DJ OSSHY TOKYOの未来に恋してる!
安心・安全・健康的なディスコ・カルチャーを伝達することを使命とするDJ OSSHYのインタビュー連載
第37回【対談⑨ 荻野目洋子 × DJ OSSHY[後編]】
令和の時代に入ったディスコ・シーンのなかで、「ダンシング・ヒーロー」は、「Y.M.C.A.」と並ぶ、世代を超えたディスコ・ヒットです(DJ OSSHY)
そこまでですか(笑)! でも、うれしいです。10代の頃はまさかこうなるとは思っていませんでしたので。32年が経った今も楽しんでもらえているというのは歌い手冥利に尽きますね(荻野目洋子)
([[前編]からの続き)
DJ OSSHY 今日は個人的に、ぜひ、荻野目さんに聞いておきたかったことがありまして。’88年に発表された9枚目のオリジナル・アルバム『VERGE OF LOVE』。これはナラダ・マイケル・ウォルデンがプロデュースしています。当時のナラダと言えば、ホイットニー・ヒューストンの『ホイットニーII〜すてきなSomebody』でグラミー賞最優秀プロデューサー賞に、アレサ・フランクリンがジョージ・マイケルとデュエットした「愛のおとずれ」で最優秀R&Bパフォーマンス賞に輝くなど、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでした。私も大好きなプロデューサーですが、ナラダとのレコーディングはどのように行われたんですか?
荻野目洋子
『VERGE OF LOVE(English Version)[+2]』
(1988年12月発表)
荻野目洋子 まさにそのホイットニーの作品でグラミー賞に選ばれた直後のレコーディングだったんです。そのタイミングでは世界一のプロデューサーと言って過言ではないわけで、すごく光栄なことでした。ナラダさんのサンフランシスコのスタジオに着いたときは足がすくむほど緊張しましたが(笑)。スタジオにはゴールドディスクがずらりと飾ってあって、ここで数々の名曲、名作が生まれたんだと思いました。楽曲はすでに出来上がっていたんですが、スタジオに入ったタイミングからアルバム10曲の歌詞、それもすべて英語詞のものをおぼえることからスタートしたんです。ですので、まったく余裕がなく、とにかくすぐおぼえて、すぐに歌えるようにしなくてはいけなかった。さらには伝えていた自分の声のキーよりもさらにレンジが広いアレンジになっていて、歌えるかな……と不安になったんですが、来てしまったからにはもう後には引けない。ものすごいプレッシャーでしたが、ナラダさんご自身はすごく心が広く、やさしいジェントルマンで、常にリラックスさせてくれました。
DJ OSSHY レコーディングのスタイルも日本とは違うと思いますが、いかがでしたか?
荻野目洋子 それまでのレコーディングとはまったく違いましたね。スタッフの方たちが夜な夜な集まって、こうしたらいいんじゃないか、ああしたらいいんじゃないか、と侃々諤々に意見が飛び交って、スタジオ内はタバコの煙でもくもくというのが日本での光景。険悪とまでは言い過ぎかもしれませんが緊張感は常にありましたね。でも、それは私のレコーディング現場だけではなく、当時はそれが当たり前だったんですよね。ヒットを生むにはどうしたらいいんだ! という真剣な戦いの場みたいな雰囲気でしたね。でも、ナラダさんのレコーディング現場はものすごいやさしい空気感の中で進んでいきました。ろうそくを灯して気分と集中力を高めて、さあ歌っていいよというような。ナラダさんは口にはしていませんでしたが、いい音楽を作るには、いい精神状態じゃないと生まれないんだということを彼の背中から伝えてくれたような気がします。
DJ OSSHY 180度違ってましたね(笑)。
荻野目洋子 ほんとに(笑)。スタッフの方々もすごくやさしくて、ウェルカム・パーティーも開いてくれたんです。スタジオにいる人たちはひとつのファミリーなんだというような感じでしたね。それからレコーディングに入る前に仮歌が入った音源をいただいたんですが、その仮ヴォーカルがすばらしくて、そこでも自信を失いそうになったんです。まだ名が知られていないシンガーの方が完璧な歌を聴かせる。パワフルで情感がこもっていて。自分の歌声の未熟さに気付かされ、途方に暮れました。でも、そんなことも含めて、10代の終わりの私にとって得難い大きな経験となったと思うんです。世界を代表するプロデューサーが私ひとりのために時間を使ってレコーディングしてくれるなんて、どれだけ恵まれているんだという話ですから。
荻野目洋子
『ノン・ストッパー[+10]』
(1986年12月発表)
DJ OSSHY アーティストとして大きな成長をもたらしてくれたアルバムになったんですね。実際には’86年12月にリリースされた6枚目のオリジナル・アルバムで、翌‘87年度のオリコン年間1位となった『NON-STOPPER』以降、本当にお忙しい日々を過ごしたんじゃないですか?
