DJ OSSHY TOKYOの未来に恋してる!
安心・安全・健康的なディスコ・カルチャーを伝達することを使命とするDJ OSSHYのインタビュー連載
第53回【対談⑮ 売野雅勇 ×DJ OSSHY[後編]】
矢沢永吉さんの歌詞を書くために挨拶に行ったの。ようこそ、いらっしゃいと歓迎してくれたんだけどヤワな男が来ちゃったねって言われて(笑)(売野雅勇)
ええ! 当時のハードボイルドなルックスなのに!?(DJ OSSHY)
DJ OSSHY ([前編]からの続き)売野さんが麻生麗二のペンネームで作詞家デビューされたのが1981年。翌年から売野雅勇のお名前で活動されるわけですが、私も‘82年にDJデビューして、勝手に同じ’82年組だと親近感を抱いていたんですよ。『Disco Train』を一緒にやっていた早見優ちゃんも’82年デビューで、やっぱり同期という思いがあるんですよね。
売野雅勇 いや、まちがいなく同期じゃないですか(笑)。
DJ OSSHY こっちはまだ当時高校生ですし、売野さんのお名前は歌番組のテロップで見ない回はないというくらいの方ですので、まったく接点はないのに勝手にそう思っていただけでして。テレビで売野さんのお名前を見かけるたびに、あまり見ない珍しい苗字だな、お名前も「まさゆう」なのか「まさお」と読むのかもわからなかった。名前全体がインパクトがあって、すぐに頭にインプットされたんですよね。しかも自分が好きな曲の作詞を手がけられていることが多かった。あるとき、売野さんの写真を雑誌か何かで目にしたとき、めちゃくちゃ怖そうなだったんですよ。
売野雅勇 そんなことないでしょう(笑)。
DJ OSSHY いや、怖かったです(笑)。ちょいワル親父という言葉がない時代ですけど、その先駆けでしたよ。ハードボイルドという言葉が当時流行っていて、北方謙三さんや藤竜也さんとか、髭を生やしているイケメンの人っていうのは、すごくハードボイルドに感じる時代だった。
売野雅勇 そんなの髭を生やしていたら、誰でもハードボイルドになれるじゃない(笑)。
80年代の頃の売野雅勇
DJ OSSHY いやいや売野さんは何というかオーラがあって、近寄りがたい、話しかけづらい雰囲気がありましたよ。そういう勝手ながらの印象を抱いていたので、初めてご挨拶する機会の前はそりゃもう緊張しましたよ。写真のイメージしかないので。でも、いざお会いすると品格というか、紳士的で穏やかで、私としては嬉しくてしょうがなかったですね。その後、プライヴェートでも仲良くしていただいて、色々とお話を聞く中でおもしろかったのが、上智大学に在学中、アメフト部だったということ。作詞家だから文化系と思われがちだけど、実は体育会系だったという。
売野雅勇 文学部英文科だしね。そのアメフト部のひとつ上の先輩が後々、電通の社長になる石井直さんで、彼が会社訪問で電通に行った日の練習グラウンドで、おい売野、お前に向いている職業を見つけてきてやったぞと言うの。コピーライターって、お前にぴったりだよって。先輩もコピーライターという職業を知ったばかりなのに、直感でぼくの顔が浮かんだんだろうね。それで自分の頭の中にコピーライターという言葉がインプットされた。
DJ OSSHY その頃から文章はお書きだったんですか?
売野雅勇 書いていたかもね。でも、得意じゃなかった。むしろ苦手な方。ちょっと文化の匂いがするやつは自分を含めて3人とか5人とかそれくらいしかいなかった。あとはガチガチの体育会系。文化的なのは石井先輩と自分、それと共同通信に行くことになる一年下の後輩くらいで。だから仲が良かったんだよね。その後輩はジ・アザーを根城にしているような洒落たディスコフリークで、黒っぽいグルーヴにうるさい男だったね。
DJ OSSHY ファンキーな後輩ですね(笑)。
売野雅勇 彼は植草甚一のことも教えてくれて。先輩も後輩も東京育ちだから、情報の集まり方、取り方というのが違うなと思ったね。
DJ OSSHY 先輩後輩にいい影響や刺激を受けて、売野さんはコピーライターに進んでいくんですね。
売野雅勇 いや、コピーライターになる前にちょっと色々あったの。実は就職する年にニッポン放送が音楽ディレクターを専門職で採用することになって応募したんだよね。亀渕(昭信)さんが、音楽ディレクターは専門職であるべきだって言い出して、採用することになって。その試験というのは英語と論文、それと譜面と歌詞。
DJ OSSHY 譜面と歌詞? 曲を書くんですか?
