西寺郷太 It's a Pops
NONA REEVES西寺郷太が洋楽ヒット曲の仕組みや背景を徹底分析する好評連載
第13回
ブルース・スプリングスティーン
「グローリィ・デイズ」(1985年)【後編】
―― ([前編]からの続き)USA for Africa「ウィ・アー・ザ・ワールド」の活躍でブルース・スプリングスティーンを強く意識した郷太さんが、今回の連載の主役曲「グローリィ・デイズ」を選んだことは、当時のシングル時系列を見るとわかりやすいですね。
- [アルバム『BORN IN THE U.S.A.』からのシングル・カット]
1「ダンシン・イン・ザ・ダーク」’84年6月30日付全米2位
2「カヴァー・ミー」’84年10月20日付全米7位
3「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」’85年1月19日付全米9位
*USA for Africa「ウィ・アー・ザ・ワールド」’85年4月13日付全米1位
4「アイム・オン・ファイア」’85年4月13日付全米6位
5「グローリィ・デイズ」’85年8月3日付全米5位
6「アイム・ゴーイン・ダウン」’85年10月26日付全米9位
7「マイ・ホームタウン」’86年1月25日付全米6位
【参照:ビルボードHOT100】
西寺 おおお、1984年6月から、1986年まで一年半の間、シングル・ヒットが続いたと。アルバムをドン!とキャンペーンして終わりの日本だとありえない手法なんで、ほんと羨ましいです(笑)。確かに1985年4月にお茶の間にも届いた「ウィ・アー・ザ・ワールド」に登場したアーティストは、ドキュメンタリーを何回も見て「身内」みたいになってますからね。ブルースのキャラクターを認識してからすぐ夏の「グローリィ・デイズ」のビデオが印象的だったんでしょうね。個人的にもこの一年半は完全に「ものごころ」がついた瞬間というか。子供から、今の自分になった時期という気がするんで感慨深いですね。1973年生まれの僕は、最初に覚えているオリンピックがロス五輪という世代なんです。オリンピックが1984年の7月終わりから8月。小学四年生の夏休みでした。イーグル・サムとか、あの赤青白の星型のかっこいいシンボルマークの入ったコカ・コーラのグラスをプレゼントしてもらえたり。まさにDA PUMPじゃないですけど「俺の人生に、アメリカがきたー~!」みたいな時期でした(笑)。
―― シングル「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」は、小学生にも届いてきましたか?
西寺 もちろんです。でも、じつは僕がブルースの曲で最初に「あ、俺、この曲好きだなぁ」って意識した曲は、今回選んだ「グローリィ・デイズ」ではなく、「マイ・ホームタウン」でしたね。『BORN IN THE U.S.A.』の最後に収録されていた曲で。この頃の僕は『POP GEAR』という洋楽雑誌を夢中で読んでました。12、3歳、小6です。お小遣いも限られているから雑誌は『POP GEAR』だけ毎号買う!って決めていて、ずーっと読んでました。もちろん、例えば『MUSIC LIFE』や、他の音楽誌も読んでいたんですけど、『POP GEAR』は創刊準備号からチェック出来た自負もあって特別でした(笑)。なにが良かったかって、この雑誌、センターにざら紙でできた歌本みたいなページがあったんですよ。
- 『POP GEAR』(CBS・ソニー出版=現エムオン・エンタテインメント)創刊準備①②③号 (1985年~1986年)
―― 郷太さん、わが家に来てもらえれば『POP GEAR』の全バックナンバーそろっていますよ(笑)。1985年創刊から1992年休刊まで全部。何を隠そう1990年秋、19歳のときにアルバイトで潜り込んだのがCBS・ソニー出版(当時)の『POP GEAR』編集部。僕の原点、出発点です。マイ・ホームタウンです。
