DJ OSSHY TOKYOの未来に恋してる!
安心・安全・健康的なディスコ・カルチャーを伝達することを使命とするDJ OSSHYのインタビュー連載
第28回【対談⑤ 横山剣(CRAZY KEN BAND)×DJ OSSHY[前編]】
── DJ OSSHYの連載「TOKYOの未来に恋してる!」対談シリーズ。5人目のゲストは2018年にデビュー20周年を迎えたクレイジーケンバンド(CKB)の横山剣さんです! CKBといえば誰もが認める“レペゼン横浜”の筆頭。一方のOSSHYさんもFMヨコハマで、長くラジオ番組の制作に携わっておられましたね。
DJ OSSHY はい。東京生まれの僕にとって、横浜はずっと憧れの街なんですよ。社会に出てからは、横浜のラジオ局で働いて。今では第二の故郷だと思ってます。剣さんはその土地が生んだスター、いわば“ヌシ”みたいな方ですから。
横山剣 いえいえいえ(笑)。
DJ OSSHY 僕からするともう大リスペクト。憧れのアーティストです。もう5年くらい前かな、僕がMCをしている『Disco Train』(TOKYO MX)にもゲストに来ていただいて。はじめてお話ししたときはもうドキドキでした。
横山剣 あれは楽しかったですね。ナビゲーターが早見優ちゃんで。あと、最近は富士スピードウェイで、IKURAくん主催の「AMEFES 2018」で遭遇しましたね。
DJ OSSHY はい。「AMEFES」では毎年お世話になってます(笑)。そうやって現場ではちょくちょくお目に掛かってるんですよね。本当はFMヨコハマの在職時に接点を持ちたかったんですが、残念ながらそれはできなかった。僕が退職した後、剣さんが番組を始められたんですよね。
横山剣 微妙にタイミングがずれちゃった(笑)。
DJ OSSHY FMヨコハマ在職時、僕はとにかく洋楽やブラック・ミュージックのヒットチューンががんがん流れるラジオ局にしたくて。編成部員として、孤軍奮闘してたんです(笑)。それもあって邦楽を選曲する機会は少なかったんですけど、もちろんCKBの音楽は聴いてましたし、作家としてのセンスはもちろん、とにかく剣さんの声と歌が大好きで。今日はご一緒できて本当に光栄だなと。
横山剣 こちらこそ、ありがとうございます。
── 剣さんも、直接知り合う前からOSSHYさんの活動には注目を?
横山剣 そうですね。OSSHYさん選曲のコンピレーションCDやイベントの存在も知ってましたし。そこでかかる曲が、ディスコやソウル・ミュージックを経験していない世代にとっても絶好の入り口になっている。あとは僕らの子供世代のためにディスコ教室的なイベントも開かれていたり。そうやってディスコの間口を広げてくれている方というイメージですね。ルーツの継承といいますか。
DJ OSSHY そんなふうに言っていただけると、嬉しすぎます……。
横山剣 新しい音楽を使い捨てていくんじゃなく、一つの文化遺産としてちゃんと伝えていく。それって重要だし、僕らにとってはとっても嬉しいことなので。
── 今回はそんなお二人に、往年の横浜ディスコ・カルチャーについて振り返っていただければと思います。OSSHYさんは、最初に横浜方面のディスコに“遠征”したのはいつ頃でしたか?
DJ OSSHY おそらく十代の最後くらいじゃなかったかな。僕は1982年、17歳のときに渋谷の「キャンディ・キャンディ」というディスコでDJをはじめたんですね。当時はいわゆる“丘サーファー”全盛期で(笑)。外国のお客さんはそんなにいなかった。そのちょっと後、友だちに連れられて山下町の「CIRCUS」というお店にはじめて遊びにいったんですけれど……それが僕にとっては、衝撃体験で。
横山剣 はははは。「CIRCUS」ね。けっこう衝撃でしたか?
