DJ OSSHY TOKYOの未来に恋してる!
安心・安全・健康的なディスコ・カルチャーを伝達することを使命とするDJ OSSHYのインタビュー連載
第47回【対談⑬ 杏里×DJ OSSHY[前編]】
昔からディスコって音楽も含めてやっぱり出会いの場所なんですよね。私を連れて行ってくれたスタッフやその友人たちの中には、その当時から変わらず今もずっと親友としてお付き合いさせていただいている方もいますし、そういった仲間に巡り合わせてもらったことには本当に感謝しています。(杏里)
いやあ、そこまでしてディスコに通っていたという話を聞くと、ディスコの世界の人間ながら杏里さんにはアタマがあがらないですね。やはり本物だなあと(笑)。(DJ OSSHY)
DJ OSSHY 今回の対談は私が敬愛してやまない永遠のサマーレディー、杏里さんをお迎えしてお話を伺っていきたいと思います。
杏里 お久しぶりです! 今日はお会いできるのを楽しみにしていました。よろしくお願いします。OSSHYさんと最初にちゃんと向かいあってお話したのは……何年くらい前なんでしょうね?
DJ OSSHY たしか2014年にMXの『ディスコトレイン』にゲスト出演してくださった時からだと思います。
杏里 じゃあもう7年も前になるんですか。早いですね。
DJ OSSHY それまでもライヴ会場でお見かけしたり、私の前職のFM横浜でお会いして軽くご挨拶させていただくことはあったのですが、きちんとお仕事させていただいたのは7年前の番組になりますね。それまではもうずっと憧れの人でしたから。
杏里 ありがとうございます。そう言ってもらえるは嬉しいですね。
DJ OSSHY それ以来、InterFMの番組でも何度もお世話になっていますし、ほぼ年に1回くらいはなんらかの形でお会いしていますよね。最初にお会いしたときからまったく印象も変わらないし、とてもクリエイティヴな方なんだなといつも感じています。
杏里 OSSHYさんも、いつも素敵な音楽を紹介し続けていらして、本当にすごいなと感じていますよ。
DJ OSSHY いやいや恐縮です。杏里さんも本当に音楽の懐が深いと感じるのですが、そもそも最初はどういう音楽を聴いていたんですか。
杏里 昔はなんでも聴いていましたよ。歌謡曲から洋楽ロック、オーケストラものまで。もちろんAORやブラックミュージック、フュージョンも大好きでした。本当になんでも聴くんですよ。
DJ OSSHY かなりオールマイティなんですね。
杏里 それこそ思い起こせば、兄の部屋にたくさんレコードがあったのが大きいかもしれないですね。絶対部屋には入っちゃいけないと言われていたんだけど、兄が出かけた隙にこっそり忍び込んでいました(笑)。レコードを傷付けてはいけないから、そっと持ってターンテーブルに乗せて針を落とすんです。すごく緊張感を持って、触ったことがバレないようにしていつもこっそり聴いていました(笑)。
DJ OSSHY お兄さんの部屋にはどんなレコードがあったんですか。
杏里 70年代の洋楽のロックが中心だったと記憶しています。あの頃だとイーグルスとかピンク・フロイド、レッド・ツェッペリンなんかもありました。そうやって音楽に興味を持つようになった頃、その兄から音楽ばかり流し続けるディスコという場所があることを教えてもらいました。それで連れて行ってもらいました。
DJ OSSHY 杏里さんがディスコに初めて行ったのはいつ頃のことなんですか。
杏里 あんまり大きな声では言えないんですが(笑)、未成年の時でしたね。実家が神奈川県の厚木で米軍基地の近くにあったんです。歩いていける距離のところにシルバースワンっていうすごく小さなディスコがあったんです。照明がブラックライトで、白い歯しか見えないような真っ暗なところでした(笑)。そこに連れて行ってもらったのが最初のディスコです。いわゆる昔ながらのソウルディスコですね。あの頃テレビで『SOUL TRAIN』をやっていたんですが、フロアではあんなダンスをみんな踊っていましたから。
DJ OSSHY それはすごい! 貴重な体験ですね。
杏里 シルバースワンに行くと、日本ではまだ入ってきていないレコードがかかっているんです。基地経由だから1か月ほどのタイムラグで入荷していたそうですね。だから新しい音楽を聴くのは、どこよりも早かったんですよ。シルバースワンでは、ジャクソン5やスティーヴィー・ワンダーなどモータウンの音楽がよくかかっていました。店内に小さなブースがあって、DJがいてレコードをかけるんですけれど、DJにカセットテープを渡して「いっぱいにしておいて」ってダビングをお願いするんです(笑)。だから、その時にかかっていた音楽が、私のルーツといってもいいかもしれないですね。
DJ OSSHY 興味深い! 当時はどんな音楽がお好みだったんですか。
杏里 やっぱりブラックミュージックはすごく聴いていましたね。アース・ウインド&ファイアーとか。アルバムだと『That's The Way Of The World』(’75年)あたりが好きです。
Earth, Wind & Fire 「Shining Star」 1975(Official Audio)
DJ OSSHY そりゃあいい音楽に出会えますね。ご実家が厚木にあったということは、ディスコ通いの拠点は神奈川だったんですね。
杏里 そうですね。それから随分後になりますが、本牧のLINDYや山下町のCIRCUSにも兄やスタッフが連れて行ってくれました。
DJ OSSHY CIRCUSは私もDJをしていたんですよ。
杏里 えっ! そうなんですか。いつ頃?