西寺 (笑)。確かに第1号は表紙ブライアン・アダムスでしたしね。安川さんジャストって感じです(笑)。小学生の頃は、まだ、ギターは持ってなかったし弾けなかったんですが、歌本ページをじっくり読んで、そこで「マイ・ホームタウン」の歌詞に感動したんですね。この歌の世界で言えば、まさに僕は息子の世代だったんで、大人になって親の立場で味わってまた感動するんですけど。僕は、小五の頃から僕は自作オリジナル曲のデモテープを作ってました。だから、こういう物語のような歌詞を書ける人が世の中にはいるんだなぁ、と思ったのを覚えてます。で、その頃から僕は作詞も作曲も今に至るまで続けているんですが。プロになってから作曲に比べて作詞にずっと苦手意識があったんですね。それが変わったのが30代前後くらいからなんですが。
ポカリスエット「ポカリガチダンス フルバージョン」篇
―― とはいえ作詞家として提供される仕事、多いですよね。2年前のポカリスエットのCM曲「君の夢は、僕の夢。」とか。
西寺 そうなんですよ。今は、より「プロ」としての仕事ができるのは、作詞家だと思ってるんですけどね。でも若い頃は、郷太の作詞は変だって、めっちゃくちゃ言われたんですよね(笑)。ま、変なんですけど(笑)。
―― え?デビューしてからですか。
西寺 特に20代の終わり頃ですね。「お前は作曲とアレンジは良いけど、作詞は意味わからん」みたいな感じでレコード会社のディレクターによく言われたんですよ。でも、その理由は自分が一番わかってるんです。まずひとつは、若い時にありがちな、あまりモノをストレートに伝えたくないみたいな反逆心(笑)。初期のブルース・スプリングスティーンも、ボブ・ディラン症候群じゃないですけど、前半の頃って、いろんなイメージが乱反射するような言葉とか主人公とかバンバン出てきた気がします。
- 『アズベリー・パークからの挨拶』
(1973年)
Sony Music Shop
CD
―― そうですね。ブルースは1973年に発表した1stアルバム『アズベリー・パークからの挨拶』、2ndアルバム『青春の叫び』で車、給油所、バイク、夜、仲間たちなど実在の固有名詞をマシンガンのように吐き出しています。23歳~24歳でした。
西寺 そういう時期ってあると思うんですよ。で、その後が問題で。僕が28歳くらいになった時、作詞というかシンガーとしての自分が完全に頭打ちになっちゃったというか、言葉が枯渇したというか……。27歳くらいまでは自分が若いっていうことだけで好きなことを歌えて暴れられる世代だと思うんですよね。夢を見たり、恋をしたり、傷つき、挫折しても最後には明日がもっとよくなると思える設定で歌詞が書けた、その時うまく行かなくても「大逆転するからみておけ」という強い姿勢で振る舞えた。でも28、9歳、いわゆるアラサーになってきたときに、その大前提が終わるんですよ。世間からしたら、キミ明らかにおっさんやん!ていう(笑)。けっこう打席立ってるけど結果打てへんやん、みたいな。結婚して親になる同世代も増えてきて、ミュージシャン続けてる自分が浦島太郎みたいになってくる。
- 『青春の叫び』
(1973年)
Sony Music Shop
CD
―― 40代の今の自分から見たら27、8って若いんですけどね。
西寺 当時はそこまで生きてきた人生しかないですからね。27、8って、それこそジミヘンやカート・コバーンが死んでる歳やん!と。で、その時点で全国民が存在を知るほど売れていて、王様のようなキャリアを築いていれば別だけど、まだまだNONA REEVESはこれから頑張らなきゃいけないって時期。で、色々悩んだ俺がたどり着いたのが、ブルース・スプリングスティーンだったんですよ。
Bruce Springsteen「My Hometown」(1985)
―― 郷太さんがマイケル・ジャクソンやプリンスではなくブルース・スプリングスティーンにすがったという事実はめちゃくちゃ興味深いんですけど。
西寺 僕も、ブルースの歌詞や姿勢に自分が探していた答えがあると気づいた時に驚いたんですよ。悩んだ日々のある瞬間に『POP GEAR』の歌本ページで感銘を受けたブルースの「マイ・ホームタウン」の歌詞を想い出してね。35歳の親父になった主人公(ブルース)が自分の生まれた育った街を息子に見せてあげる歌。そして極めつけが「グローリィ・デイズ」……。あ、これはブルースを最初からもう一回聴き直さないと、と思って当時僕はソニーの事務所にいたんで全作品を集めてもらって。紙ジャケで(笑)。
- 『POP GEAR』1986年12月号(左)/1986年3月号(右)
「MY HOMETOWN」掲載
―― で、改めてプロの作詞家としてブルースの歌詞を読み、どう思われたんでしょう?
