DJ OSSHY TOKYOの未来に恋してる!
安心・安全・健康的なディスコ・カルチャーを伝達することを使命とするDJ OSSHYのインタビュー連載
第46回【対談⑫ 角松敏生 × DJ OSSHY[後編]】
実はね、次のオリジナル・アルバムは角松敏生のラスト・アルバムにしようと思ってるんですよ(角松敏生)
ええええ! いきなり爆弾発言じゃないですか! そんな寂しいことを言わないでくださいよ!! (DJ OSSHY)
DJ OSSHY ([中編]からの続き)後編では2021年の抱負についてお聞きしていく、と中編を締めくくりました。角松さんの2021年はやはりニュー・アルバムを期待してしまうのですが、新作は出るのでしょうか?
角松敏生 実はね、次のオリジナル・アルバムは角松敏生のラスト・アルバムにしようと思ってるんです。
DJ OSSHY ええええ! 新年の抱負にいきなり爆弾発言じゃないですか! そんな寂しいことを言わないでくださいよ!!
角松敏生 ずっと考えていたことでもあるんですよ。ファンクラブの会員にはすでにメッセージを発しています。ひとりのアーティストがオリジナル・アルバムを出していく上で、決意ではないんですけど、けじめみたいなものは絶対に必要だと思っていて、これでお前も最後にしような、と自分で自分に言い聞かせました。
DJ OSSHY そのお気持ちはわかりますが、角松さんが音楽をやめられるのは日本の音楽シーンにとってあまりに大きな損失ですよ!
角松敏生 いやいや、音楽活動はやめません。自分のための曲を創るのをやめようということで、ほかのアーティストへの提供やライヴパフォーマンスは続けていきますよ。でも、次の作品をもって自身のオリジナル・アルバムという形態でのリリースは最後にしようと決めました。新譜を創ったらファンは喜んでくれますが、世の中には大して影響は与えられない。すごい労力を費やさないといけない「良いもの」を創る意味がなくなってしまいました。ぼくらの世代は、レコーディングが全てでした。ライヴは二の次。レコーディングアートで創り出されたことが全ての基準でアーティストの価値が決められていましたが、今は、そうしたパッケージの完成度、曲や歌詞だけじゃない、アレンジだったり参加ミュージシャンのプレイだったり、音質の良さだったり、そういうことに価値を持ってもらえない時代になってしまいました。昔のお客さんはレコードやCDに記録した音の意味や大変さを楽しんでくれました。しかし、今は、CDはただのインデックスに過ぎない。どんなに価値のある作品をお金をかけて作ってもそれ相応の対価を得られません。細かに作っていくのは大変な労力とお金がかかります。その対価価値が破壊されてしまいました。だから作っても生きる意味につながらないのです。自分の存在意義を感じられない。しかし、もう一度だけ次の世代に対してレコーディングアートの大切さを知ってほしい、遺しておきたい、そう思うのです。だから最後にそれを見せたいんです。創作にかけられる残された時間も考えて、最後のアルバムに心血を注ごうと思っています。
DJ OSSHY そういう決心を聞かされてしまうと何にも言えなくなってしまいますが……やっぱり寂しいし残念ですね。まだまだ「角松敏生」の音楽を聴き続けていきたい。でも、これはこの連載のホストとしてもお聞きしないわけにはいきませんから、そのラスト・アルバムはどんな作品になりそうなんですか?