DJ OSSHY さらにもっとあとだと思われる‘88年頃からです。あの頃、お客さんは外国人のブラザーばっかりでしたね。
杏里 私もその頃もまだ通っていたと思いますよ(笑)。たしかツアーのメンバーだったダンサーたちを連れて行った記憶があります。
DJ OSSHY すごい御一行。そんなこともあったんですね。杏里さんが「オリビアを聴きながら」(’78年11月)でデビューされた当時って、第一次ディスコ・ブームなんですよ。’78年から‘82年くらいまでがそう言われています。そのタイミングで全国津々浦々にディスコが乱立していくんですけれど、さっきCIRCUSの話もありましたけど、杏里さんはデビューしてからもディスコに通ったりはしていたんですか。
杏里 けっこう通っていましたね。デビューしてからすぐだったから、20歳くらいの頃かな。あまりにもわたしが真面目で遊ばなさすぎたので、当時所属していたレコード会社のスタッフから「杏里に友達を紹介したい」と言われて、誘われて行きました。そうやって仕事を始めてから初めて行ったところが、たしかMAGICっていうディスコ……。
DJ OSSHY MAGIC!六本木ですね。
杏里 そうそう。MAGICが東京で初めて行ったディスコだったと思います。その時に連れて行ってくれたスタッフやその友人たちは、インターナショナルスクールに行っていたりとか、けっこう国際的だったんです。そこでいろんな友だちができて、みんなでディスコに集って楽しむようになりました。
杏里 「オリビアを聴きながら」 1978(Official Video)
DJ OSSHY デビューしてもディスコに行く時間は作れたとは意外です。
杏里 なぜか行っていましたよね(笑)。あの当時は仕事がすごく忙しかった時期なので、普通だったらなかなか行けなかったと思います。昼間は普通に仕事をして、夜はコンサートもあるじゃないですか。当時のレーベルスタッフたちとは仕事終わりによく食事に行ったりしていました。でもディスコって当時は遅い時間まで営業していたから、寝ないで行っていましたよ。
DJ OSSHY そんな噂まで(笑)。
杏里 でも、あの当時はいわゆる夜遊びっていう感覚ではなかったかもしれない。友達に会いに行って、音楽を聴くという感覚が大きかったかもしれないですね。そこでいろんな音楽を吸収していったと思いますよ。MAGICだけでなくNIRVANAなどにも行ったけれど、どこもかかっている音楽が気持ちよかったですね。
DJ OSSHY ただ遊びに行くのではなくて、ご自身の音楽活動に結び付いていたんですね。
杏里 だからMAGICでもカセットテープを持っていって、ダビングしてもらっていましたから(笑)。でもそうやって音楽に触れた経験は、とても大きかったと感じますね。
DJ OSSHY 単なる遊びじゃないとはいえ、杏里さんはディスコですごく目立ったんじゃないですか。
杏里 座って音楽を聴いていると、知らない男性が横に座ってくるじゃないですか。そうしたらすかさず女友達が飛んできて、私とその男性の間に入ってくるんです。「ちょっと離れて!」って守ってくれたりして(笑)。
DJ OSSHY それは大変だ(笑)。
杏里 昔からディスコって音楽も含めてやっぱり出会いの場所なんですよね。私を連れて行ってくれたプロモーターの方やその友人たちの中には、その当時から変わらず今もずっと親友としてお付き合いさせていただいている方もいますし、そういった仲間に巡り合わせてもらったことには本当に感謝しています。
DJ OSSHY いやあ、そこまでしてディスコに通っていたという話を聞くと、ディスコの世界の人間ながら杏里さんにはアタマがあがらないですね。やはり本物だなあと(笑)。
杏里 いやいや、そんなことないですよ。ディスコには音楽業界や芸能界の方はみんな行っていたんじゃないですか。
DJ OSSHY でも、80年代にデビューされたアーティストやアイドルって、デビューと同じ時期にディスコ・ブームが重なっているから、忙しすぎて行ったことがないっていう方がけっこう多いんですよ。
杏里 そうなんですか。でも、アイドル系の子たちは、男女問わずけっこういましたよ。ここでは名前を言えないような人がたくさん(笑)。
DJ OSSHY もう時効でいいんじゃないですか(笑)。
