西寺郷太 It's a Pops
NONA REEVES西寺郷太が洋楽ヒット曲の仕組みや背景を徹底分析する好評連載
第22回 シンディ・ローパー 「グーニーズはグッド・イナフ」(1985年)
―― さて郷太さん。今回の連載「It's a Pops」は、10月に来日公演を控えるシンディ・ローパーにスポットを当てます。「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」「タイム・アフター・タイム」「トゥルー・カラーズ」など数あるヒット曲のなかから、郷太さんが選んだのは「グーニーズはグッド・イナフ」。言わずと知れた映画『グーニーズ』(‘85年)の主題歌でした。
西寺 『グーニーズ』はアメリカ公開が’85年夏で、日本が’86年度のお正月映画でした。僕もグーニーズたちと同年代の小学6年生だったということもあったのかもしれませんが、当時の空気まで呼び覚ませてくれるような気持ちを抱きますね。主人公のひとり少年マイキー(ショーン・アスティン)の部屋にプリンスのポスターが貼ってあって、さらに友達のマウス(コリー・フェルドマン)が家に遊びに来るんですが、マウスも『パープル・レイン』の黒いシャツを着てるんですよね。プリンスを推すなぁっていう(笑)嬉しい第一印象もありましたね、子供心に。
- 『グーニーズ』
(1985年/アメリカ映画)
© 1985 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
ワーナー公式
―― 『パープル・レイン』旋風直後ですからプリンスはキッズたちの新しいヒーローという存在でしたね。そんなわんぱくなグーニーズたちが自転車で海辺の街を自転車で滑走するシーンも印象的でしたね。
西寺 そうそうロケ地は、後から知ったんですけどオレゴンの海辺の街。80年代中盤の西海岸の田舎街の日常風景。中国系の発明家少年キー・ホイ・クァンが演じるデータ君も登場したり。彼の活躍するシーンは「ピタゴラスイッチ」的な面白さもあったり(笑)。僕ね、2012年に一度だけオレゴンに行ったことがあって。ジャクソンズの仕事で湯川れい子さんと一緒に。いざ、オレゴンってなると、思い浮かべた情景はもちろん『グーニーズ』。現地に着いて、絶対心に決めていて実行した一言目のツイートが「オレゴンから、愛。」って、めっちゃしょうもないんですけど(笑)。「ここ行くの決まった時からつぶやく予定で満を持して!っていうかそのためだけに行ってるっしょ!」って、ドラマーで草野球仲間の田中ゲンショーさんには突っ込まれて(笑)。
―― 調べたところ、オレゴンのロケ地で90年代ぐらいの一時期グーニーズ・ツアーっていうのが大人気だったらしくて、地元の人が町おこし企画として運営していたらしいんです。マイキーの家族が住んでいたロケ家が実際に残っていてツアーの行程に入っていたんだけど、訪れる人たちのマナーがあまりにも悪すぎて、家主さんが怒って閉鎖したら、マイキーの家に行けないのは魅力がないってツアー自体が衰退していったらしいですよ。
西寺 参加したいけど、普通の民家ですもんね(笑)。ただこの頃の映画って、レンタル・ビデオとか、テレビ放送の録画したVHSとか、ともかく何度も何度も観た記憶があって。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(‘85年)とか。そういえば自分の息子も10歳になるんですが。親戚の車の中に『グーニーズ』のDVDが入っていたらしいんですね。今日も「otonanoの連載取材に行くんだよ」って言ったら、「今回は誰の話をするの?」って聞いてくるから、ま、わからなくてもいいやと思って「シンディ・ローパー、知ってる?」って答えたら、「あ、『グーニーズ』のなかでテレビ画面に出てくる。髪の毛が赤と黄色の人でしょ?」っていうから、「すごいやん!」って。『「ウィ・アー・ザ・ワールド」でネックレスがジャラジャラいうからうるさいって注意されて笑ってた女の人でしょ?』って続けるから、それ10歳にしたら基本認識100点やでって(笑)。
―― 郷太式英才教育(笑)。でも凄いですね。34年を経ても浸透する『グーニーズ』とシンディの親和性というか、一体感というか。
西寺 まぁ、子供受けしますよね。キャラ的に。あと、「グーニーズはグッド・イナフ」に関しては、特にそのサウンドにも秘密があるのかなと。やっぱりティーン映画の主題歌ってこともあって、この曲には特にファミリーコンピュータ的な、「チップチューン」って呼ばれてるゲーム音楽の感覚がある。メモリーが異常に少ない当時の技術を駆使して作った、今聴くとチープなんですが異様にワクワクする楽し気なアレンジが特徴かな。良くも悪くも解像度の低いオモチャっぽいサウンド。そこに、TOTO「アフリカ」あたりから大流行したエスニックな、ちょっと神秘的で非西洋的な「秘境」イメージを被せて。「スペランカー」とか、そういうゲームの感じ。実際に『グーニーズ』自体も人気ゲームにもなりましたよね。コンピュータ・ゲーム音楽的なアレンジと、シンディのキャッチーで陽気な歌声をマッチさせたこと。その結果、世界なヒットに結びついたんだと思っているんです。