角松敏生 最終的には新たなエンターテインメントにつながっていくような1枚にしたいですね。総合的なもので、基本的には物語なんです。1枚のアルバムがすべて物語になっていて、わかりやすく言うとミュージカル・トラックのようなもの。ま、ミュージカルをやるつもりはないんですがね(笑)。近年の映画におけるミュージカルの構成を見ていると、おもしろいと思うんです。
DJ OSSHY ここ数年で、ミュージカル映画の秀作が増えてきていますもんね。
角松敏生 でも、ここ日本ではミュージカルにおける音楽の地位が低いんですよね。ミュージカルというのは音楽がなければ成立しないのに、音楽家は演出家の下に位置している。『ジーザス・クライスト・スーパースター』や『キャッツ』を作ったアンドリュー・ロイド・ウェバーは実は音楽家です。だから、音楽家が演出家を使うという現場を実現させるためには、音楽家がミュージカルにおけるすべてを知っていなければならない。ダンスや芝居はもちろん、脚本も書けるくらいに。周到な下準備をしていないと、その筋の職人たちに舐められますから。とかね。そんなこんなで様々な勉強をもう一度しているんです。その線上にラジオドラマ『松角部長の杞憂』もあったわけです。全30話という長いストーリーを書くことができるか、自分を試す意味では良い1年になりましたね。物語を作ることの大変さを学びました。
DJ OSSHY 『松角部長の杞憂』にそんな深い考えがあったとは思いもよりませんでした。
角松敏生 もし何か、新しいエンターテインメントを自分が監督するなら大道具さんの釘の打ち方ひとつまで把握するくらいの知識をもった上で、こうしたいと関わる人たちに伝えられるくらいになりたいんですよね。こういう物語なのでこうしてくださいとお願いしたら、参加してくれた方々がすぐに理解して動き出せるようにならないといけない。
DJ OSSHY 自分が経験していないと舐められるという話はすごくよくわかります。ラジオ番組の制作もそうですから。プロデュース・ワークでは経験していないことも指示しなくてはいけない場面も時にはありますが、角松さんは裏方まで本当に把握している。スティーヴィー・ワンダーのようです。
角松敏生 いやいや、そんなおこがましい。でも、アーティストと職人はまったく別のものであり、互いに同じ場所にいないと成立しないんですよね。アーティストは職人の力を借りないと自分を表現できない。職人は自分の力をアーティストに認めてもらわないと仕事がない。アーティストは自分が理想とする世界を表現するために、このミュージシャン、レコーディング・エンジニアが必要なんだということになるわけです。職人たちは自分たちだけで何千何万というお客は呼べない。ある一定以上のファンがいるアーティストは何をやろうがお客は呼べます。ギター1本で演奏するだけでもお客さんは集まってくれます。でもアーティストはそれだと嫌なんです。もっと色々なことを表現したいから、職人の力を借りる。
DJ OSSHY 確かにおっしゃるとおりです。よく理解できます。
角松敏生 音楽学校の特別講師で呼ばれる機会があるときに必ず言うのは、君たちはアーティストになりたいのか、職人になりたいのかということ。どちらを選んでもいいけど職人の方が長く続けられるよ、アーティストはお客さんがいなくなったら終わりだからね、と伝えています。アーティストを選ぼうとしている生徒にも、職人レベルのことが自分でできないと、君の音楽や言葉は説得力を伴わないとも言っています。レオナルド・ダ・ヴィンチも絵の具職人がいなければモナリザも描けなかった。きっとダ・ヴィンチも絵の具職人を指定していたはずなんです。そういう関係なんですよ、アーティストと職人も。
DJ OSSHY ‘81年にデビューされて以来、角松さんはどちらの面もお持ちだと思うのですが、ご自身ではどちらのマインドの方が強いんですか?
角松敏生 今もどっちになりたいんだろうかとずっと自問自答しているんです。でも、アーティストとして40年やってきて、おかげさまでファンもたくさんいてくれる。ファンがいることの責任というのはすごく重い。職人に徹しきれないんですよね。アーティストとしてやってきたことに対しての責任はきっちり取っていかないといけないんですが、自分が職人的なことを学んできたから今までの作品やライヴが作れてきたんだよとファンにもずっと説明してきている。うれしいことに多くのファンが角松のそういうところが好きなんだと言ってくれますが。DJも職人でありアーティストでもありますから、OSSHYさんも同じ思いなのでは?
