンでのことがあるから、頭の中は「だからなあに?」みたいな感じだったんですよ。
DJ OSSHY 大プロデューサーなのに(笑)?
マリーン はい、プロデューサーと言われても何とも思わなかったんですね。後で、すごい人だと知ったんです。そのときにすぐCBS・ソニーと契約しませんかとおっしゃってくれて。ちょうど田中康夫さん原作の映画『なんとなくクリスタル』('81年)への出演が決まっていた時で、伊藤さんはマリーンはバンドのヴォーカリストとして活動するのはもったいない、ソロ・デビューさせようと話を持ってきてくれたんです。そのときの契約内容が、1stアルバム『ファースト・ラヴのように』('81年)が3万枚売れたら2枚目を出せます。だけど3万枚売れなかったら、2枚目は出せないというものでした。
マリーン
『ファースト・ラヴのように』
1981年11月21日発売
ところが、プレス前にもう3万枚以上のオーダーがあって、発売前にもう2枚目のアルバム『サマー・ナイト』はもう決まってたんですよ。それからは1年にアルバム2枚のペースでリリースしていました。本当に私は幸せだなと思うんですけど、アルバムの制作費を1千万円もかけてくれていたんですよ。ジャケットのアートワークだけで200万円。有名なフォトグラファーの方に撮影してもらって。
マリーン with シーウィンド
『サマー・ナイト』
1982年7月21日発売
DJ OSSHY 新人としては破格の扱いだね。でも、マリーンはそれだけのポテンシャルがあったよね、最初から。
マリーン ありがたいですよね。レコーディングのクオリティもすごく高くて、スタジオのリファレンス作品として使ってもらったりもしていました。オーディオフェアなどでソニーが出展する際もよく私の曲を再生してもらったり、80年代はまさにソニーミュージックとともに歩んできた10年でした。
([後編]に続く)
対談進行・文/油納将志 写真/島田香
●Marlene(マリーン)- フィリピン出身。
1978年、来日し翌年デビュー。アイドル歌手としてデビューしシングルを4枚発売。
その後、本格的なジャズシンガーに転向。
1981年、ファーストアルバム以降、フュージョン全盛時代におけるディーバとして
『Déjà Vu』(国内アルバム総合チャート5位)
『マジック』(国内アルバム総合チャート8位)
共に20万枚を超えるヒット曲を次々リリース !
1986年、角川映画『キャバレー』主題歌「Left Alone」は有線放送洋楽チャート1位に輝く。
活動は日本国内に留まらず、
1993年、米国レーベルにて『MARLENE』を全米リリース!
1993年、リリースされた玉置浩二とのデュエット曲「終わらないでI Love You~You're Mine~」は、『スーパーテレビ情報最前線』エンディングテーマにも起用される。
2013年、名曲を独自のテイストで歌い上げたアルバム
『マリーン・シングス・ドナ・サマー』をリリース。(プロデュース&アレンジ:クリヤ・マコト氏)
2014年、国連エコドライブカンファレンス(ニューヨーク)にて、国連WAFUNIF親善大使である吉田次郎と共に、サステナブルな社会、エコドライブ、クリーンエアをテーマに各国主要人が集まる中、フィリピン代表としてスピーチ! 同コンサート出演!
2016年、ソニーミュージックよりリリースした世界的に活躍するGt.吉田次郎、Pf.クリヤ・マコトとのユニット『THREESOME』1stアルバム「CUBICMAGIC」の収録曲が、日本オーディオ協会・第23回プロ音楽録音賞“最優秀賞”を受賞!
2017年、ラスベガス「AXISTHEATER」で行われたCESのコンサートで 、ジョージ・ベンソン、パティ―・オースティンらと出演し、好評を博す。
同年、全曲無修正のダイレクトDSD録音による超高音質盤THREESOMEの2ndアルバム『WHATEVER!
』をリリースし、ツアー開催。
2019年、クラシックの殿堂カーネギーホール(ニューヨーク)にて、ゲスト出演。
THREESOMEでの活動も各所で絶賛を浴びる中、
2022年、吉田次郎プロデュースによるマリーン初のJ-POPを含む Newアルバム
『MARLENE’s SONGBOOK~MEMORIES for TOMORROW~』をリリース!
第28回日本プロ音楽録音賞Best Sound部門にて優勝賞受賞。
日本全国にてLIVE、TV出演、ラジオ、対談、インタビューなど多方面で活発に活動中。
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2023.09.17《EVENT》 | 【宮城県・仙台】ありがとう どんさん お別れ会 @ Bar, isn't it? SENDAI |
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▲諸事情によりイベントは変更になることもございます。 詳しくはDJ OSSHY公式サイト(www.osshy.com) をご参考ください。