売野雅勇 いや、譜面と歌詞を見て、曲名とアーティストを答えろという問題だったの。それが100問くらいあった。
DJ OSSHY 曲を知らないと手も足も出ないですよね。
売野雅勇 その頃、テレビを持っていない、運動して帰ってきてラジオ聴いて寝るという生活の繰り返しだから、ラジオから流れるヒット曲は全部知っていたわけ。だから100点、完璧だった。こんなに試験が簡単だったら、みんな受かっちゃうんじゃないのと心配になったんだよね。
DJ OSSHY じゃあ、売野さんもすんなり内定をもらって。
売野雅勇 次は社長面接だった。7名残っていて、1名採用と聞いていたので、6名落ちるわけ。そのなかに慶応のやつがいて、見るからにこいつが採られるだろうなというくらいに雰囲気が違ったんだよね。案の定、彼に内定が出て、落ちちゃった。そしたら、実は2名採用していたそうで、5名が落ちたということをあとで知った。でも、1000人近くの応募者から選抜して残った7名でしょ、そのうちの5名も貴重だということで、ニッポン放送がその5名をグループ会社のキャニオン・レコードに送り込んでしまえと考えたらしい。現在のポニーキャニオンだね。制作部に送って、ディレクターの卵にすればちょうどいいということで(笑)。
DJ OSSHY そっちもいい話じゃないですか。で、キャニオンはどうされたんですか?
売野雅勇 キャニオン・レコードにご推薦します、つきましては面接に行ってくださいという連絡をもらって。でもね、面接と言うけれど、本当は内定ってことですよね。でも、その時は若かったから内定だなんてわからなかったから、蹴っちゃったんだよね。今の自分が売野青年のお父さんだったら、お前、それ内定だよ、つべこべ言わずに行けよ! って教えたんだろうけど(笑)。
DJ OSSHY 若さゆえの過ちですね(笑)。
売野雅勇 そうそう。それでそういえばコピーライターって言われていたな、と思い出して、最終的に萬年社に行くわけです。
DJ OSSHY 広告代理店の萬年社に入られてからは音楽のコピーを書かれていたんですか?
売野雅勇 売野雅勇 僕が最初に担当したのはドッグフードの「ビタワン」でした。当時はとても良い時代で、コピーを書くならば、原料から製造過程のことも知るべきだって工場も見学しましたね。
DJ OSSHY 売野さんとドッグフード、まったく結びつきませんでした(笑)。
売野雅勇 ロッテのテレビコマーシャルのコピーライターとして他の部にも呼ばれたりして面白くなってきたのだけど、新聞の片隅に募集広告が出ていた東急エージェンシー・インターナショナルに移ることになったのね。その会社はCBS・ソニーの宣伝を全てやっていて、CBS・ソニーのハウスエージェンシーみたいでしたね。ほかの外資系の会社やソニー本体の仕事もあるんだけど、僕は洋楽のコピーライターとして働き出したんです。
DJ OSSHY それは楽しそうなお仕事ですね。
売野雅勇 でも、毎日大変だったね。40Wって、当時は言っていたんだけど、レコードの両面で。そのくらいの枚数を試聴室で全部聴いて、雑誌向けの広告原稿を書くわけ。朝10時に出社しても夜9時までに仕事が終わらない。掲載誌が当時30とか40誌くらいあったから。それを毎日繰り返していたら、これは擦り切れちゃうと思って、今度は第一企画に行くんですけど、また東急に戻ってくることになるのね。