DJ OSSHY いや、まさに角松さんがおっしゃったことを自分に置き換えながら聞いていました。本来DJは職人の成り立ちだったのが、ここ最近の傾向としてはDJがアーティスティックな活動をスタートさせている。集客という面も含めて。まさに私の立場がそうですし。
角松敏生 OSSHYさんはその走りだよね。
DJ OSSHY そうなりますね。80年代ディスコの時代はお店に雇われていたのでフロアのお客さんを喜ばすことに注力していました。当時はお客さんを呼ぶという行為をしていなかったのが、フリーランスとなって以降は自分の名前とプレイでお客さんを集めなくてはいけなくなったわけですし。同じ思いです。角松さんのお話を伺っていると、どうやらニュー・アルバムは音楽作品という範疇を超えて舞台や映像も取り入れた、とんでもない大作になりそうですね。
角松敏生 いや、まだそこまでは考えていないです。でも、瞬間的に盛り上がるものではなく、ずっと残るものを創りたいとずっと思いながらアルバムを作り続けてきたわけです。それこそ、先ほど述べた『ジーザス・クライスト・スーパースター』や『キャッツ』、そして往年のディズニー作品のような今も変わらず上演され続けているような、普遍的で人々に感動を与えられる作品はどうしたら創ることができるのか。2000年代以降はそういう作品がなくなってきましたよね。いや、逆にいっぱいあり過ぎるからわからないのかな。なんでもやれるし、なんでもやらせちゃってる。
DJ OSSHY 確かに今は誰でもメディアになれる時代になりました。YouTuberが最たる例です。
角松敏生 昔はプロになるにはもっと狭き門だったし、敷居が高かった。お金をもらえるまでには時間が相当かかったし。今はそれがまったくないと言っていい状況にある。そのことに対して否定はしないし、そういうものなんだろうなと思っていますが、ぼくは60年間生きてきて、自分の目標として何か一生心に刻まれるものを作るにはどうすればいいかをずっと考え続けてきたんです。そういう体験をぼくの音楽を聴いてくれる人たちと一緒に作り出していきたいけど、還暦を過ぎた今も答えが出せないほど難しい。
DJ OSSHY あらゆる層に浸透して心に残るメロディという点では「ILE AIE~WAになっておどろう~」(‘97年)がそうではないでしょうか。
角松敏生 「WAになっておどろう」はぼくの手から離れて曲自体が独り歩きしたような曲で、ああいう曲を作れたというのは自分にとってはありがたかったなと思いますね。でも、作ったときはヒットさせてやろうというような意図はまったくなかった。
DJ OSSHY そもそも「WAになっておどろう」発売名義のAGHARTAは覆面バンドでしたもんね。
角松敏生 そう、匿名性によって曲がどう反応を見せるのかを試したかったんだけど、バレちゃった(笑)。意図しない曲がヒットすることは往々にしてあることなんですけど、いちどくらいは意図した曲がヒットしてほしいなあ。「Tokyo Tower」(’85年)なんて、デモ音源をディレクターに聴かせたときに笑われましたからね。「東京タワー」かよ(笑)って。
DJ OSSHY ええ!? あんな名曲が?
角松敏生 ある世代にとって東京タワーはお上りさんが行く観光名所だというイメージがあるんですよ。それで「Tokyo Tower」なんて曲はかっこ悪いと思われていたんですよね。「東京タワー」ってかっこいい、というセンスは当時の制作陣の誰にもわかってもらえなかった。ぼくの音楽はわかる人にはわかってもらえるというケースが多いし、「WAになっておどろう」も大人も子どもも楽しめるという単純な思いつきで作っただけですし。気がついたら長野冬季オリンピックから使わせてくださいって言われた。それで、こりゃもっと売れるんじゃないかと思って(笑)avexの松浦(勝人)さんのところに相談にいったら、V6に歌ってもらいましょうという流れになって大ヒットしたわけです。おかげで、世の中的にはV6の歌、ってことがスタンダードになって、わたしゃ、かすんでしまいましたがね(笑)。
DJ OSSHY そんなエピソードがあったとは! 昨年7月にリリースされた角松さんの職人サイドのまとめとも言える、プロデュースしてきた様々なアーティストの名曲をコンパイルしたコンピレーション・アルバム『角松敏生ワークス -GOOD DIGGER-』も「WAになっておどろう」と同じ90年代の曲が中心に収録されていますね。
角松敏生 まとめというよりは実験の成果ですかね。そのコンピは90年代のワークスを中心にまとめられていて、ちょうど制作の方法がアナログからデジタルへと移行するタイミングでもあったんですよ。コンピューターと首っ引きに向き合いながら作った百花繚乱のサウンドが詰まっている。
ヴァリアス・アーティスツ
『角松敏生ワークス』(2020年)
DJ OSSHY ずばり、この『角松敏生ワークス』の中で思い入れのある1曲を選ぶとしたらどれでしょう?
