西寺郷太 It's a Pops
NONA REEVES西寺郷太が洋楽ヒット曲の仕組みや背景を徹底分析する好評連載
第26回 ダリル・ホール&ジョン・オーツ 「マンイーター」(1982年)【前編】
―― 郷太さん、お久しぶりです! 今日はいつもの面会形式とは違ってZoomを使っての取材となります。
西寺 前回の取材は、リック・アストリー行くとか、a-haのライヴが楽しみとか言ってた冬でしたから3か月ぶりぐらいですか。結局、どちらも実現しないなんて思ってもいませんでしたね。で、ゴールデンウィーク前に安川さんから「ホール&オーツをIt’s a Popsでも語ってください!」って鼻息の荒いZoomの招待メールが届いて(笑)。
―― テレワークしながらTBSラジオの『アフター6ジャンクション』「西寺郷太の洋楽スーパースター列伝」を聴いていたら、郷太さんがホール&オーツのことをしゃべっていて、これがメッチャ面白くて。「郷太さんしゃべり足りないはずだ!」って勝手に思いまして。
西寺 ありがとうございます(笑)! ライムスターの宇多丸さんの番組のなかで、マンスリーでポップ・ミュージック史を語る企画を続けさせてもらってます。安川さんが聴いてくれたのは、しばらく続けてきた洋楽スーパースター列伝番外編「80’s リズム関ヶ原」ですね。80年代、世界のアーティストの数々がリズム、主にドラムを生演奏にするか、マシンの打ち込みにするか……で揺れました。僕が最初に「洋楽」にハマったそんな時代のアーティスト達を戦国時代の武将に見立てて切り取るシリーズ。4月はダリル・ホール&ジョン・オーツ編でした。
―― 実際に番組のなかで、王道スタイルのヒューイ・ルイスと対比させて「ホール&オーツはシンセやドラムをドラムマシーン、エフェクティヴなサウンド処理なんかも積極的に取り入れています。80’sサウンドの先駆者でもあった」と話していましたね。
西寺 ……。それは東郷かおる子さん(元『ミュージック・ライフ』編集長)と対談した時の発言じゃないかな? 『THE DIG』でしょ(笑)。
- シンコー・ミュージック・ムック
THE DIG Special Edition
『ホール&オーツ』 2015年
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―― すみません! 予習し過ぎて情報がごっちゃになってきた(汗)。「セイ・イット・イズント・ソー」をNONA REEVESでカヴァーしたって話は……。
西寺 それも『THE DIG』だと思うけど(笑)、カヴァーじゃなくてオマージュですね。90年代的な引用と言いますか。「セイ・イット・イズント・ソー」はホール&オーツのなかで指折りに好きな曲。NONAのワーナー時代のアルバム『ANIMATION』(’99年)に収録した「I HEARD THE SOUND(Parts1&2)」という曲では「セイ・イット・イズント・ソー」をオマージュしていて。珍しく僕が鍵盤を使って作った曲ですね。ホール&オーツ、アイズレー・ブラザーズ、スティーヴィー・ワンダーの3組は、小松(シゲル)、奥田(健介)、西寺のNONA3人のど真ん中で共通に好きなアーティストという気がして。特にバンドがスタートして固まるまでは、かなり影響を受けました。
DARYL HALL & JOHN OATES「Say It Isn’t So」(1983)
話を最初のラジオに戻すと、僕にとってホール&オーツが興味深いのは、「80’s リズム関ヶ原」の流れで言うなら、70年代まではアナログ軍の後方にいたグループだったはずなのに、気がつけば80年代初頭、ドラムの解釈に関してはデジタル軍の最前線に立っていたという事実ですね。
―― そうそう。僕(’70年生まれ)が80年代に洋楽に開眼した時にはホール&オーツは最先端にいた。ブラウン管のなかで踊ってた(笑)。
西寺 僕(’73年生まれ)も印象は少し違って、「ひとつ上の世代が好きなグループ」という感じで。ワム!や、マイケルやカルチャー・クラブなどに比べたら、'83年に37歳だったダリル・ホール、特に髭をたくわえた35歳のジョン・オーツは「オジサン」に見えたんですよね。で、やっぱりダリル・ホールのヴォーカルに本格的に耳を奪われたのが「ウィ・アー・ザ・ワールド」(’85年)。このあたりは以前、この連載でも紹介したボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンと同じタイミング。「郷太またか!」って話なんですけど(笑)。もちろんチャート番組とかではチラッと観たり、聴いたりしてはいたんですが。