DJ OSSHY どうして地獄の日々に戻っちゃうんですか(笑)。
売野雅勇 運命が展開部に入ったような感じ(笑)。えーとね、ちょうどEPIC・ソニーができたタイミングで、その準備委員のひとりにCBS・ソニーのデザイン室長がいて、その水野さんという方が「コピーライターの売ちゃんっていたじゃない、あの人呼んでくれない? あの人がいいよ」って、ありがたいことにそう推薦してくださったみたいで、東急の営業部長から「CBS・ソニーが新会社を立ち上げるから、コピーライターとして来てくれないか」と、部長が第一企画まで会いにきてくれた。で、条件は何でも呑むから、好きなだけ言えっていうの。それで好きなだけ言って、戻ったというわけですね。
DJ OSSHY すごく太っ腹な話ですね。
売野雅勇 そう。だから、会議にも出るし、プレゼンテーションもする。でも、それ以外は拘束しないでくださいとお願いしたの。会議がある時は出社しているけど、デスクがあるのにいつもいないという社員だった。当時雑誌の仕事もやっていて、ファッション誌だと時間が必要だったし、会社に縛り付けられるとできなかったから。
DJ OSSHY まるで現在のような仕事のスタイルですね。
売野雅勇 シャネルズのコピーも当然書いていましたが、「ランナウェイ」が大ヒットした後、デビュー・アルバム『Mr.ブラック』の広告を新聞のラテ欄の下、いわゆるラテ下の全面に打つことになって、これほど大規模な広告をレコード会社は普通は打たないのね、だから注目度も高かった。その広告のキャッチフレーズに「メイクの下も、黒いアメリカ。」というコピーを書いた。そしたら、それを目にしたディレクターからスカウトされたというか、作詞もやってみませんか? と誘われたのね。
DJ OSSHY でも、それまでコピーライターだったのが、いきなり作詞家になるわけですから抵抗はなかったんですか?
売野雅勇 フリーのコピーライターのようなものだったから、頼まれたら断らない、躊躇もしなかった。それで作詞家人生が始まったわけですね。書き始めたら、おもしろい、おもしろいとみんなが言ってくれて。作詞家になろうなんてこれっぽっちも思ってなかったんだけど、もしかしたら才能あるのかなと思って一生懸命やっていたら、2年ぐらいで最初のヒットが出たんですね。
DJ OSSHY 先輩に言うことを聞いて良かったですね。キャニオンに行っていたら、日本を代表する作詞家、売野雅勇は誕生してなかったでしょうから。
売野雅勇 石井さんには感謝しています。人を見抜く力と一般的には言うのでしょうけど、ぼくにとっては天使のささやきでした。
DJ OSSHY しかし、作詞家になる気がまったくなかったというのはすごいですよね。
売野雅勇 なる気ゼロだったからね。でもね、作詞って難しい仕事なんだよ。家内がね、阿久悠さんの歌詞が凄いと言うのよ、それで、真似事のように、自分で書いてみたことがあったの。そうしたら、阿久さんの足元にも及ばないんだよね。阿久さんが満点だとしたら、僕は30点くらい。作詞の世界は尋常じゃない職人技の世界だと思い知らされてましたから、なりたいという気持ちはまったくなかった。
DJ OSSHY どうやったら歌詞を書けるようになったんですか?