角松敏生 タワーレコードさんの企画なので選曲・制作には直接関わっていないんですけど(笑)。でもこの中であえて1曲選らばせてもらうとしたら布施明さんの「IF YOU LOVE SOMEBODY」ですね。
DJ OSSHY Disc2の6曲目、布施明 MEETS KADOMATSU名義の「IF YOU LOVE SOMEBODY」ですね。この布施明さんと角松さんの組み合わせは驚かされましたね。どういう経緯でご一緒されたんですか?
角松敏生 この曲が入った布施さんのアルバム『Estimado』がリリースされたのが‘96年。ちょうど布施さんが新しいことに挑戦してみたいというモードだったらしく、それでプロデュースの話をいただいたんです。そこで布施さんの雰囲気に合うのはAORだろうということでアプローチしていったんですが、その中で布施さんの代表曲である「霧の摩周湖」をセルフ・カヴァーしてもらおうと思ったんです。
DJ OSSHY 『Estimado』の「霧の摩周湖」はすごいアレンジですよね。まさか打ち込みの「霧の摩周湖」になるとは。
角松敏生 そう、現代的なアレンジで歌ってみてもらえたらおもしろいだろうなと思って。原曲とはかけ離れた打ち込みのアレンジだったんですが、レコーディング・ブースに布施さんが入って歌い出した瞬間にみんな黙り込んでしまった。
DJ OSSHY その沈黙は?
角松敏生 いや、悪いはずがなく、完璧なんですよ。聴き惚れているうちに歌い終わられて、もうそれで1テイク目でOKだったんですが、プロデューサーという立場もあるので、めちゃくちゃ良かったですがもう1テイクお願いしますと再度歌ってもらったんです。そしたら、2テイク目もまったく変わらない。どちらのテイクを選んでも同じなんですよ。念のために3テイク目も歌ってもらいましたが、やっぱり同じ。
DJ OSSHY すごい。
角松敏生 僕もこんなことは初めてで、強烈な経験でした。同じくコンピに収録されている(「BEAT STREET」の)西城秀樹さんもそうですが、やっぱり昭和の大歌手って歌がとてつもなくうまいんですよ。基本的な歌唱力が土台としてしっかりとある上で、それぞれのカラーをもって歌い上げていく。昭和の大歌手の凄みを思い知らされました。どんなアレンジだろうが、ブレることはまったくない。全部持っていかれる。
DJ OSSHY 現場に立ち会っていたら鳥肌立ちそうですね……。
角松敏生 ほんと、そんな感じでしたよ。いい経験させてもらいました。OSSHYさんは2021年はどういう年にしていく予定なんですか。2020年はほぼ現場がなかったでしょう?
DJ OSSHY はい、ほぼありませんでした。こんなことはDJを始めてから、一度もなかったことですね。
角松敏生 エンターテインメントに関わる人すべてがそうでしたよね。みんななんとか1年やってきたという感じで。
DJ OSSHY そんな中、昨年12月に恒例のDynastyを開催したんです。もちろん東京都の感染拡大防止ガイドラインに準じて、人数も限られた上で行なったんですが、お客さんを前にしてのプレイの呼吸だったり、コミュニケーションの醍醐味を久々に感じてうれしくなりましたね。思っていたよりも反応がなくて曲を差し替えるアドリブ感や、逆にこの曲でこんなに盛り上がるとはというようなサプライズ感はライヴならではだな、と。配信では味わえない時間でしたし、心地よい疲れをおぼえました。
角松敏生 わかるわかる。ライヴならではの疲れは、嫌な疲れじゃない。配信の疲れはそうじゃないけど(笑)。でも、ダンスフロアでソーシャルディスタンスをキープしてもらうのは難しいことだったんじゃないですか?