DJ OSSHY 半端じゃないカルチャー・ショックを受けました。というのも店内の半分以上、もしかしたら7割ぐらいが黒人のお客さんなんですよ。
横山剣 80年代の半ばだとそんな感じですよね。横須賀に配属された海兵隊員が、週末になるとバーッと横浜に繰り出してくるという。
DJ OSSHY ええ。まさにその中心が「CIRCUS」でした。1000人くらい入れる大箱が満員御礼。ちょうどニュー・ジャック・スウィングとかブラコンと呼ばれる音楽がものすごく流行りだした頃で……。ロックみたいな白人系の音楽はまったくかからない。オール・ブラック・ミュージック。
横山剣 そうですよね。
DJ OSSHY 楽しそうに踊りまくっている黒人のお客さんを見て、ふと「ここってもしかして外国なのか!?」と思ったり。
横山剣 かなり独特というか、異様な雰囲気がありましたよね。照明が落ちると、暗闇のなかで彼らの目と歯がギラッと光ったりして(笑)。
DJ OSSHY そういう東京のディスコとまったく異なるカルチャーに、僕は完全に魅せられちゃったんですね。時期的にもちょうど、ブラック・コンテンポラリーがヒップホップと密接に連動していく過渡期で。すごく刺激的だった。それで東京でDJをしながら頻繁に「CIRCUS」に通い詰め、フロアの先輩DJやスタッフの方々にだんだん繋がりができていって……。
── 1989年にはOSSHYさん自身も、「CIRCUS」でDJをスタートさせたと。
DJ OSSHY はい。最初は東京から通ってたんですが、どうしても横浜に住みたい思いが強くなって。FMヨコハマに中途採用で入り、ラジオ番組を作りながらDJを続けていたという流れです。剣さんは「CIRCUS」は?
横山剣 ええ、もちろん(笑)。
DJ OSSHY あ、やっぱり行かれてましたか!
横山剣 そうですね。友達があそこで、踊りあり、クイズあり、ボクシングありの貸切パーティを開いたりして(笑)。あと、ちょうど1988年くらいですけど、DJのアイク・ネルソンと僕とCKBのバンマスの廣石(惠一)さんとで「E.R.D.」というバンドを組んでいて。彼に連れてってもらったこともありました。
DJ OSSHY へえええ! アイク、僕も古くからの友だちです。
横山剣 当時、彼はそれこそFMヨコハマで『サントリー・ソウルブラザー』という番組のナビゲーターをしてたんですね。「E.R.D.」ではギターとターンテーブルとラップ担当。超多才でしたけど、1年ぐらいでやめちゃった(笑)。
DJ OSSHY あははは。
横山剣 アイクさんからも「CIRCUS」話はよく聞いてました。ただ、僕にはやや敷居が高い感じもあって……。外国人が多いだけじゃなく、日本人の客層もわりと常連っぽくて。みんなステップとか覚えてるじゃないですか。「ソウルシーシー」とか「ハマチャチャ」とか。だから気後れしちゃって(笑)。
── 「ハマチャチャ」というのは、横浜独自のステップなんですか?
横山剣 はい。亡くなった小山(成光)さんという方が60年代終わりに、R&Bに合わせてチャチャを踊っていた黒人兵のステップから考えたらしくて。「ソウルシーシー」と近いんだけど、ちょっとアレンジがきいている。
DJ OSSHY そういうオリジナルのステップが発達したくらい、横浜のディスコ・カルチャーは独特だったと。いずれにせよ80年代の「CIRCUS」ではニアミスしていた可能性も高いですね。でも剣さんは、そのずっと前から、いろんなディスコに行かれてたんじゃないですか?
横山剣 そうですねえ。最初は中3だったので……1975年くらいかな。
DJ OSSHY さすが横浜の大先輩、デビューが早い(笑)。日本のディスコ元年は1974年と言われているので、ほとんどオリジナル世代じゃないですか。
横山剣 いえいえいえ(笑)。本格的に通うようになったのは、その2年後。17歳くらいからですか。横浜駅西口にあった「パープルフィッシュ」というお店とか、同じく西口の「SOUL TRAIN」とか。「SOUL TRAIN」はたしか、渋谷にも同じ系列店があったんじゃないかな?
DJ OSSHY ありました、ありました。
横山剣 そういうお店を覗いては、オトナの仲間入り、みたいな(笑)。
DJ OSSHY 「CIRCUS」の前身にあたる山下町「La Moon」とか、本牧にあった伝説のお店「LINDY」などはいかがですか?
横山剣 ああ、懐かしいですねえ、「LINDY」。ファンキーのメッカ。それこそ10代の頃、背伸びして通ってました。あと、今も本牧に「横浜ロイヤルホテル」というのがあるでしょう。屋上に自由の女神像が立ってるところ。
DJ OSSHY ええ。あります、あります。
横山剣 昔あそこの地下に、「ラヴ・マシーン」というお店があったんですよ。10代の僕にとってはちょっと怖いというか、そこと「LINDY」はオトナの怪しさを感じさせる場所で。女性同伴じゃないと入れてくれないんです。
DJ OSSHY そういうルール、昔はあったみたいですね。
横山剣 何度も通って顔パスになろうと思うと、それなりに時間がかかる。だからお店に潜り込むために、先輩の女性に「入店したら別行動でいいから」と頼んで、カップルのふりをしてもらったり。
DJ OSSHY はははは。その「ラヴ・マシーン」もけっこう古かったですか?
