DJ OSSHY TOKYOの未来に恋してる!
安心・安全・健康的なディスコ・カルチャーを伝達することを使命とするDJ OSSHYのインタビュー連載
第49回【対談⑭ SAM ×DJ OSSHY[前編]】
あの頃は夜は毎日歌舞伎町でした。ほんと、毎晩。後輩や友達の家に泊まってね。(SAM)
じゃあ、ディスコのフリーフード、フリードリンクが晩ごはんで。(DJ OSSHY)
おふくろの味のような(笑)。(SAM)
DJ OSSHY 今回の対談は私が敬愛してやまないSAMさんをお迎えして、たっぷりとお話を伺っていきたいと思います。
SAM よろしくお願いします!
DJ OSSHY SAMさんとの最初の出会いは、MXテレビで放送されていた『Disco Train』でした。2013年5月からスタートしたんですが、記念すべき初回のゲストがSAMさん。しかも、1か月まるまるご登場していただいて。基本はゲストの方は2週にわたって登場していただくんですが、4週間にわたって出演していただいたゲストは後にも先にもSAMさんしかいません。私にとっては憧れの方で、『Disco来いから Train』初回はSAMさんに出ていただこうと心に決めていたんです。
SAM いやいや、初回にも関わらず、そんなに出させていただいて光栄でした。そういえば、収録が終わった後にOSSHYさんとランチしましたよね。
DJ OSSHY あのときは緊張しましたよ。国民的スターとランチですから。でも、お会いできてDJの立場、そしてダンサーというお立場でまたお仕事ご一緒しましょうねとその時はお話しを交わしていたんですが、まだ社交辞令の状況で特に実現はせずで。
SAM そうでした(笑)。でも、つかず離れずの関係性でお付き合いさせていただいていて。
DJ OSSHY いやいや、本当にありがたいです。そこから、私が恵比寿の<act square>でやっていたメインイベント「Dynasty Tokyo Surfer's Night」や、年末のグランドハイアット東京でのパーティ、interfmの『RADIO DISCO』にもご出演いただいただけでなく、私のファンクラブの1周年記念イベントをZoomで行ったんですが、そこにもご登場いただいて。
SAM そうでしたね。
DJ OSSHY 大きなイベントや節目ごとにご一緒させていただいて、心から感謝しています。でも、共演が終わるたびに毎回必ずお仕事ご紹介しましょうねとふたりでお話するんですが、SAMさんと私がメインとなる共同事業はいまだ実現せず、ここまで至りましたが、いよいよ本当の意味で共演ができるような機会が差し掛かってきたんじゃないかなと確信したのが、SAMさんが出された新刊を読んだからなんです。
『いつまでも動ける。』SAM
クロスメディア・パブリッシング
2022年4月1日
SAM あ、うれしいです。読んでいただけましたか?
DJ OSSHY もちろんです! 公私ともにお付き合いの深いSAMさんですが、このたび『いつまでも動ける。』という書籍を出版されました。還暦を迎えたSAMさんが学んできたジェロントロジーという加齢学と、ご自身が実践してきた健康メソッドをとてもわかりやすく解説した本で、私も大いにうなずく箇所でいっぱいでした。
SAM ご紹介ありがとうございます(笑)。ジェロントロジーというのは、心身の健康づくりと共に、医療や福祉制度、街づくりなど、高齢化する社会全体を考える学問なんです。本では、その人生100年時代に必須の学問と言われるジェロントロジーで学んだ知識と、僕が実践してきた健康メソッドをわかりやすく解説しています。
DJ OSSHY いや、本当に読みやすくてわかりやすい本で、ぐいぐいと引き込まれていきました。大変興味があるのでジェロントロジーのお話ばかりしちゃいそうですが、まずは伝説の歌舞伎町時代、ディスコのお話から始められたらと思います。まずは、いちばん興味のあるSAMさんのディスコ初体験からお話いただけますでしょうか。
SAM 言っちゃっていいのかな(笑)、初めてのディスコは15歳でした。早生まれなので、高校1年の冬でしたね。渋谷の<BLACK SHEEP>でした。センター街入って、ちょっと右に入ったところの。当時、目白にある付属中に通っていて、教室で踊っているやつがいたんですよ。そいつは高校に上がらずに退学になっちゃうんですけど(笑)、髪の毛もショートアフロみたいな髪型で。彼の従兄弟のお兄ちゃんが六本木で<Embassy>でアルバイトしているから、俺もよくディスコに行くんだよって言っていて。
DJ OSSHY 当時のチーフDJは江守(藹)さんだったはずです。
SAM だと思います。中学3年生にして<Embassy>通いをしていたやつで、学校でも踊るんですよ。黒人のことはブラザーって言うんだよとか、挨拶の仕方を習ったりとか、それがめちゃくちゃかっこよく思えたんですよね。色々教えてもらっているうちに、みんなでディスコに行こうということになり、<Embassy>は危ないから<BLACK SHEEP>に行ったんです。そのとき、常連の男の人がフロアに出たらサークルができて、その人が真ん中で踊り出したらみんな見ているんですよ、まわりで。俺たちは後ろ側で見ていてすごくかっこよく見えたんです。スターに見えて、俺たちも絶対こんな風になろうぜって言い合った。
DJ OSSHY 目に浮かびます。
SAM とはいえ、最初のうちは友達の家に泊まるとか嘘をついて、新宿のディスコ行ったりしていたんですけど、2か月に1回くらいのペースでした。学校の休み時間に踊り場とかでジャンプやダイブの練習していたんですけど、ちょっとうまくなってくると、ひとりでも行ける場所を探しはじめて、住んでいたのが埼玉の岩槻だったんで、近くの大宮の南銀座、南銀って言うんですけど、そこに<FEVER HOUSE>いうディスコがあるというのを聞いて自分で探して行ったんですよ。そこにひとりで通うようになったんです。
DJ OSSHY それはいつくらいの頃ですか?