DJ OSSHY ダンスフロアで踊ってもらうのはさすがに無理で、フロアまでテーブルを出して着席スタイルでのイベントにしました。そうしたら、みなさん自分の席で立って身体を揺らしていたんです。もちろん隣の人とは距離があり、会話も控えめにしてもらっていました。立って身体を揺らして、疲れたら座るという光景を目にして、ふっと天からの啓示のようにひらめいたんですよね。これは新しいスタイルだ。「お席でディスコ」もありだなと。
角松敏生 「お席でディスコ」!? でも、ありだと思う! ぼくのファンも中高年中心だけど、OSSHYさんのファンもそう変わらないもんね。
DJ OSSHY そうなんですよ。リアル・ディスコの50代、60代ですので、その世代が遊びに来て、いちばん求めるのが「椅子」なんです。自分の椅子があるの本当に喜ばれましたね。そうしたラウンジ形式のイベントはありますが、会話ができるように音量は控えめ。でも、「お席でディスコ」はいつもどおりの音量で、軽食やお酒も楽しめる。このスタイルは誰もやっていない。コロナ禍だからこそ思いついた、新しいディスコのスタイルなんです。
角松敏生 これはいけるんじゃないかな。ニーズにも世の中の動きとも合致しているし。
DJ OSSHY これまでも真逆の試みを仕掛けてきました。例えば、夜ではなくお昼に踊るディスコ、子どもを対象にしたファミリー・ディスコ、そして高齢者ディスコを行なってきましたが、どれも最初はバッシングされました。それでも強い信念の元に続けていったことで徐々に認められていったんです。「お席でディスコ」もじわじわと浸透させていきたいと思います。今年の7月22日、ディスコの日も「お席でディスコ」でやっているかもしれませんね。
角松敏生 OSSHYさんの2021年は「お席でディスコ」だね!
DJ OSSHY はい、今年は丑年なんで、その歩みにならって焦ることなく、ゆっくりと基礎を固める1年にしようと考えています。同時にこのコロナ禍もゆっくりと改善されていくことでしょうから、そのペースやシチュエーションに合わせた活動を展開していこうかなと。角松さんに命名してもらった「DJ USSHY(ウッシー)」としてがんばっていきます(笑)!
[終わり]
対談進行・文/油納将志 写真/島田香
- ●角松敏生(かどまつとしき)
- 本名同。1960年、東京都出身。1981年6月21日シングル「YOKOHAMA Twilight Time」、アルバム『SEA BREEZE』の同時リリースでデビュー。以後、彼の生み出す心地よいサウンドは多くの人々の共感を呼び、時代や世代を越えて支持されるシンガーとしての道を歩き始める。また、他アーティストのプロデュースをいち早く手掛け始め、特に1983年リリースの 杏里「悲しみがとまらない」、1988年リリースの 中山美穂「You're My Only Shinin' Star」はどちらも角松敏生プロデュース作品としてチャート第1位を記録、今だスタンダードとして歌い継がれている。角松自身のリリースされるアルバムは、いずれもチャートの上位を占める。年間で最高100本近いコンサート・ツアーも敢行。1997年にNHK“みんなのうた”としてリリースされたAGHARTA(角松敏生が結成した謎の覆面バンド )のシングル「 ILE AIYE(イレアイエ)~WAになっておどろう」は社会現象ともいえる反響を集め大ヒット。1998年2月の<1998 長野冬季オリンピック>閉会式では自らAGHARTAのメインヴォーカルとしてその大舞台に立ち、今や国民的唱歌「WAになっておどろう」が披露され、この映像は全世界に向けて映し出された。 その妥協を許さないスタンスとクオリティで常に音楽シーンの最前線で活動をしている。
角松敏生オフィシャルサイト
http://www.toshiki-kadomatsu.jp/
●最新作|Blu-ray/DVD
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『TOSHIKI KADOMATSU Performance“2020.08.12 SPECIAL GIG”』
2020年12月23日発売
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3月7日(日) | 《RADIO》FMヨコハマ「横浜DiscoTrain」15:48~15:57 |
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