杏里 いえいえ(笑)。本当にけっこういたんですよ。業界で有名なプロデューサーの方が、アイドルの子たちをしょっちゅうディスコに連れて行っていたんです。そのグループに会うと朝まで帰れないなんてこともしょっちゅうありました(笑)。あと、ひとりで来ているアイドルもいましたね。気が付くとディスコで合流していて、みんなで盛り上がったりして。テレビ番組とかの仕事場ではマネージャーさんもいるし、特にアイドル系の人たちは事務所のプロテクトがすごく厳しかったから、現場では交流することはほとんどなかったんです。でもディスコでたまたま出くわすことも多くて、そこからみんな友達になったりとか、そういう出会いはありましたよ。やっぱりディスコだと開放的になる子も多かったですね(笑)。
DJ OSSHY ディスコという空間が作り出す魅力のひとつですね。杏里さんは横浜もそうですが、やっぱり六本木のイメージが強いですよね。
杏里 たしかに六本木が多いかもしれないですね。OSSHYさんはプライベートではどのあたりが拠点だったんですか。
DJ OSSHY 私は六本木、新宿、渋谷の三箇所ですね。
杏里 新宿だとどのあたりですか。
DJ OSSHY 東亜会館っていうディスコビルがあったんですよ。六本木でいえばスクエアビルみたいな。学生時代はそこですね。でもDJを始めたのが1982年で、すぐに見習いに入っちゃったんで、あまりいろんなところを遊び歩いたっていうことはないんです。DJデビューは渋谷のキャンディ・キャンディなんですがご存知ですか。
杏里 名前は聞いたことあります。
DJ OSSHY、渋谷のキャンディ・キャンディで先輩DJのRickさんと
DJ OSSHY いわゆるサーファーディスコです。店内にもサーフボードやヤシの木が飾ってあったりするような。陸(おか)サーファーがいっぱい来ていたところですね。
杏里 たしかに当時は陸(おか)サーファーと呼ばれる人は多かったですよね。六本木でサーフボードを車に載せて走っている人もました。どう見ても海に行く感じじゃなかった(笑)。私たちがディスコに行っている頃はちょうどサーファーブームでしたね。
DJ OSSHY サーファーは多かったですよね。あと私は横浜もけっこう長くて、さっき話に出たCIRCUSも拠点のひとつでした。
杏里 横浜のCIRCUSはいい音楽かかっていたという印象がありますよ。
DJ OSSHY いわゆるソウルやR&Bといったブラックミュージック系のディスコだったからでしょうね。だから私がCIRCUSでDJを始めた‘88年、ユーロビートが大ブームだった頃は、仕事ではユーロ系とはあまり縁がなかったんです。
杏里 私もユーロビートはあまり聴いていなくて、当時もいわゆるブラック系ばかりでした。
DJ OSSHY 杏里さんはたしかにユーロではなくブラックのイメージですよね。
杏里 ユーロビートも実はいい曲たくさんあるんですけれどね。
DJ OSSHY おっしゃる通りです。その頃は同じ時期に流行っていたニュージャックスイングにハマっていましたから、ユーロビートを掘り下げることはなかったのですが、今になって思うとユーロビートもいい曲がすごく多いですよね。だから逆に最近はユーロビートをDJでかける頻度が増えました。
杏里 ユーロビートだとどのあたりがお好きですか。
DJ OSSHY やっぱりお約束のバナナラマとか、マイケル・フォーチュナティといったところですね。当時はそれほど好きじゃなかったけれど、今聴き直すといいんですよね。
Bananarama 「I Heard A Rumour」 1987(Official Video)
杏里 ディスコってかけるジャンルがディスコによって違うじゃないですか。バナナラマあたりだと、東京ではMAGICとかNIRVANAはかかってないけど、LEXINGTON QUEENはかかっていましたよね。マドンナの曲も同じような印象です。
DJ OSSHY LEXINGTON QUEENは、ロックやニューウェイブとかもかかる外国人御用達の店でしたから、白人系のロックやユーロビートが多かったですね。
杏里 そうそう、海外のアーティストが来日すると、みんな夜はLEXINGTON QUEENに流れるというのが定番だったんじゃないかな。
DJ OSSHY LEXINGTON QUEENでかかっていたような曲は、リアルタイムでは避けていたんですが、ずいぶん後から聴き込むようになって、それで好きになったというのはあります。今はジャンルの垣根はないですね。
杏里 やっぱり名曲はずっと残るんですね。
DJ OSSHY だから今もその当時の曲をイベントでかけたら、すごく盛り上がるんですよ。イベントと言えば、私はいつか杏里さんとステージで共演するというのが夢なんです。
杏里 嬉しいです。私もOSSHYさんとイベントやってみたい!