荻野目洋子 当時は音楽以外にもTVのドラマのお仕事もいただいたりして、スケジュールがずっとパンパンで、なんとか毎日こなしているという状況でした。アイドルがドラマに出るのは当たり前という流れだったんですよね。こっちは演技の勉強は何もしていませんが……というような有り様だったのですが。本当に80年代は脇目も振らずに突っ走って終わった印象があります。自分が今どこにいるのかもわからないままに。
DJ OSSHY そうして平成を迎えて、前半くらいまではご活躍が続いて、それから育児に専念されて、そして本格的に復帰と、本当にすごい。
荻野目洋子 いえいえ、私からするとOSSHYさんの方がすごい。ずっとDJを続けられているんですよね。
DJ OSSHY はい、今38年目になります。
荻野目洋子 すごい! ひとつのことをやり続けている方こそ尊敬します、私は。時代がこんなにも変わり続ける中で、ご苦労もいっぱいあったんじゃないですか? ディスコ・ブームじゃなかった時もあったわけですし。
DJ OSSHY 苦労はありましたね。ディスコにとっての90年代は暗黒の時代でした。平成に入ってから、ディスコは死語であり、ダサい存在になってしまいましたので。ディスコからクラブになり、ミラーボールも小さくなった。きらびやかだった店内の照明もなくなって、ほぼ真っ暗闇に。お立ち台、VIPルーム、バースデーコール、チークタイム、リクエストカードといったディスコ発の文化は消えてしまったんです。DJもMCを入れなくなり、ただ淡々と曲を繋いでいくだけになりました。お客さんも踊る目的だけじゃなく、お酒を飲んだり、音楽の情報を取りにきたりと様変わりしたんです。
荻野目洋子 OSSHYさんにとっては逆風の時代だったんですね。
DJ OSSHY そのときはうまく転身しまして、R&Bやヒップホップを始めとするブラックミュージック専門のDJになり、東京から横浜に拠点を移したんです。いわばどんな音楽も揃っていた百貨店とも言うべきディスコから、専門店的なクラブに転職したようなかたちでしたね。
荻野目洋子 ディスコが再び注目されるようになったのはいつ頃なんですか?