Cyndi Lauper「The Goonies 'R' Good Enough」1985
―― 日本でも「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」の次に売れたシングルが「グーニーズはグッド・イナフ」でした。
西寺 日本もそうですが、あの頃、世界中の子供が日常的に一番繰り返し聴いていたのってじつはゲーム音楽だと思うんですよ。80年代に入りレコードから、カセット、ウォークマン®へ、という世界的な流れがあって、その後’83年にファミコンが登場し、翌年くらいから本格的に海外でもファミコンが流行し1日中ゲームする若者が増えて。ある意味「ポップ・カルチャー」「子供の娯楽」として、ゲームが音楽を自宅環境でも越えてゆくわけです。彼らにはゲーム音楽のサウンドが、子守唄かというくらい、身体や記憶に染み付いている。その親和性を映画を作る側も狙ったのかな?同じ時期に制作してたはずのマイケル・ジャクソンの『キャプテンEO』に収録された「ウィ・アー・ヒア・トゥ・チェンジ・ザ・ワールド」とかもこの感じなんですよね。ともかく、「ヒット曲」「ヒット映画」「新世代のポップ・アイコン」、すべてが組み合わさったビジネスとして完璧なタイミングで。ただいきなり白羽の矢を刺されたシンディ・ローパーは、戸惑ってしまった感がありますね。
―― 「グーニーズはグッド・イナフ」は昔から謎があるんです。『シーズ・ソー・アンユージュアル』(’84年)で「デビュー・アルバムから4曲のトップ5ヒットを放った史上初の女性アーティスト」となった人気絶頂のシンディ・ローパーの待望の新曲で話題の映画主題歌として発表された割には、全米最高10位(’85年7月13日付)とチャートではあまり振るわず、この年の年間チャート100位にも入らなかった。片や『ライク・ア・ヴァージン』(’84年)で天下を獲ったマドンナの新曲、映画『ビジョン・クエスト 青春の懸け』の主題歌「クレイジー・フォー・ユー」は、あの「ウィー・アー・ザ・ワールド」を蹴落とし見事全米1位(’85年5月11日付)に輝き年間でも9位となりました。
西寺 いいですね。安川さんのブレることのないチャートからの歴史検証。好きです。でもこれはもしかして僕の著書『ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い』を意識した誘導回答ですか(笑)? 結局、80年代音楽ラヴァーのふたりで話すとその話になる(笑)。「ウィ・アー・ザ・ワールド」で本当に美味しいところを持っていったのはやっぱりシンディだったと思うんですよ。派手なビジュアル、抜群の存在感。それからやっぱり根っこのミュージシャンとしての真面目さ。錚々たる面々の中でフレッシュな新人感を放ちつつ、彼女には長い下積みで培ったキャリアもあったので。
USA for Africa 「We Are The World」 1985
一方で彼女はその直前までは、はっちゃけた、自由奔放な女の子のイメージをある種の売りにしていた。「シー・バップ」なんて女性のマスターべーションを歌った歌だったわけでしょ。僕が彼女を初めて知ったのは小5の運動会で最初の準備運動のダンスする曲として。でも英語わかる人は「え? 自慰の歌で子供が踊ってる!」(笑)ってびっくりしたんじゃないですかね?
―― びっくりしたでしょうね(笑)。
西寺 ただ、女性の自由って意味で深い意味がある姿勢ですけどね。そういう感じで登場した新人歌手が、‘85年4月に「ウィ・アー・ザ・ワールド」のミュージックビデオが大量にオンエアされた、その時にはスーパースターたちと肩を並べる「お茶の間」アーティストになってしまったわけで。その直後、まさに翌月にアドベンチャー映画『グーニーズ』主題歌が来た、と。売れる予感しかないですよね。あの!シンディ・ローパーの!新曲が!みたいな。でも新曲は日本でいうと『ドラえもん』とか『ちびまる子ちゃん』の主題歌を歌います!って感じですかね。
―― その感覚に近いかもしれませんね。
西寺 今でこそアニメの主題歌を歌うことは一種のブランドかもしれないけれど、当時のシンディを支持していたアメリカのティーンにしてみたら、えーっ、何でシンディが子供映画の曲を歌うのぉーて感じだったのかもな、と。「ウィ・アー・ザ・ワールド」を含め、親世代、アメリカ芸能界から彼女はいきなり愛されすぎた、というか。だから’85年夏は、若者の一般リスナーにとって「シンディ・ローパーを聴くこと」がクールじゃなくなった境だったと僕は思っているんです。デビューからわずか1年半のことですが。もちろん本質を見抜いた熱心なファンはしっかり残りましたが。
- オリジナル・サウンドトラック
『グーニーズ』
(1985年)
SONY MUSIC
―― ヒットチャートを形成しているのは昔も今もティーンエイジャーですからね。ファッションは敏感だけどゲームはやらないような女性ティーンネイジャーからみたらサウンド的にも違和感があったと?