売野雅勇 音楽のコピーを書いていたでしょ、それもすごい量の。それがトレーニングになったのじゃないかと分析してますけどね。分析しても仕方ないけど(笑)。ほら、音楽のコピーって特殊だから、特に洋楽はね。まず当時の洋楽は資料がない。作品によっては歌詞カードすらない。そんな状況で自分のイメージでコピーを書くわけだからね。音からイメージしたものを言葉に置き換える作業の繰り返し。創作と言えば聞こえがいいけど、ちょっとでたらめに近いよね(笑)。それがきっと訓練になったんだろうね。あのハードな日々は無駄にならなかったわけですね。
DJ OSSHY 数多くの洋楽を聴いてはイマジネーションを膨らませながら、日本語に落とし込む作業ですもんね。確かに洋楽は70、80年代の全盛時代ですら情報が少なかったですもんね。MTVの登場以前はなおさら。
売野雅勇 そうそう。最初にコピーを書いたのはリック・デリンジャーだったかな。それからジョニー・ウィンター、ジェフ・ベックとか。ギタリストが多いな(笑)。フランスのポップスやジャズも。邦楽以外は全部。あるとき、チープ・トリックを最初に日本でスターにしてブームを起こし、世界的なバンドにしたと言われる伝説の洋楽ディレクター野中(規雄)さんから、売野さん、ライナーノーツ書かない? って頼まれて。フラッシュ・アンド・ザ・パンというオーストラリアのグループで、書いたらほんとに発売された。名も無いコピーライターに頼んでくれて、好きだった今野雄二さんと同じ仕事ができてうれしかったな。今野さんはぼくのロールモデルでもあったので。
DJ OSSHY 邦楽と違ってしがらみなく、おもしろければ楽しければいい、やっちゃえよ、みたいな感ノリが当時の洋楽にあったんじゃないですか。事務所とか、そういう絡みもないですし。
売野雅勇 そう、自由だったね。ディレクターの裁量で任されていたし。ぼくが書いたものに対して、嫌と言われることも少なかったし。その中でも野中さんは際立って頭が良かったね。あと高橋(裕二)さんもおもしろかったなあ。亡くなった片桐(博文)さんは、泉谷しげるみたいにいつも怒っていた(笑)。
DJ OSSHY いい時代ですね。では、音が先にあって、そこに歌詞を乗せていくということも、あまり苦にはならなかったんじゃないですか。
売野雅勇 全然なかった。それもハードなトレーニング期間のおかげだね。
BOOK
『砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々』
売野雅勇・著/2016年9月7日・発
朝日新聞出版
DJ OSSHY 先ほど上智の後輩の方がディスコ通いされていたとおっしゃっていましたが、売野さんもよくディスコに行かれていたんですか?
売野雅勇 ほとんど行かなかったね。行ったとしても不純な動機だから、ジ・アザーのような本格的な箱との縁も薄かった。でも、MUGENは学生の頃から行っていたな。就職してからはBYBLOSも。お金なかったのによく行きましたね(笑)。
DJ OSSHY 生まれ変われるだったら、その時代のMUGENとBYBLOSは行ってみたかった。まわりのみんなにそう言っているくらい憧れのディスコです。あと、六本木にあった大人の社交場で、ドレスコードもあったCastel Tokyoにも。永ちゃんとかスターばかりが来ていた会員制のディスコです。
売野雅勇 そういえば、矢沢永吉さんと一緒にディスコに行って踊ったことがある。
DJ OSSHY 何ですか、その素敵なエピソードは(笑)。
売野雅勇 矢沢さんに歌詞を書いていた頃だから、’88年’89年くらいかな。
DJ OSSHY まさに「SOMEBODY'S NIGHT」の頃じゃないですか。
売野雅勇 そうそう、「SOMEBODY'S NIGHT」を書いてから、急激に親密になってよく飲みに連れていっていただきました。それで、なぜそういう展開になったのか忘れてしまったけど、いちどだけディスコに行ったんだよね。ディスコ行こうよ、って。食事の後かなあ。
SINGLE
矢沢永吉
「SOMEBODY’S NIGHT」
作詞:売野雅勇/作曲:矢沢永吉
1989年4月26日発売
DJ OSSHY 矢沢さんって、そもそもディスコによく行く方なんですか!?
売野雅勇 そうでもないと思うけど、「大丈夫ですか?」って聞いたら、「帽子がいるかもね」って、僕がコンビニに買いに行った。その帽子をかぶって矢沢さんがお店に入っていくんだけど、すごいオーラだからみんな薄々気づいていたと思うな。ひとりで踊ってましたね。これが様になってて美しいのよ。それは六本木の話だけど、昔ね、MUGENって新宿にもあったよね。
DJ OSSHY ええ! 赤坂MUGENだけじゃなく、新宿にも。本当ですか?