SAM 高校2年生、1978年ですね。
DJ OSSHY 『サタデー・ナイト・フィーバー』が公開された年ですね。だから<FEVER HOUSE>なんだ(笑)。
『サタデー・ナイト・フィーバー』
1978年劇場公開作品
TM & CopyrightⒸ1977 Paramount Pictures. All Rights Reserved.TM,Ⓡ&CopyrightⒸ2013 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.
SAM 絶対そうでしょうね(笑)。そうして通っているうちに友達もできて、そいつと一緒に歌舞伎町に出向くようになっていったんです。よく行っていたのは<Tomorrow U.S.A.>と<Big together>でした。そんな風に歌舞伎町に遊びに行くうちに、今度新しいディスコができるという情報を耳にして、最初から通って常連になろうぜって友達と決めたのが<New York New York>だったんです。初日から通い詰めましたね。キーホルダーをもらって、それを見せると安く入れたり。また、そこでまた友達の輪も広がっていって、店の人とも仲良くなって……
DJ OSSHY (松本)みつぐさんとも仲良くなったり?
SAM いや、DJの方とは話しをしなかったんですね。DJはもっと上の位置にいるって感覚だったので。
DJ OSSHY じゃあ、ダンス好きの友達がどんどん増えていったんですね。
SAM そんな感じでした。そうしているうちに常連の仲間たちでMickey Mouseというダンスチームを作って、どこかでショーをやろうよということになったんです。そこでリーダーだったやつが、銀座の<Odyssey>の店長に気に入ってもらえて、週末土曜日だけショーができるようになったんです。今考えると、とんでもないひどいショーだったと思うんですけどね(笑)。
DJ OSSHY いやいや(笑)。でも、SAMさんにとっての最初のダンスチームだったわけですよね。
SAM 第一歩でした。夕方に代々木体育館に行って、入り口のところのガラスに自分の姿を映しながら練習していましたね。<Odyssey>では半年ぐらいやっていたんですよね。1 回5000円ぐらいもらって。それが自分のダンスで稼いだ初めてのギャラでした。<New York New York>でもフロアの真ん中で踊っていて目立っていましたが、25時で閉店になっちゃうんですよね。そこから朝までやっているディスコに毎回移動するんですが、だんだん取り巻きが増えていって、深夜に30人ぐらいの大勢で歌舞伎町を移動するんですよ。
DJ OSSHY おー。
SAM 練り歩きながら<Milky Way>とかに行って、リーダーがお店の人に30人いるんだけど、1人500円で入れてくんないかなって交渉したりしていました。盛り上げてくれるんならいいよって、入れてくれましたね。そんなふうに色んなお店で踊っていたら顔も広くなっていき、「あ、Mickey Mouseね。入っていいよ」っていうようになっていったんです。
DJ OSSHY Mickey Mouseが30人規模になっていたんですか!?
SAM レギュラーは7人でした。その中に、後のZOOの初代リーダーになるTACOもいました。
DJ OSSHY TACOさんもいたんですか。野嶋さん。
SAM そうそう、野嶋千照(笑)。当時から一匹狼で、バイクに乗っていましたね。
DJ OSSHY すごく仲良くさせてもらっています。ピュアな方ですよね。
SAM すごくいいやつですよね。TACOたちとつるんで踊っている中で、レコード会社のRCAの洋楽部から新譜のキャンペーンをやってくれないかと頼まれたり。新曲がかかったタイミングでフロアに出て踊って盛り上げてほしいというようなお仕事でした。
DJ OSSHY さっきの<Odyssey>ではギャラが5000円ということでしたが、それは当時にして良かったんですか?