横山剣 古いですねえ。やっぱり70年代ですけど、わりと短期間でなくなっちゃたんじゃないかな。雰囲気もディープで、とにかく店内が真っ暗なんです。ほとんど漆黒の世界(笑)。同世代でもほとんど誰も知らないレアな店でした。あ、でも、IKURAくんは「ラヴ・マシーン」に通ってたみたいで……。
DJ OSSHY それは思いがけない繋がりだ!
横山剣 ずっと後になって発覚し、二人で盛り上がりました。あとは元町にあった「ASTRO」。ここはユーミンも遊びにきたというお店ですね。それから、これは80年代に入って以降だと思うけど、桜木町の「インフィニティ」と。でもいちばん思い出深いのはやっぱり「LINDY」かな。
DJ OSSHY ああ、やっぱりそうなんだ。いいなあ。
横山剣 十代の頃、その斜め前のガソリンスタンド(奥村石油)で働いてたんで。仕事の後よく行ってました。「ラヴ・マシーン」と同じで、ここも店内が暗いんですよ。狭い店内には、トロエンのクラシックカーが置いてあって。それが改造されたDJ用ブースになっていました。大きな黒人が、身体を縮めながらレコードをかけていた光景をよく覚えてますね。
DJ OSSHY 当時「LINDY」には、日本人DJもおられました?
横山剣 有名な人がいましたが、名前が思い出せません。基本は黒人のDJが多かった気がしますね。マーヴィン、アイク、あとはフィリピン人。どちらも基地関係の人だったのかな。
DJ OSSHY ぶっちゃけ、今に比べて荒っぽい雰囲気もあったでしょう?
横山剣 まあ、あったかな。こっちはただ、生きてるだけなのに、暗闇でいきなり殴られたりとか(笑)。表にはよくパトカーもよく停まってましたし。
DJ OSSHY そりゃまたハードですね(笑)。でも、それってディスコがいちばん熱かった時代というか……。僕は70年代の横浜のお店には、まったく行ったことがないので。当時の空気を身体で経験している剣さんが羨ましい。
横山剣 僕なんか逆に、「CIRCUS」は敷居が高くて常連にはなれなかったので。そこのDJをされていたOSSHYさんがすごいなって思いますよ。あと、僕は東京の高校に通っていたので、渋谷のディスコにもわりと行ってたんですよね。それこそ「SOUL TRAIN」とか、宇田川町のビルにあった「BLACK SHEEP」とか。
DJ OSSHY ああ、そうだったんですか。
横山剣 18とか19歳になると、今度は六本木スクエアビルにあった「ネペンタ」だったり、ロアビル最上階の「ボビー&マギー」だったり。東京は東京で、可愛い女の子が多かったですからね。ムスクのいい香りをさせて、「ファーラー」というサーファー御用達ブランドのフレアパンツをはいて……。
DJ OSSHY あ、エンジェルフライト。通称エンフラですね!
横山剣 ええ。横浜にはあまり、そういう女の子はいなかった。いても黒人の方がモテるので、僕なんかは相手にしてもらえない(笑)。当時、僕はクールス関係の仕事をはじめてまして。東京と横浜を行ったり来たりしてたんです。だから2つの街のハイブリッドというか。両方のいいとこ取りをしてるところがありました。
DJ OSSHY監修・選曲『ディスコ・ラヴァーズ』
「ソウル・ドラキュラ」(ホット・ブラッド)ほか全108曲収録
── 横浜と東京のディスコでは、客層だけでなく選曲も違っていたんですか?
横山剣 そうですね。70年代の半ばから、それまでは黒人音楽一辺倒だったのが、ヨーロッパ系のディスコ音楽が流行りだすでしょう。例えば「ソウルドラキュラ」みたいな得体の知れない曲だったり。
DJ OSSHY はい。ホット・ブラッドの「ソウルドラキュラ」が大ヒットしたのが、1976年。そこから80年くらいにかけて、俗に“ミュンヘン・ディスコ”といわれるユーロ系のムーブメントがわっと盛り上がります。
横山剣 ドイツのシルバー・コンベンションみたいな女性グループとか、けっこう好きだったんですけど。ああいうのは東京のディスコではがんがん流れてるのに、横浜ではかかんないんですよ。
DJ OSSHY ああ、なるほど。
横山剣 それどころかお店によっては、リクエストすると怒られるという(笑)。「もっとファンキーな曲じゃなきゃダメだ!」って。
DJ OSSHY そう、横浜はやっぱりファンク。基本がJB(ジェームス・ブラウン)なんですよね(笑)。ユーロ系はあまり好まれない。僕が通いはじめた80年代半ば以降でも、白人系のダンス・ミュージックをメインでかける店は「MAHARAJA」ぐらいしかなかった気がします。時代はやや下りますが、90年代の半ばくらいに、東京の仲間が「FIRE」というクラブ系の大バコを作ったんです。
横山剣 新山下の「FIRE」……看板は記憶にありますね。ひょっとして「ドン・キホーテ」になってる場所の斜め前くらいじゃないですか?