西寺 そうだったかもしれません。もうひとつ「グーニーズはグッド・イナフ」が子供っぽいと思われてしまったとするならば、その原因は原題のタイトル表記にもあるのかな?と。「The Goonies ‘R’ Good Enough」の「 ‘R’」に、トイザらスのイメージを重ねた気がするんですよ。日本でも「トイザらス」って「ら」だけひらがなですよね、あの感じ(笑)。プリンスも「2」「U」「R」は使っていましたけどね。でも映画側とシンディはこのことでぶつかっているんですよね、安川さん?
―― あ、それはシンディ・ローパー『ジャパニーズ・シングル・コレクション』のライナーを書かせてもらった僕への逆誘導質問ですか(笑)? 元々「Good Enough」っていうタイトルだったのに、ワーナーブラザーズから「The Goonies ‘R’ Good Enough」にしてくれと頼まれて押し切られたらしいんです。「歌のタイトルを台無しにされたからすごく頭に来て何年も歌うことを拒絶したわ。やっと歌いだしたのは2010年代に入ってからのことよ」って『トゥルー・カラーズ シンディ・ローパー自伝』(白夜書房)のなかで言ってます。
西寺 そういうふうに自伝で書けることも含めて、シンディー・ローパーほど、幸せというか、真っ当で美しくて、正しくて、オーバーグラウンドで、かつ、アンダーグラウンドの旨味もあるっていうことで全てを手に入れたミュージシャンは僕はいないと思っていますね。正しいだけで、マイナーな人ってじつはいっぱいいるんだけど、シンディの場合はそうじゃなくて、やっぱり彼女はメジャーなんです。だからこそ自分の発言力もわかっているし、わかっているからこそときに勇気を持って発信する。
Cyndi Lauper「Girls Just Have To Fun」1983
―― 「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」だって女性賛歌の先がけでしたよね。
西寺 もちろん男性もですけど、女性だって、異性や同性、含め誰かに好かれるために生きなくてもいいよね。って。Girls Juts Want To Have Funでいいじゃんて本気で思うようになって。それをだいぶ前、今から35年前に歌っていたのがシンディ・ローパーだったんだなって。
佐々木 「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」って、もともとは思いっきり男性目線の、ある意味女性蔑視ソングだったって知ってますか??
西寺 (シンディ・ローパー担当ディレクター)佐々木さんが会話に入ってきた!
佐々木 女性を家に連れ帰った男性が、父親に「俺たち(男)って幸運だよね、だって女の子たちの方だって楽しみたいんだから」って言うんです、ロバート・ハザードのオリジナルは。シンディはプロデューサーのリック・チャートフに「君にこの歌は合うと思う」って言われて、「こんなクソ歌、絶対歌わないわ!」って。「これはきみが歌うと特別な歌になると思う」ってリックが食い下がり、だったら、「ママ、私たちって不幸だよね(女の子だって自由に楽しみたいのよ!)」ってシンディが歌詞を変えて完全に立場を変えたんです。「これでマジックが生まれる」ってレコーディングして、本当にデビュー特大ヒットのマジックが誕生したんです。
- シンディ・ローパー
『シーズ・ソー・アンユージュアル』
(1984年)
SONY MUSIC
―― いい話です。ところで佐々木さんの大先輩にあたる当時の日本担当ディレクターはどうして「ダンステリア」にこだわったんですかね。当初のシングル邦題は「ハイスクールはダンステリア」、アルバムは『N.Y.ダンステリア』。僕はダンスではなくロックだと思っているんですけどね。
佐々木 先日BS-TBS『SONG TO SOUL~永遠の一曲~』で「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」特集がオンエアされたんですけど、シンディとともにこの曲のアレンジを行ったフーターズのエリック・バジリアンとかロブ・ハイマンのインタビューも放送されました。シンディはフーターズのメンバーに、「あなた、ギターの音量上げすぎ。私たちはロックじゃなくダンス・レコードを作ってるのよ!」って言ってるんです。だから「ハイスクール」はヨコに置いといて(苦笑)、「ダンステリア」はあながち的外れではないんですよね。
西寺 あ、それは面白いですね。彼女のなかにはデビュー時からの明確なアーティスト・イメージがあったということ。シンディ・ローパーの見ている世界っていうのは近年『キンキーブーツ』のミュージカル音楽を手がけていることからもわかるように、多角的な視点からきているんでしょうね。メジャー・デビュー前にブルー・エンジェルというバンドのヴォーカルも経験しているからバンドマンの気持ちも誰よりもわかっているからこそ、フーターズが参加する意味もわかっていたはず。常に自分に正直なところは同じミュージシャンとして見習いたいところですね。でもやっぱり彼女はスゴイですよ。安川さんもライナーに書かれていたけど、2011年3月11日の東日本大地震での彼女の行動は忘れられませんよね。