SAM 当時70年代の後半でしたが、今と物価が違うように感じるんですけど、まだ5000円かという感覚でしたね。駆け出しだから、それくらいの金額だよねって。その頃は高校3年生になって、学校も行かなきゃいけないし、ディスコにも行きたい。だから家出したこともありました(笑)。医者の家系だったんですけど、俺は医者にはならないと宣言したんですが、父親からじゃあ、どうしたいんだと言われて、自由になりたいと答えたんです。そうしたら、まだ高校生だから無理だと言われて。でも、学校に行くこと、居場所をきちんと知らせることをすれば、自由にしていていいと許してくれたんです。
DJ OSSHY なんと。理解のあるお父さまだったんですね。
SAM そこから後輩や友達の家に泊まるときも伝えて、登校もして、夜は毎日歌舞伎町でした。ほんと、毎晩。
DJ OSSHY じゃあ、ディスコのフリーフード、フリードリンクが晩ごはんで。
SAM おふくろの味のような(笑)。ディスコが終わる朝5時になったら、当時の西武新宿駅ができたばかりで、その駅前の北欧という喫茶店があったんです。そこが、ディスコが終わった後のたまり場で、みんなでぞろぞろ行って、朝ごはんを食べたら目白の学校に行っていました。「SAM、今日学校なんだ」とか言われながら。
DJ OSSHY 本当にディスコと学校の往復ですね。ディスコでアルバイトをしようとは思わなかったんですか?
SAM 高校を卒業してからは赤坂の<シンデレラ>でウェイターをやっていました。
DJ OSSHY じゃあ、マイケル山田さんさんがいた時じゃないですか?
SAM いました、いました。雲の上のような存在でしたが。その後に飯倉片町の<PRESTIGE>のオープンニングスタッフで入ったんです。ディスコでちゃんと食事ができるカフェバー的なお店で、クラブの走りのような雰囲気だったんですけど、そこでホールを担当しながらチラシの投函もしていましたね。<PRESTIGE>はわりと長く勤めていました。
DJ OSSHY 黒服まで行ったんですか。
SAM いえ、週4回ぐらいしか入ってなかったので黒服にはなれなかったですね。その頃、(ドン)勝本さんが白金高輪に<DANCETERIA>をオープンさせましたが、最初はダンススタジオだったんですよ。そこでダンスをちょっと教えて、夜になったら<PRESTIGE>に行くというような生活スタイルでした。さらに、その時リフラフというグループでアイドルもやっていたんですが、それだけじゃ食べられないからバイトしてもいいよと言われていたんです。20、21歳頃ですね。
DJ OSSHY リフラフはどこのレコード会社に所属していたんですか?
SAM ワーナー・パイオニアだったんですが、その前に勝本さんのところからChampというグループでビクターからデビューしていたんです。当時、ビクターの部長だった飯田久彦さんと勝本さんがと仲が良くて、そのご縁で。1年ぐらい活動したんですが、芳しくなくて、また勝本さんが元タイガースの森本(太郎)さんを紹介してくれて。森本さんの事務所にお前ら入れと言われて、リフラフに改名してレコード会社も移籍してワーナーになったんです。
DJ OSSHY 勝本さんがマネージメントをしていたということですね。
SAM そうなります。でも、ひどかったですね(笑)。日本のディスコ創世記におけるドンで、全国ディスコ協会というのもやられていた。高校3年の卒業間近の頃、新宿の<シンデレラ>で踊っている時に、ステージの下の方で勝本さんが僕らにちょっと来いって呼ぶんですよ。お前らな、明日な、原宿の駅前にあるダンスアカデミーに、いいから来い、と言われて、僕らもはい、わかりました、と。これが勝本さんとの初めての出会いでしたね。行ってみたら、ダンサーの人たちが練習していて、お前らさ、今日からうちのチームに入れって命令されて(笑)。問答無用でスペースクラフトという勝本さんのチームに入ったんです。
DJ OSSHY そういう、スカウティングだったんですね(笑)。
SAM 一本釣りのような(笑)。でも、チームなんて願ったり叶ったりだったんで、すごいうれしくて。初めてのプロチームみたいなもんですからね。高校卒業したら、俺はもうこのチームでプロとしてやってくんだみたいな感覚でした。
DJ OSSHY 勝本さんの全国ディスコ協会の全国行脚とかもされたんですか?