USA for Africa 「We Are The World」(1985)
―― ブルース・スプリングスティーン回での「ウィ・アー・ザ・ワールド」での白人ロッカー達の貢献度の話は感動的でしたよ。「ブルース・スプリングスティーン→ ケニー・ロギンス→スティーヴ・ペリーが屈指のメロディメイカーであり歌唱もズバ抜けていることを見せつけ、バトンを受けたダリル・ホールがこれまたソウルウルでため息をつくほど美しい“モダン・ヴォイス”を聴かせてくれた」って。
西寺 「ウィ・アー・ザ・ワールド」でもダリルは彼特有のリズムをタメないで伴奏に対してかなり前に突っ込んでゆくスタイルで歌っているんですよね。ある意味「黒人音楽に憧れながら、黒人音楽的に染まりきれていない」スピード感のある唱法、それこそが彼の味になっていると思うんですが。今日はそのあたりのことをお話ししたいなと思っています。
―― キーワードはアメリカ東海岸フィラデルフィアですね。
西寺 ’46年生まれのダリルはフィラデルフィア近郊で育っています。彼の両親に黒人の親友がいて、ふたりが仕事に出ている時はダリルはその黒人家庭に預けられてそこのブラザー達と兄弟のように過ごしていようです。家には寝に帰るだけだった、とも。美少年だったがゆえに「お前だけ白いね」ってからかわれたりしてね。彼が十代になった頃のフィラデルフィアはディック・クラーク司会の音楽番組『アメリカン・バンドスタンド』(’57年放映開始)のお膝元としてダンス・ミュージックのメッカでした。ダリルような環境じゃなくても白人でも容易にリズム&ブルースやドゥーワップなどの黒人音楽が楽しめる環境で。トッド・ラングレンも同世代の同郷ですね。ダリルは黒人音楽を必然的に吸収しながら青春時代をフィラデルフィアで過ごしています。
―― ジョンは?
西寺 ‘48年生まれのジョンはスペイン系の父親とイタリア系の母親の間に生まれていて4歳の時にNYからフィラデルフィアに引っ越してきました。中学の時に組んでいたバンドでモータウンのカヴァーをしていますね。ダリルとの出逢いはふたりが通っていた地元のテンプル大学でのそれぞれの音楽活動時。これはこの前のラジオでも話しましたけど、テンプトーンズ(ダリル在籍バンド)とマスターズ(ジョン在籍バンド)は地元で行われた音楽イベントに出演予定だったのに、ギャング同士の抗争によってショウそのものが中止になり、ダリルとジョンはその場から逃げ出そうとして慌てて駆け込んだ業務用エレベーターで偶然一緒になり、この時に初めて言葉を交わしたそうです。「やばい、怖かったーぁ」って(笑)。
DARYL HALL & JOHN OATES「Rich Girl」(1977)
―― すごい。映画みたい。音楽史的にはギャングに感謝ですね。
西寺 ’72年にアコースティックなソウル・デュオとして、当時としては遅咲きのダリル26歳でのデビュー。ジョージ・ハリスンなんてビートルズ解散時で27歳ですからね。彼らの音楽をソウルに根ざしたポップなサウンドと言ってしまえばそれまでなんですが、結果的に後の歴史から見れば、ホール&オーツ最大の特徴は、ソウル・マニアなのに固定ドラマーがいなかったということに尽きますね。
―― ほう。
西寺 70年代の終わりから80年代にかけて高性能なリズムマシーンが急速に発展した時にいち早く新しい試みとして取り入れたのがホール&オーツですね。つまり絶対的なドラマーに忖度することなく彼らはポップ・フィールドで自由に時代のリズムを創り出すことに成功したんです。’77年には「リッチ・ガール」の全米No.1シングルも出して彼らはスターダムを歩き始めていました。その頃から彼らが憧れていた本家の黒人ミュージシャン達のほうから、ホール&オーツってリズムマシーンを使って面白いことをやっているなっていう、ある意味「逆輸入」的な声が大きくなっていくんですね。
―― 乗り遅れた!って焦った黒人アーティストもいたでしょうね。