DJ OSSHY 2000年くらいからでしょうか。みんな一緒に踊ろうよ、ハッピーな空間を作ろうよというような空気感が再び生まれてきて、80′sディスコ・ムーヴメントを再び盛り上げるための活動をスタートさせたんです。 ミニスカートからロング、またミニが流行るというようなサイクルに似ていますよね。ディスコの流行り廃りは。
荻野目洋子 なるほど、まさにそんな流れだったんですね。音楽はファッションと同じように流行が繰り返されるとよく聞いていました、15年周期くらいで。でも、「ダンシング・ヒーロー」は32年くらい経って、思いもよらないかたちで最注目されました。リリースから15年後は、まったくそんな気配はなかったのに(笑)。でも、だいたい2周期くらいだから、言われていたことは正しいですね。
DJ OSSHY 「ダンシング・ヒーロー」のリバイバルによって、歌ってほしいというオファーが続々と届いていそうですね。
荻野目洋子 ありがたいことで、お話はたくさんいただきます。年代問わず、たくさんの人たちに親しんでいただいていますので、大事に大事にいつでも歌わせていただきます。また、デビュー当時からのファンの方々が、当時はレコードで聴いていただいていたんでしょうが、今再びCDで買い直してくれているそうなんです。懐かしいな、もういちど聴いてみようかなと思っていただいて。そういう長くから応援してくださっていた方たちと会える機会、同窓会ではないですけど、そういうライヴができるのは長くやってきたからこそであり、本当にうれしいことですね。
DJ OSSHY まさに年代問わず、というのはディスコも同じなんですよね。令和の時代に入ったディスコ・シーンは、老若男女がひとつの曲を楽しめる。まさに「ダンシング・ヒーロー」は、そんな代表的な1曲。若者のカルチャーだったディスコが、その盛り上げていた若者たちが歳を重ねて、お子さん、お孫さんまでできて、三世代が同じ曲で踊っている光景を目の当たりにしているんです。そんな楽しい機会をこれからも作っていくというのが、自分なりの令和のステップというか、そう位置づけているんです。その上で、「ダンシング・ヒーロー」は象徴的な曲なんですよ。「Y.M.C.A.」と並ぶ、世代を超えたディスコ・ヒットです。
荻野目洋子 そこまでですか(笑)! でも、うれしいです。10代の頃はまさかこうなるとは思っていませんでしたので。32年が経った今も楽しんでもらえているというのは歌い手冥利に尽きますね。今はお年を召した方もみなさんパワーがありますよね。ダンスもお好きですし。三世代、四世代でディスコを楽しむ方たちはどんどん増えていきそうですね。
DJ OSSHY そのためにも荻野目さんには今の健康をキープしていただいて、現場の第一線で色々な曲で色々な世代を引き続き楽しませてくれることを願っています。
荻野目洋子 はい、ぜひがんばりたいと思います。でも、自分のやりたいことだけをやっていてはだめなんですよね。今、OSSHYさんがおっしゃったようなあらゆる世代がディスコを楽しむ時代になったということをリアルに想像ができて、その光景をイメージしながら歌っていかないといけない。楽曲作りも同じで。
DJ OSSHY 9月14日から始まる「YOKO OGINOME LIVE TOUR 2019 ~キラー通りで逢いましょう~」でも、そんな荻野目さんの気持ちがこもった歌声をじっくりと聴くことができそうですね。ステージを楽しみにしています。本日はありがとうございました!
荻野目洋子 OSSHYさんも、お時間があったら遊びに来てください。初日はモーションブルー横浜です。よろしくお願いします。 [終わり]
対談進行・文/油納将志 写真/島田香
- ●荻野目洋子(おぎのめ・ようこ)
- 堀越高校1年の春、歌手としてデビュー。17歳の秋にリリースした7枚目のシングル「ダンシング・ヒーロー(Eat You Up)」で初のベストテン入り。 ‘86年にはアルバム『ノンストッパー』でオリコン年間売上1位(‘87年度)を取り、一方では映画やドラマ、CMにも多数出演。現在はプロテニス・プレーヤーの辻野隆三と結婚し三姉妹に囲まれ、にぎやかな家庭を築く。
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DJ OSSHY 出演スケジュール
9月13日(金) | 【東京都・恵比寿】RADIO DISCO NIGHT vol.2 @ dining & bar KITSUNE |
9月14日(土) | InterFM897「RADIO DISCO」15:00~18:00 生放送 |
9月15日(日) | 【愛知県・名古屋市】高齢者ディスコ ※一般の方のご入場はできません。ご了承くださいませ。 |
9月19日(木) | BSフジ「DJ OSSHY DISCO TV」23:30~23:55 |
9月20日(金) | 【東京都・六本木】ナバーナマンスリーパーティー @ エスプリ東京 |
9月21日(土) | InterFM897「RADIO DISCO」15:00~18:00 生放送 |
9月28日(土) | InterFM897「RADIO DISCO」15:00~18:00 生放送 |
9月28日(土) | 【神奈川県・横浜市】8th Anniversary Party @ DISCO Groovy |
9月29日(日) | 【東京都・西麻布】サンデーディスコ @ 西麻布エーライフ |
イベントは変更になることもございます。 詳しくはDJ OSSHY公式サイト(www.osshy.com) をご参考ください。