売野雅勇 そっちの方が安かったから、学生だったんで、よく行っていた。赤坂と同じで、バンドが入っていた。それでいつかお金が足りなくなったことがあって、友だちの買ったばかりのコートをカタにして帰ったこともあったな(笑)。それからずいぶん後の話になるけど芝浦GOLDにもよく行っていたね。’88年に山本コテツさんと出会って、彼がプロデュースしたディスコやレストランはだいたい行きましたね。
DJ OSSHY その頃の売野さんは髭で、とても気さくに話しできない風貌の頃ですよね(笑)。
売野雅勇 そうそう。でもね、矢沢さんで思い出したけど、矢沢永吉さんの歌詞を書かせてほしいとディレクターに話たら、「矢沢さんに手紙を書いてください、僕がお届けしますから」って言われて手紙を書くんです。そうしたら、ツアー中で次の小倉なら会えるから、公演を見てもらって、その後に色々とお話しましょうということになった。開演前にご挨拶に楽屋に伺ったんですんね。矢沢さんはTシャツにスウェット姿で、その上にアルマーニのジャケットを羽織っていたんです。それはね、敬意ってことですよね。敬意を表すってことなんです。感激しましたね。「ようこそ、いらっしゃい」と歓迎してくれたんだけど、その後で、ずいぶんヤワな男が来ちゃったねって言われたの。
DJ OSSHY ええ! 当時のハードボイルドなルックスなのに(笑)!?
売野雅勇 ルックスじゃなかったんだよね(笑)。矢沢さんはこういう歌を歌うべきです、僕ならこう書きますって、すごくハードな企画書というかお手紙を送っていたので、もっとハードな男がやってくると思っていたのかもしれないですね。だから、実際に会ってみてヤワって感じたのかな。それで矢沢さんが「僕はね、もっと顔の四角い、ごっつい方かと思っていたのよ」って言うからさ、「矢沢さん、それは阿久悠さんです」(笑)と心の中でつぶやきました。
DJ OSSHY 思わず売野さんがツッコんだですね(笑)。
売野雅勇 コンサートの後で打ち上げがあり、その夜は明け方近くまで飲み歩きました。ぼくは飲めないのだけど。それからしばらくして1曲書いてくださいって頼まれたの。それが「SOMEBODY'S NIGHT」なんだけど。シングルだとは知らされてなかったからね。後からニューアルバムの先行シングルだと知って、すごく驚いた。普通の人なら、小手調べにアルバム曲というコースでしょ。それが、いきなり先行シングルだった。すごい人だなと感動しましたね。
DJ OSSHY すごい話ですね。ゾクゾクってきました。売野さんは数多くの作品を世に送り出してこられましたが、その中でも圧倒された歌手の方はいましたか?
売野雅勇 まずは矢沢さん。それに鈴木雅之さん。ふたりは僕が書いた言葉を増幅して聴き手に届けてくれる歌い手。言葉の行間、奥に宿っている何かを声にして見せてくれるのですね。自分はこういうことを書きたかったんだって、教えてくれる。ぼくは表面的には言葉を書いているだけだけれど、海に浮かぶ氷山のように、その海面下に深く潜むエモーションがあるわけですよね。その魂の塊を全部声で表現してくれる。(中森)明菜ちゃん、荻野目(洋子)ちゃんもそうだね。
DJ OSSHY マーチン(鈴木)も古くからのお付き合いで、荻野目ちゃんも以前にこの対談にも登場してくれて、そうしたふたりの名前が挙がるのはなんかとてもうれしいですね。
SINGLE
中森明菜
「少女A」
作詞:売野雅勇/作曲:芹澤廣明/編曲:萩田光雄
1982年7月28日発売
売野雅勇 そうそう。明菜ちゃんの「少女A」がヒットして僕も名前が知られるようになったでしょ。あの曲のイメージからだと思うけど、横浜銀蝿なんて、僕のことを不良の先輩だと思っていたのね。不良から作詞家になったんだって思い込んでいたふしがあったね。ある日、ヒット曲に対してレコード会社からヒット賞が頂けることになって、代行としてマネージャーがそのパーティに行ったら、ちょうど横浜銀蝿もいて。僕が来ていると勘違いした横浜銀蝿の人が挨拶しにマネージャーのところに来て、先輩、思ったよりもヤワですねって言われたんだって(笑)。