西寺 例えば70年代最強グループのひとつアース・ウインド&ファイアーには出来ない発想だったと思います。彼らは重厚なホーンセクションに代表されるような大所帯グループの特性を活かした分厚い演奏によるバンド・アプローチで一時代を築きました。固定メンバーにすれば、シンセサイザーやドラムマシンがホーンやリズムの代わりを果たすだけでなく、そっちのほうがクールだって時代が来たら困りますよね。レコーディングに自分がいらなくなるわけですから。で、ソングライターやプロデューサーの立場からみるとそれは「時代の変化」についていけない足枷みたいに感じてしまうというか。実際、80年代は生のドラマーや大所帯バンドは、それまでの時代に比べると不遇になっていきます。アースものちに『エレクトリック・ユニヴァース』(’83年)というタイトルにも象徴されるデジタル傾倒を見せますが、残念ながら成功しなかったですよね。
―― アースでいえば「レッツ・グルーヴ」は生グルーヴであって欲しいという気持ちもありますよね。
西寺 一時代を築き上げ過ぎると、それが次世代のアーティストにとっての仮想敵になってしまいますからね。一方、ホール&オーツの音楽は「バンド」ではなく「ユニット」だったことによって、人間関係など気にせず身軽に新たなマシンを導入することが出来た。ある時までニセ物だ、マネだと言われていた彼らのサウンドは、今から思えばチープでシンプルなものですが、デジタル機材を混ぜることで新鮮で「モダン」なサウンドとして響いた。80年代に突入すると黒人サイドからも「真似」される逆の流れさえ出来てきたわけですから。
―― 時代が追いついた。
西寺 本人達もその雑食的なアイディアを具現化するのに時間が掛かったんでしょうね。あと特にMTVが'81年夏に開局してからしばらくは、黒人アーティストの楽曲はごく少数しか放送されませんでした。でも、黒人音楽的なリズムやグルーヴの快感は大衆も感じていたわけで、その意味でもある種の「抜け道」と言いますか、ホール&オーツの音楽が強烈に求められ愛された理由だと思います。もちろん彼らに類まれな実験精神とソウル・ミュージックへの畏敬の念があったからこそですが。50年代のエルヴィスや60年代のビートルズ、ローリング・ストーンズによる黒人音楽の咀嚼と再構築を、ホール&オーツはマシンを導入した新しいリズム、サウンドで生み出した。言うなれば、プラスティック・ブルー・アイド・ソウル=ポップ。本人達は「ロックンソウル」なんて呼び方もしていました。彼らの存在自体が70年~80年代という時代を映し出している気もして。だからこそ革命家なんですが「当たり前」過ぎてあまりその偉大さに気づかれていない、そんな気もします。特にプロデューサー探しに迷走していたとも思える彼らが、アルバムをセルフ・プロデュースするようになってからはさらにポップの勢いが増して「ホール&オーツ時代」が始まります。
―― 2曲目の全米1位「キッス・オン・マイ・リスト」を含む『モダン・ヴォイス』(’80年)からセルフ・プロデュースですね。
西寺 はい。このアルバムから彼らのヒットチャート快進撃が始まりますが、このあたりの数字はチャートマニアの安川さんが明るいので、いったん譲ります。どうぞ(笑)。
―― お言葉に甘えて(笑)。ホール&オーツの全盛期と言われている’81年から’85年までの全米チャートTOP10だけの記録をご覧ください。ちなみに彼らは、マイケル・ジャクソン、マドンナを抜いて「22曲」を保持する「80年代に最も多くの全米トップ40ヒットを放ったアーティスト」です。でもここで注目すべきは「アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット」です。’70~’80年代においてビルボードの総合HOT100すなわちポップ、R&B、ダンスの三冠王はこの曲しかないんです。
’81年04月「キッス・オン・マイ・リスト」 全米1位
’81年07月「ユー・メイク・マイ・ドリームス」全米5位
’81年11月「プライベート・アイズ|全米1位
’82年02月「アイ・キャント・ゴー・フオー・ザット」全米1位/全米R&B1位/全米ダンス1位
’82年05月「ディド・イット・イン・ア・ミニット」|全米9位
’82年12月「マンイーター」全米1位/全米ダンス18位