DJ OSSHY 杏里さんと一緒なら、おしゃれな大人の皆さんを集めたイベントが似合いそうですね。おしゃれな大人のライヴ&ディスコ・ナイト。
杏里 いまそんなことができるのはOSSHYさんしかいないですよね。これだけあの時代の音楽を理解されていて。本当にすごいと思っていますよ。実際にやるとしたならどんなイメージがありますか。
DJ OSSHY やっぱりおしゃれさや品格を重視したいんですよ。誰でもいいから来てほしいというのではなく、本当にわかっている大人の人たちを集める。そのクオリティコントロールがこれからのディスコ・イベントのテーマになると思います。どうすればおしゃれな人たちを集められるかっていうのを自分の中でテーマにしていきたいですね。昔のディスコのように、ドレスコードありのイベントにするとかね。
杏里 ビーチでやるのはどうですか。湘南に好きな場所があるんです。広くて奥行きがある砂浜とカフェがある海岸で、私はそこでプロモーションビデオも撮ったことがあるんですよ。葉山の方の海岸です。
DJ OSSHY それはいいですね。私もあのあたりはよく行っていました。それはなかなかいいかもしれない。
杏里 あのあたりって、あまり日本っぽくない空間なんですよね。ビーチでもしもそういうイベントができたら、OSSHYさんはどんな曲をかけるんですか。
DJ OSSHY やっぱりイケイケのダンス・ミュージックというよりは、大人っぽい雰囲気で踊れるナンバーですね。例えばボズ・スキャッグスの「ロウダウン」とか。
杏里 いいですね。盛り上がりそう。
DJ OSSHY でもオープニングは決まっているんですよ。杏里さんの「Windy Summer」。絶対にビーチで聴くと気持ちいいはずです。
杏里 「WINDY SUMMER」 1983(Official Video)
杏里 とても楽しみになってきました!(コロナ禍が)落ち着いたら、いつかぜひ実現させましょうよ。
DJ OSSHY 私の夢なので、ぜひお願いします! その前に、杏里さんは9月26日からいよいよツアーがスタートしますね。
杏里 そうですね。「ANRI LIVE 2021 〜Voice to Voice〜」というツアーで、関東エリアだけですが6ヶ所行います。
DJ OSSHY コロナ禍でなかなかライヴができない状況が続いたから、本当に待望ですね!
杏里 感染症対策も万全に行いますので、みなさんぜひいらしてください!
[後編]に続く
対談進行・文/栗本斉
「ANRI LIVE 2021 〜Voice to Voice〜」
■2021年9月26日(日)開場17:00 開演18:00
調布市グリーンホール 大ホール (東京都)
■2021年10月16日(土)開場15:30 開演16:30
ティアラこうとう 大ホール(東京都)
■2021年10月30日(土)開場15:30 開演16:30
相模女子大学グリーンホール 大ホール(神奈川県)
■2021年11月13日(土)開場15:30 開演16:30
東松山市民文化センター (埼玉県)
■2021年11月20日(土)開場15:30 開演16:30
市原市市民会館(千葉県)
■2021年11月27日(土) 開場15:30 開演16:30
久喜総合文化会館 大ホール(埼玉県)
【全席指定】 6,200円(税込)
詳細は杏里オフィシャルサイトにて
https://anri-music.com/s/anri/diary/LIVE/list
- ●杏里(あんり)
- 1977年、16歳の時にロサンゼルスでデビュー曲「オリビアを聴きながら」をレコーディング。翌1978年11月5日、17歳(高校2年生)でデビュー。「オリビアを聴きながら」は、後にスタンダードナンバーになった。
1982年「思いきりアメリカン」、1983年「CAT'S EYE」「悲しみがとまらない」が大ヒットして、80年代のシティ・ポップを牽引。その後もCMソング、ドラマや映画の主題歌など数々のヒット曲やダンス・ミュージック、ドライブ・ミュージックをはじめ、さまざまなジャンルの音楽を生み出し話題を呼ぶ。
1987年には、ハワイ出身のバンド、カラパナのサポートで、日本のポップスでは初めてのハワイ公演を成功させ、現地のメディアでも取り上げられる。以後、計7回のハワイ公演を行なった。
「SUMMER CANDLES」「スノーフレイクの街角」「ドルフィン・リング」などヒット曲多数。特にアルバム創作に積極的だったが、1989年にはアルバム『CIRCUIT of RAINBOW』が第31回日本レコード大賞アルバム大賞を受賞。
