日本武道館列伝 The Legendary@BUDOKAN
日本最大の“音楽ホール”として愛され続ける日本武道館。数多くの名演、名盤、名場面を生んだレジェンダリーの回想連載。
第2回『チープ・トリック at 武道館』 野中規雄インタビュー[後編]
武道館が“夢の場所”だったのは、80年代の初めまでなんじゃないかなあ。個人的な感覚からすれば、1966年のビートルズから始まって15年くらいの間、その場所はみんなが楽しめるワンダーランドみたいな空間だったんじゃないかなという気がします ──野中規雄
── ([前編]からの続き)日本発売の翌年、アメリカでも発売することになったときには、どんなことを思いましたか。
野中 『蒼ざめたハイウェイ』は20万くらい売れて、その次の『天国の罠』も15万くらい売れてて、『at 武道館』は日本のファンのために作った記念品なので、その半分くらい、つまり7万枚くらい売れればいいかなと思ってたんです。で、実際にそれくらい売れたんです。ライヴ盤はそんなに長く売れ続けるはずもないので、その年の年末までに7万枚くらい売れて、それで終わりだなと思ってたんですけど、輸出盤も7万くらい売れて。つまり、14万枚売れたわけです。で、年が明けて2月か3月にアメリカで発売されることになるんですが、その前にアメリカのEPICがプロモーション盤を作ったんです。輸入盤がすごい人気になってるということで、ラジオでかけてもらうための4曲入りだったか6曲入りだったかのDJコピーを作って、それを全米の放送局にまいたんですけど、それでますます人気が出て、いよいよ発売することになり、それで「アートワークを送れ」と言ってきたんです。“すごいことになったぞ”と思ってたら、今度はイギリスからも「マスターテープを送れ」「アートワークを送れ」という話が来て、その後は本当に世界中から話が来ました。その間、EPICソニーの国際部が各国に情報を出すとか、そういうことは一切していません。自然に、世界中に広がっちゃったんです。最終的に何か国でリリースされたのかわからないですが、ヨーロッパではほとんどの国でリリースされたし、南アフリカでもリリースされました。最後のほうは、「どこどこで出ます」と言われても、僕は「あっ、そう」と答えてました(笑)。
チープ・トリック
『チープ・トリック at 武道館 +3』
── (笑)。洋楽ディレクターがやれることは限られているというお話がありましたが、その常識を一気に超えて、すごいことをやったなという実感はありましたか。
野中 ありました。ただ、『at 武道館』に関して日本のレコード会社としては印税収入がまったくないんです。アメリカのレコード会社と交わしている契約の特別項目みたいなものだったから、すごく具体的なことを言えばレコーディング費用は日本が立て替えてアメリカが払ってくれています。僕自身は、社長から特別ボーナスをもらって、その額がエクセレントのその上くらいの額だったから、個人的には大喜びしたんだけど、でも逆に言えば、具体的なメリットはそれくらいですよ。
── そんなことはないでしょう。
野中 本当に、そうですよ。ただ、その後の仕事で「チープ・トリックの『at 武道館』を作った男です」という自己紹介をすると、向こうの人の目が変わるんですよ。日本人が思っているよりもインパクトがはるかに大きいらしくて。ということは具体的には他社と競合するアーティスト契約が有利になるんです。CBS・ソニーは契約条件に関してシビアだったから、他社と競合すると勝てないんですけど、「僕は『at 武道館』を作った男です」と言うと逆転できることがありました。だから、個人的に得したことがあったかな?と考えると、お金の話で言えば一度ボーナスをもらった程度ですが、その後の仕事に役立ったということは確かに大きかったと思います。
1980年来日中のチープ・トリックのメンバーらと(写真提供:野中規雄[左から3番目])
会社をやめた後、2010年にイギリスに短期留学で3か月いたんですけど、そこに伊藤政則さんが来て、ふたりでボン・ジョヴィを観に行ったんです。で、終わった後、楽屋に行くと、政則さんは勝手にワインを飲んじゃったりするわけですよ(笑)。そこにボン・ジョヴィが来て、僕を見て“なんだ、コイツは?”という顔をしてるんです。政則さんが「俺の友達で、元ソニーの人間で」と紹介してくれたんだけど、相変わらず怪訝な顔をしてるから、政則さんがさらに『チープ・トリック at 武道館』のA&Rだと言った瞬間目の色が変わったんです。ジョン・ボン・ジョヴィが「俺はあのアルバムが大好きなんだ」って(笑)。
野中規雄(2018年都内にて)
── 『at 武道館』で大きな成功体験を得たことで、その後の仕事を進めるなかでも武道館を強く意識したということはあったように思われますか。
野中 レコード会社のキャリアの終盤にアマチュアバンドの育成部門みたいなところで全国のバンドを見て回る仕事をしたんですが、そのとき自分のなかに持っていたひとつの基準は“この人たちは、武道館でやれるようになるかな?”ということでした。武道館でやれるという夢を見られるかどうか? それが自分のなかでの大切なポイントだったから、そう考えると、僕はずっと武道館にこだわっていたのかもしれませんね。