DJ OSSHY (爆笑)ヤワって言葉が何度も出てくる。
売野雅勇 不良っぽいのはみんな売野くんのところに行くよね、って(筒美)京平先生からも言われていた(笑)。でも、確かにそうで、不良の歌はいっぱい書きました。
DJ OSSHY 作詞家の方こんなことをお聞きするのは僭越なんですが、愚問を承知で。歌詞はどういうイメージで書かれてきたのでしょうか。
売野雅勇 ぼくの歌詞のベースになっているのはイノセンス。そのことについて、ずっと書いているんですよ。イノンセスが底流にあって、そのことしかない。ほかの作詞家の方になくて、僕にあるのはイノセンスについてよく考えているということ。あとはスピリチュアルなことかな。自分でもこの間、気づいたんだけど、天使と神様が歌詞の中に多いかな。あくまでも通俗的でありながら聖なるものに達するっていうのが作詞家のあるべき姿だと思っています。それにしても、ぼくは天上に通じることを書く傾向がありますね(笑)。稲垣(潤一)さんや、中西(圭三)さんにも、そういう歌詞でできた素敵な歌がけっこうあります。
DJ OSSHY イノセンスとスピリチュアルが売野流というわけですね。
売野雅勇 そう。だから、不良というのをそういう風に捉えているところもある。僕は子どもの頃から優等生が好きじゃなかったんだよね。できの悪い不良っぽい子とよく遊んでいた。親からは、なんでなんとか君と遊ばないのって言われたりもしたし。それは頭のいい子ね。唯一同級生で頭が良かったのが、KOEI(現コーエーテクモゲームス)の社長になった襟川陽一。襟川くんはすぐ近所に住んでいて、いつも遊んでいた。バンドも一緒にやっていて、彼はギターがうまいだよね。あ、この話はきっと長くなるから別の機会にしましょう
DJ OSSHY これまたすごい実名エピソードが最後に飛び出しました。売野さんと話していたら、驚くようなお話ばかりで。ぜひ、またご登場してもらいたいです。
売野雅勇 もちろん。また、プライヴェートでも。焼き鳥でも。
DJ OSSHY 是非、また! よろしくお願いします!!
[終わり]
対談進行・文/油納将志 写真/島田香
- ●売野雅勇(うりの・まさお)
- 上智大学文学部英文科卒業。コピーライター、ファッション誌編集長を経て、1981年、シャネルズ(当時)「星屑のダンスホール」などを書き作詞家として活動を始める。’82年、中森明菜の「少女A」のヒットにより作詞活動に専念。以降チェッカーズを始め近藤真彦、河合奈保子、シブがき隊など数多くの作品により80年代アイドルブームの一翼を担う。90年代からは坂本龍一、矢沢永吉からゲイシャガールズ、SMAP、森進一まで幅広く作品を提供。
郷ひろみ「2億4千万の瞳」、ラッツ&スター「め組の人」、チェッカーズ「涙のリクエスト」、稲垣潤一「夏のクラクション」、荻野目洋子「六本木純情派」、矢沢永吉「SOMEBODY'S NIGHT」、GEISHA GIRLS「少年」、中谷美紀「砂の果実」などヒット曲多数。
また1990年以降映画・演劇にも活動の場を広げ、脚本監督作品には『シンデレラ・エクスプレス』『BODY EXOTICA』。脚本プロデュース作品の舞台には『ミッシング・ピース』(市川右近演出・千住明音楽)『天国より野蛮』(市川右近・宝生舞主演)『優雅な秘密』(市川右近・市川春猿主演)『美貌の青空』(市川右近・市川春猿・市川段治郎主演)『下町日和』(市川右近・市川春猿・市川段治郎主演)『虎島キンゴロウ・ショー/魅惑の夜』(虎島キンゴロウ・市川右近・金子國義主演)がある。
2016年8月には<売野雅勇 作詞活動35周年記念コンサートFujiyama Paradise Tour『天国より野蛮』>を開催。鈴木雅之,藤井フミヤ、中村雅俊、荻野目洋子、稲垣潤一、中西圭三、山本達彦、南佳孝、森口博子、麻倉未稀らのアーティストが結集。
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