’83年04月「ワン・オン・ワン」全米7位/全米R&B 8位
’83年06月「ファミリー・マン」全米6位
’83年12月「セイ・イット・イズント・ソー」全米2位/全米ダンス1位
’84年04月「アダルト・エデュケイション」全米8位/全米ダンス21位
’84年12月「アウト・オブ・タッチ」全米1位/全米R&B 24位/全米ダンス1位
’85年02月「メソッド・オブ・モダン・ラヴ」全米5位/全米21位/全米ダンス18位
上記はすべてビルボードチャート参照(編集部調べ)
DARYL HALL & JOHN OATES「I Can’t For That(No Can Do)」(1981)
西寺 まさに「アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット」はエポックな1曲といえますね。1年後に発表されるマイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」はこの曲に影響を受けたと言われています。80sブルー・アイド・ソウルの体現者となったホール&オーツ、対するマイケル・ジャクソンからの返答が「ビリー・ジーン」。「ウィ・アー・ザ・ワールド」(’85年)セッションの時に、マイケルがダリルに「アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット」のアイディアにインスパイアされて「ビリー・ジーン」に使わせてもらったと話しかけたという説もあるんですよね。
―― ざっと4年越しの機会を伺って拝借報告(笑)。
西寺 それが本当だとしたら、ダリルの立場からしてみれば、いやいや元々はアナタ達の音楽からのインスパイアですからどうぞどうぞ、ですよね(笑)。俺達アナタ達からどれだけ影響を受けてきたか、って(笑)。そういう流れでいうとさらにホール&オーツは「80sポップス」のもうひとつの雛形を発表していますね。それが「マンイーター」。マイケルだけじゃなくて、黒人音楽界の帝王と言ってよいスティーヴィー・ワンダーにも後に「逆輸入」的影響を与えた楽曲です。
[後編]に続く。
聞き手/安川達也(otonano編集部)
DARYL HALL & JOHN OATES「Maneater」(1982)
- DARYL HALL & JOHN OATES
「Maneater」
Release:October 31,1982
Recorded:December,1981/Electric Lady Studios(NY)
Songwriter:Sara Allen/Daryl Hall/John Oates
Producer:Daryl Hall/John Oates
Label:RCA Records
Daryl Hall – Lead Vocal&Backing Vocals,Keyboard,Synthesizers
John Oates – Lead Guitar,Backing Vocals,Drum Machine
G. E. Smith – Rhythm Guitar,Backing Vocals
Tom Wolk – Bass
Mickey Curry – Drums
Charles DeChant - Saxophone
ダリル・ホール&ジョン・オーツの通算13枚目のアルバム『H2O』のオープニングを飾った先行シングルで、’82年12月18日付けから4週連続全米チャートで1位(’83年度年間7位)を記録したグループ最大のヒット曲。ジョン・オーツが当時住むNYアパートの12階で生まれた。ふたりが新作のアイデアを模索している時に、ジョンがレゲエのリズムから思いついたメロディにダリルが歌詞を付け、モータウン・オマージュなイントロをのせている。MTV全盛期、肉食系女性を誇張したミュージックビデオは反女性的と抗議を受けた。アルバム『H2O』は’83年1月15日付~4月16日付まで15週連続全米3位(年間4位)を記録しダブルミリオンに輝く彼ら最大のセールスを記録。『H2O』は日本でもオリコン総合9位を記録するホール&オーツの代表作となった。ジャケット写真は’82年11月1日に発売された国内盤シングル(ドーナツ盤)「マンイーター」。