ロビン・ザンダーと(1978年/写真提供:野中規雄)
── ところで、ロビン・ザンダーのボーカル力はとんでもなくすごいという話がありました。彼は’89年にハートのアン・ウィルソンとのデュエットで「サレンダー・トゥ・ミー」(映画『テキーラ・サンライズ』挿入歌)という曲をヒットさせましたが、あれは彼のボーカリストとしての魅力をあらためて世に知らしめたヒットでもあったと思うんです。野中さんはあのヒットをどんなふうに受け止めていますか。
野中 あのヒットに対して、というよりもチープ・トリックが売れていた頃のことについて反省も込めて言うんですが、チープ・トリックが売れたのは日本人の女の子たちが熱狂したからで、そっちの方向に持って行ったのは僕です。それは、邦題から、写真のイメージから、全部含めて。『蒼ざめたハイウェイ』を出すときのイメージとしては、クイーンとベイ・シティ・ローラーズを足したかったんです。クイーンよりもラジオでかかりたい。ベイ・シティ・ローラーズよりもロックのイメージをつけたい。そしたら両方の女の子が来るぞと思ってやったら、男の子を排除する結果になっちゃった。いまでこそ“パワーポップの元祖”と言われてるけれども、当時はとにかく「ロビン、キャー!」だったんですよね。結果的に、という話ですが、ロビン・ザンダーを“王子様”にし過ぎたんです。これは、野中と東郷かおる子(『MUSIC LIFE』編集長)さんのせいです(笑)。
『MUSIC LIFE』1978年5月号(シンコーミュージック)
── (笑)。その戦略は大正解だったと思います。
野中 でも、王子様にしちゃったから、彼のボーカリストとしての凄さが正当に評価されてるとは思えないんですよね。『at 武道館』を売ったのも僕がやったこともかもしれないけれど、「チープ・トリックはアイドル・バンドのひとつだ」と思われているのも僕のせいだという気がするんです。でも、『at 武道館』がなければ、そういう話題にさえならなかったとも思うんだけど……。チープ・トリックの1stがいいというロック・ファンは少なくないんです。でも、1st『チープ・トリック』は3000枚しか売れてないんですよね。20万枚売れたアルバムよりも3000枚しか売れなかったアルバムを認めるというのは、レコード会社の人間でなくても、どうなんだろう?と思うんですよ。リック・ニールセンは『蒼ざめたハイウェイ』をそれほど気に入ってないという、罰当たりなことを言ってたことがあるんだけど(笑)。
リック・ニールセンと(1978年/写真提供:野中規雄)
── いまの野中さんのお話を聞いていてふたつのことに思い当たったんですが、ひとつは「今夜は帰さない」という邦題の素晴らしさです。邦題をつけるのは当時の洋楽ディレクターの重要な仕事のひとつですが、「Clock Strikes Ten」で邦題が「今夜は帰さない」。この邦題でもう、女の子は「キャー」ですよね。
野中 ありがとうございます。あの邦題はすっごく考えました。お話してきたように、僕のなかでのターゲットは女子中高生なんですよね。彼女たちが気に入ってくれる邦題をつけないといけないと思って、2日も3日も考えて、ロビンが耳元で「今夜は帰さない」と囁いたら、絶対キャーとなるなと思ったんです。僕は、邦題については、いろいろと悪評のあるディレクターなんですけど、正直に言って、いい加減な邦題は5秒くらいで考えるんです。でも、「甘い罠」と「今夜は帰さない」はめちゃくちゃ考えた邦題なので、そう言ってもらえるとうれしいです。なにせアタマの歌詞が♪CLOCK STRIKES TEN/IT’S A SATURDAY NIGHT♪ですから。(ベイ・シティ・ローラーズの)♪S・A・TUR・DAY! NIGHT!♪に勝つには?と考えますよね。
チープ・トリック「今夜は帰さない」(1978年/アナログEP盤/廃盤)
── そうか、仮想敵のひとつはそれだったわけですね。もうひとつ思い当たったのは、「エイント・ザット・シェイム」のことです。僕があの曲を知ったのは、ジョン・レノンの『ロックンロール』というアルバムだったと思うんですが、その演奏と比べてもチープ・トリックの「エイント・ザット・シェイム」はヘヴィで、はっきりとロックですよね。
野中 そうなんですよ。だから、メンバーもアイドル的な扱いには抵抗しようとしたところもあったと思うんです。それでも、もし‘78年の野中がセットリストを全部決められていたら、「エイント・ザット・シェイム」は入れなかったと思います。今だったら、違いますよ。でも、あの当時、『at 武道館』が世界中で発売されるなんてことは考えてもいないわけで、日本のお客さんに向けて出すわけだから、僕が選曲したら、ロックっぽ過ぎるという理由でカットしていたと思います。
── 当時の戦略に沿えば、そういうことになりますよね。