DJ OSSHY そうそう、そのあたりです。で、要はハウス系というか、4つ打ちのサウンドをかけたんですけど、けっこう短命に終わりました。
横山剣 続かなかったんですね。
DJ OSSHY ちょうどその時期、僕は元町の「LOGOS」というお店でチーフDJをやってまして。当時ものすごく流行っていたR&B、ヒップホップをガンガンかけて大盛況だったんです。一方で「FIRE」は白人系のダンス・ミュージックをかけて、数年で潰れてしまったので。そういう横浜特有のカラーというか、土地柄みたいなものはまじまじと感じましたね。
横山剣 やっぱりブラック・ミュージックが強い。
DJ OSSHY ええ、本当に。ソウル、ファンク、ヒップホップ。レゲエも含めて、まさに黒人音楽の街って感じでした。
横山剣 ディスコに来ている客のファッションもかなり独特でしたよね。東京ではコンチネンタルが流行っていた時期でも、横浜はやっぱりブラック風で。横須賀の黒人兵たちの普段着が、遅れて横浜に伝わってくる。
DJ OSSHY なるほど! 順番的には横須賀、横浜の流れなんですね。
横山剣 当時、横浜(本牧・根岸)の米軍ハウスに住んでいた人は、わりあい白人のオフィサーが多かったと思うんですね。もちろん彼らも本牧のディスコに遊びにきてましたが、お客としては横須賀の黒人兵がだんぜんファンキーだった(笑)。真似しても似合わないんでやらなかったですけど、もし似合うんだったら俺も着たいなって。よく憧れてました。([後編に続く]
写真/島田香 インタビュー・文/大谷隆之
- 横山剣(CRAZY KEN BAND)
- クレイジーケンバンド(CKB)リーダー/作曲・編曲・作詞・Keyboards・Vocal
1960年横浜生まれ。小学校低学年の頃より脳内にメロディが鳴り出し独学でピアノを弾き作曲を始める。小学校5年生(1971年)の時、中古レコード屋の野外サウンド・システムにてマイク片手に実演販売を行う。こうしたことがキッカケとなって音楽の世界にのめり込んで行く。中学2年よりバンド活動を開始して以来、地元横浜を中心に数多くのバンドで活躍するが、'81年にクールスRCのコンポーザー兼ヴォーカルとして晴れてデビュー。以後、ダックテイルズ、ZAZOU、CK’S等のバンドを経て、‘97年春クレイジーケンバンドを発足。これを機に自分の作品に最も適したシンガーが自分である事に気付き、シンガー/ステージ・パフォーマーとしてのスキル&テクニックをも高めて行く。作曲家としては、和田アキ子、TOKIO、SMAP、一青窈、松崎しげる、グループ魂、藤井フミヤ、ジェロ、関ジャニ∞等、数多くのアーティストに楽曲提供。
CRAZY KEN BAND
『GOING TO A GO-GO』(2018年)
https://www.crazykenband.com/discography/album/album_2018.html
DJ OSSHY 出演スケジュール
12月29日(土) | 「RADIO DISCO」InterFM897 15:00~18:00 生放送 |
12月29日(土) | DJリレー2018 |
12月31日(月) | DJ OSSHY presents カウントダウン 2018-2019 @ 横浜ロイヤルパークホテル http://www.osshy.com/schedule/view/445 |
1月5日(土) | 「RADIO DISCO」InterFM897 15:00~18:00 生放送 |
1月11日(金) | ナバーナマンスリーパーティー @ エスプリトーキョー |
1月12日(土) | 「RADIO DISCO」InterFM897 15:00~18:00 生放送 |
1月15日(火) | Radio Berry「B・E・A・T」ゲスト出演 |
1月18日(金) | SUPER SKYTREE DISCO @ 東京スカイツリー |
1月19日(土) | 「RADIO DISCO」InterFM897 15:00~18:00 生放送 |
1月23日(水) | 「HAPPY DISCO 2 -Solar Night- mixed by DJ OSSHY」発売 http://www.osshy.com/schedule/view/663 |
1月25日(金) | NHKラジオ第1「ごごラジ!」(全国生放送) 月イチ!「DJ OSSHYのプレミアム・ディスコタイム」 |
1月26日(土) | 「RADIO DISCO」InterFM897 15:00~18:00 生放送 |
1月27日(日) | サンデーディスコ @ 西麻布エーライフ |
1月30日(水) | Dynasty Tokyo Surfer's Night @ 恵比寿アクトスクエア |
イベントは変更になることもございます。 詳しくはDJ OSSHY公式サイト(www.osshy.com) をご参考ください。