SAM していましたね。全国に協会の加盟店が50店舗ぐらいあって、各店舗にダンサーだけでなくDJも派遣していましたし。もちろん、ピンハネされるんですが(笑)。
一同 (爆笑)。
DJ OSSHY 勝本さんはピンハネ王という異名もお持ちでしたからね(笑)。さすがジェームス・ブラウンのマブダチだけある。ディスコのゴッドファーザーでしたから。
SAM キング・オブ・ソウルだけどピンハネ王という(笑)。背はそんなに高くないけどガタイが本当にすごくて、僕は高校3年間ラグビーをやっていたんで、体力に自信があったんですけど、いちど<DANCETERIA>で勝本さんからSAM、ラグビーやっていたよな、向こうからダッシュしてきて、俺にぶつかれ、俺がちょっとでも動いたら1万円あげるよって言われたんです。会長、さすがにそれは僕にとって簡単ですよ、身体に悪いですよって言ったら、それでもやってみろと。僕は自信があったんで、会長吹っ飛びますよって言ったんですが、5mくらい離れたところからダッシュでぶち当たったんですが、びくともしないんですよ(笑)。本当に。岩のようだった。当時、僕の一回り上だったんで、たぶん32歳ぐらいだったと思うんですけど、すごかったんですね。
DJ OSSHY 勝本さんには誰も歯向かいませんでしたよね。
SAM まさに伝説の人ですよね。話せないような武勇伝がいっぱいあるんですが、僕らそんなことは知らずにディスコ協会の会長として見ていたわけです。給料くれないなっていつも思っていた(笑)。会長、今月の給料まだですか? と言ったら、うるせえなって。でも、僕らもまだ子供だったから、くれないのは会長が悪いんじゃないですか! って真正面から文句言ったり。わかった、わかった、あげるから、そこで待ってろって、そんなことの繰り返しでしたね。
DJ OSSHY でも、勝本さんが一番可愛がってらっしゃったのがSAMさんだったと伺っています。
SAM そうかもしれませんね。
DJ OSSHY DJの世界でも、勝本さんが源流と言っていいくらいですから。私の先輩方、DJ ATOMさんやDJ松本みつぐさんもその流れにいたわけです。それとニックネームがドン勝本ですからね。勝本さんから日本のディスコ史が始まったと言っても過言ではない。
[中編]に続く
対談進行・文/油納将志 写真/島田香
- ●SAM(サム)
- 15歳でダンスの面白さを知り、10代でディスコダンス、ブレイクダンスに出会う。単身ニューヨークへ。帰国後、TRFコンサートの振り付け、構成、演出はもちろんV6、浜崎あゆみ、BoA、東方神起、郷ひろみ他アーティストの舞台もダンスクリエイターとして手掛ける。2018年に行われた日産スタジアムでの東方神起ライブは、史上初3日連続計22万人を動員。総合演出で観客を魅了する。
近年、次世代ダンサー育成、リサーチの為、多くのダンサーオーディションを手がけ、自ら主宰するダンススタジオ「SOUL AND MOTION」でレッスンも行っている。
2016年、一般社団法人ダレデモダンスを設立、代表理事に就任。この団体での活動を通じて、誰もがダンスに親しみやすい環境を創出し、子供から高齢者まで幅広い年代へのダンスの普及と質の高い指導者の育成、ダンサーの活躍の場の拡大を目指す活動を始めている。最近では、日本最古の伝統芸能「能」の舞台にダンサーとして初めて出演した。
南カリフォルニア大学デイビススクールジェロントロジー学科通信教育課程修了
ダンサー・ダンスクリエイター・演出家・ジェロントロジスト。
ダレデモダンス www.daredemodance.or.jp
BOOK
『いつまでも動ける。』SAM
クロスメディア・パブリッシング
2022年4月1日発売
DVD+CD
『リバイバルダンス』
TRF(SAM、CHIHARU、ETSU)考案
エイベックス・エンタテインメント
2022年3月14日発売
DJ OSSHY オフィシャルファンクラブ
DJ OSSHY official YouTube Channel
DJ OSSHY 出演スケジュール
5月20日(金) | 《EVENT》ナバーナマンスリースペシャル@渋谷オア東京 |
5月27日(金) | 《EVENT》DJ OSSHY ワンマン DJ NIGHT@アロフト東京銀座 |
5月29日(日) | 《EVENT》サンデーディスコ@六本木マハラジャ |
6月3日(金) | 《EVENT》ナバーナマンスリーパーティ@渋谷キャメロットB2 |
6月6日(月) | 《TV》BSフジ DJ OSSHY DISCO TV |
▲諸事情によりイベントは変更になることもございます。 詳しくはDJ OSSHY公式サイト(www.osshy.com) をご参考ください。