- 『トゥルー・カラーズ シンディ・ローパー自伝』
白夜書房
―― ジャパン・ツアーのための来日でしたね。彼女の乗った飛行機は地震閉鎖のため成田空港に降りられず、横田基地に緊急着陸。他の来日アーティストが止むを得ない事情で日本公演を中止したり、来日キャンセルが続くなか、シンディも同様に周囲から帰国するように勧められていたんです。シンディの息子はまだ幼かったため、すぐにでもアメリカへ戻り、家族を安心させたいという思いもあったはす。でも彼女は予定通りコンサートを敢行しました。
西寺 僕も行きました。渋谷の街が真っ暗で。ディストピアというか。すべてが崩壊した映画のような世界というか。オーチャードホールもいつもより人が少ない。でも彼女は日の丸を背負ってくれてステージで歌っていましたね。地震で、津波で、原子力発電所が大変なことになってる。あのトラブルって、嘘やろっていうくらい、日本人ですら動揺して。あの時に、なんでもいいから東京から逃げろ、関東とか東北から離れた方がいいっていう助言も実際にあって。答えがわからない状況の時に、たまたま来日していたシンディは、メンバーに頭を下げてまで、真っ暗な渋谷でライヴをした。あれってなかなかできないと思うんですよ。だって何が起こるかわからなかったんだから。
- シンディ・ローパー
『トゥルー・カラーズ』
(1986年)
SONY MUSIC
―― シンディは‘86年9月の初来日公演の時に、発表したばかりの新曲「トゥルー・カラーズ」を日本のお客さんが一緒に英語で歌ってくれたことを大切な想い出にしていたんです。だから「あの時、日本の人たちが私に歌ってくれた〈トゥルー・カラーズ〉は力強かった。もし私がここで日本から立ち去ってしまったとしたらほんとのところ〈トゥルー・カラーズ〉はいったい何を意味したというの? あのとき日本が私に心を開いてくれていたというのに? だから私が日本にとどまって80〜90分パフォーマンスをすることで元気を出してもらいたかった」って。
西寺 あれだけ困っている人がいるときに、怯えて動揺してる人がいるときに、私にできることはこれしかないってステージに立つというのは並大抵の決心じゃないですよ。メンバーだってクルーだって帰りたくてしょうがなかったと思うんですよ。でも彼ら、彼女らがシンディ・ローパーっていう人が好きで、心酔し、惚れているスタッフやミュージシャンだったからこそ、それもなし得たというかね。あの時にシンディが真っ暗な中でやってくれた姿勢のすべてに、僕はシンディ・ローパーっていうアーティストの真髄があると、そう思ってるんです。日本のファンにとっても、彼女は特別ですよね。まもなく来日でしたっけ。安川さん一緒に観に行きましょう!
―― 是非!
西寺 でも横でチャート情報は言わなくていいですからね(笑)。
―― ヒット曲が多いからチャートファン的にはよだれが出そうなんですけど。
西寺 我慢してください(笑)。やっぱり僕は佐々木さんと観ます(笑)!
聞き手/安川達也(otonano編集部)
2019年10月8日~25日
シンディ・ローパー ~デビュー35周年 Anniversary Tour~
- CYNDI LAUPER「The Goonies ‘R’ Good Enough」
Release:June 6,1985
Songwriter:Cyndi Lauper, Stephen Broughton Lunt, Arthur Stead
Producer:Cyndi Lauper, Lennie Petze
Label:Portrait
伝説の海賊が隠した財宝を探す少年たちのアドベンチャーを描いた大ヒット映画『グーニーズ』(’85年度興収全米年間9位)の主題歌。1stアルバム『シーズ・ソー・アンユージュアル』の大成功を受けた人気絶頂のなかで発表されたのシングルとしても注目され、’85年7月13日付け全米10位を記録した。お馴染みのシンディ・ファミリーと、グーニーズのメンバー総出演となった7分のMVは短編としても楽しめる。日本では’86年度のお正月作品として公開され『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と2大洋画としてスクリーンを賑わせた(’86年度国内年間4位)。主題歌は「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」に次いで売れたドーナツ盤となり、約5万枚のセールスをマークしている。