野中 ただ、実際には彼らは紛れもなくロック・バンドです。最近の彼らのアルバムを聴くと、ますますそう思います。すごくいいんですよ。クラシック・ロックのバンドは、僕はあまり新譜を聴こうと思わないんですね。『BEST OF ~』を聴いてりゃいいや、と思ってしまうんですけど、でもチープ・トリックはしっかり新譜を出していて、それが全部いい。しかも、ライヴをずっとやってる。
ポイズン『ルック・ホワット・ザ・キャット・ドラッグド・イン』
(CBS・ソニー発売1986年当時の邦題は『ポイズン・ダメージ』)
今年はポイズンのツアーにスペシャル・ゲストとして一緒にまわっています。ポイズンは、チープ・トリックをすごくリスペクトしてるんですよね。ちょっと話はそれますが、80年代にポイズンを契約したのは僕なんですけど、そのときの彼らへの殺し文句はさっき言ったように「僕は『at 武道館』を作った男です!」だったんですよ(笑)。で、チープ・トリックは、今年の12月くらいからデフ・レパードのヨーロッパ・ツアーを一緒にまわるそうです。40年前に武道館をやったアーティストが、再結成でもなく、このツアーだけ一緒にやるということでもなく、毎年当たり前のように100本以上もライヴをやってる例は彼ら以外にはないと思います。そこが、彼らのいちばん凄いところですよね。
── 『at 武道館』収録から10年後の‘88年に「永遠の愛の炎」の全米No.1を経て武道館に戻ってきたチープ・トリックに対しては、特別な感慨はありましたか。
野中 特になかったですね。それは、チープ・トリックに対して、という以前に、その頃になると僕は洋楽の限界を感じ始めていたので。例えば『MUSIC LIFE』と仕掛けたような日本独自のプロモーションは、80年代半ばのMTVと、その後に始まるインターネットの広がりによって許されなくなりました。海外からの情報が直接日本に入ってくるようになった結果、日本の担当者が勝手に自分独自のアイデアを進めることができなくなった、そのつまらなさを感じていたので、自分ができる洋楽の仕事はもうないなと思っていた時期じゃないかと思います。現実問題として、いまだったら『チープ・トリック at 武道館』は作れないと思いますよ。で、そういう変化のなかで、武道館という“夢の場所”もひとつの単なる音楽ホールになってしまったという感じはします。武道館が“夢の場所”だったのは、80年代の初めまでなんじゃないかなあ。個人的な感覚からすれば、66年のビートルズから始まって15年くらいの間、その場所はみんなが楽しめるワンダーランドみたいな空間だったんじゃないかなという気がします。
── そういうドリーミーな時間と空間を過ごしたことの、ひとつの集大成というか、大きな区切りとして形になったのが『at 武道館』だったというふうにも言えますか。
野中 そうだと思います。
野中規雄(2018年都内にて)
── いま振り返って、その夢の時間と空間に身を置いていたとき、野中さんの気持ちの真ん中にあったのはどんな思いだったんでしょうか。
野中 日本武道館を使って仕事ができるという喜び、みたいな感覚があったと思います。だから、タイトルにつけたんだと思うし。
── ちなみに、野中さんが武道館ライヴ・アルバムを作ったのは、チープ・トリックだけですよね。
野中 それだけです。
── 打率10割ですね。
野中 ワン・ヒット・ワンダーってことですね(笑)。
── いやいや、いろいろ出したけど1曲だけヒット、というのとは全然違います。
野中 でも、じつはもう1回、武道館で録ってるんです。ボストンの武道館。
ボストン『ドント・ルック・バック』(1978年)
── それは、いつですか。
野中 ‘79年ですね。‘78年に録ったチープ・トリックがヒットして、‘79年にボストンが来たら、そりゃ録るでしょ(笑)。しかも、『at 武道館』と同じタイミングで『ドント・ルック・バック』を出したボストンの初来日公演が武道館っていう。エンジニアは同じ、トム鈴木さんです。でも、そのマスターテープをトム・ショルツが持って帰っちゃったんです。そのままお蔵入り(笑)。幻の“ボストン at 武道館“ですね。
── では、打率10割だけど第2打席はフォアボール、みたいな感じでしょうか。
野中 そうですね(笑)。[終わり]
インタビュー・文/兼田達矢
●野中規雄(のなか・のりお)
1948年、群馬県前橋生まれ。1972年にCBS・ソニー(当時)に入社し、洋楽宣伝、洋楽ディレクターとして、エアロスミスやクラッシュ、ジャニス・イアン、チープ・トリックなど数多くのアーティストを手がけた。その後、SD本部、国内制作本部長、ソニー・ミュージックエンタテインメント取締役を経て2003年にソニー・ミュージックダイレクト代表取締役に就任。2008年に同社を定年退職し、同年に退職した岡田了とともに株式会社日本洋楽研究会を設立。制作に携わった洋楽カタログを後世に残すための活動を行っている。
●レッツゴー!元日本洋楽研究会
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