1991年、アフリカの子どもたちの救済のために、日本ユニセフ協会が中心となって横浜アリーナで開催された「ユニセフ・ライブ UNICEF LIVE」に出演。ライヴの総合プロデュースにも携わって、チャリティ・ライヴを成功させた。
1998年、長野オリンピックの公式イメージソング「SHARE~瞳の中のヒーロー~」を担当、閉会式では「故郷」を歌唱して世界にその映像が放映された。同年、ニュージーランドの観光大使を務め、マヌカハニーやワイン「Cloudy Bay(クラウディー・ベイ)」を日本に紹介、広めた。
2008年〜2009年、藤沢市の初代ふじさわ観光親善大使に就任。
2010年、巨匠デイヴィッド・フォスターが大空へ飛び立つ飛行機を思い描きながら書き下ろした、JAL(日本航空)のオリジナルソング「I Will Be There with You~あふれる想い」(日本語歌詞:吉元由美)を歌唱。
2018年にはデビュー40周年を記念するオリジナル・アルバム『ANRI』を発売。2019年3月には、ドラムの神様と讃えられるスティーブ・ガッド率いるスティーブ・ガッド・バンドとレコーディングを行ったオーガニック・フュージョン3 曲「Duke's Anthem 〜星空のどこかで〜」「忘れられない贈りもの」「Crescent Moon」を世界配信リリース。
デビュー以降、積極的に海外レコーディングを行い、海外のアーティストやミュージシャンとのコラボレーションも多い。特に、ピーボ・ブライソン、フィリップ・ベイリー(アース・ウインド・アンド・ファイアー)、ジョニー・ギル(ニュー・エディション、LSG)、マイケル・フランクスなどアメリカの偉大なアーティストとのデュエットも多数。また、外国人バックダンサーを日本で初めて起用するなど、常にグローバルで革新的なスタイルを切り拓いてきた。
40年間、一度も活動休止することなく、プロデュース、作曲、作詞、他のアーティストへの楽曲提供等も積極的に行い、日本と海外のミュージシャンによるグローバル・バンドで国内外での活動を行っている。
10代の頃から日本の音楽のグローバル化を目指してきたが、現在、日本のシティ・ポップが欧米の若者の間で注目されており、その中心的アーティストとして脚光を浴びている。
また、アーティストとしてだけでなく、幅広い世代の女性から杏里のライフスタイルやファッションはいつも熱い支持を受けている。(杏里オフィシャルサイトより引用)
杏里オフィシャルサイト anri-music.com
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9月25日(土) | 《RADIO》InterFM897「RADIO DISCO」15:00~17:45 生放送 |
9月26日(日) | 《RADIO》FMヨコハマ「横浜DiscoTrain」15:20~15:30 |
9月26日(日) | 《RADIO》TOKYO FM「FAMILY DISCO」18:00〜18:30 JFN全国ネット |
9月26日(日) | 《EVENT》サンデーディスコ オンラインvol.6 https://twitcasting.tv/c:djosshyofficial/shopcart/99437 |
10月1日(金) | 《ファンクラブ限定EVENT》DJ OSSHY ワンマン・オンライン・ライブ & ZOOMミーティング http://www.osshy.com/schedule/view/2316 |
10月2日(土) | 《TV》BSフジ「DJ OSSHY DISCO TV」再放送 24:30~24:55 |
10月3日(日) | 《EVENT》「SURF DISCO 2 -NO SURF, NO LIFE.-mixed by DJ OSSHY」リリースイベント 特典 http://www.osshy.com/schedule/view/2326 |
10月10日(日) | 《EVENT》DISCO Music Lounge 2021 Vol.1@逗子surfers |
10月13日(水) | 《EVENT》ナバーナ ライブvol.7 https://twitcasting.tv/c:nirvana_party_2020/shopcart/101620 |
11月7日(日) | 《EVENT》DJ AKIRA 還暦&42周年@竹芝BANK30 |
▲諸事情によりイベントは変更になることもございます。 詳しくはDJ OSSHY公式サイト(www.osshy.com) をご参考ください。