西寺 飾らないひとりの人間として、一年一年成長と失敗を繰り返し、無駄にせず果汁のように絞っていく描写力です。34歳なら34歳の、46歳なら46歳の自分から逃げずに、地に足をつけて休まずに日々を更新していく生命力。そういうアーティストって、それまで実はあんまりいなかったと思うんですよ。パイオニアであるブルースがいてくれたおかげで、今ではもちろん多いですけどね。ジョン・レノンは一回ロック・スターであることを休んで「スターティング・オーヴァー」まで5、6年は子育てをしていた。ディランはいい意味で説明も答え合わせもしない、もっと別次元、仙人みたいに場所にいる気がします。デヴィッド・ボウイもフレディ・マーキュリーも、ミック・ジャガーもやはり煌めくスターでフィクショナルなカリスマです。比べるとブルースは、ほんと、人間としてあなたはここにいますよねっていう実在感がスゴい。セルフのガソリン・スタンドに行ってからその足でステージに来ました、みたいな強さ。ブルース、つい最近、誕生日(9月23日)で69歳になりましたけど、今もその姿勢を崩さないのが凄いです……。そんな彼が30代で書いた曲が「マイ・ホームタウン」であり「グローリィ・デイズ」でした。安川さん、曲の説明をお願いします(笑)。
―― はい。「グローリィ・デイズ」は、1番が昔の高校野球のスーパースターだった同級生とバーで再会。2番が昔クラスで一番人気のあった女の子が離婚して失敗しちゃったっていう話。ふたりとも脚光を浴びていた日々を懐かしんでいる。そして今の自分はどうなんだと自問自答する3部構成です。「でも過ぎ去った栄光の日々にすがっていちゃダメなんだよ」って力強く歌うロックンロールで、1985年夏に全米最高5位を記録、今でもライヴを盛り上げる最重要曲のひとつとしてセットリストの常連です。ちなみにミュージックビデオには当時の奥様で女優のジュリアン・フィリップスも出演していて、ブルースはそこでかつて高校野球の名選手だったことを思わせる良き父親役を演じています。
Bruce Springsteen「Glory Days」(1985)
西寺 子供の頃に「グローリィ・デイズ」のビデオを観たり対訳を読んで、「あ、今、というのは自分にとって長い人生の通過点なんだ」って思える冷静な意識が芽生えたのは自分にとって収穫でした。「グローリィ・デイズ」で描かれていることって大人社会の縮図、というか、特にアメリカ社会で、スポーツができる男の子、可愛い女の子っていうのは、完全なヒエラルキーのトップにいるわけじゃないですか。一番カッコいい男の子と一番キュートな女の子が付き合うみたいな。自分はスポーツとか全然できなかったんで、入ってたサッカー部ではまったく落ちこぼれでしたけど、ミュージシャンにはどうしてもなりたくて。俺には夢があると思ってました、でも、いくら僕がコソコソとひとりでデモテープ作ったとしても、誰かと分かち合えたり、サッカーや野球みたいに絶対的な審判がいてライバルと全身全霊で競えるような状況はなかったんです。でも、「グローリィ・デイズ」の歌詞を読むと中学や高校でヒーローになっても、その先もあるんだよ、どうする?っていう投げかけがありました。もちろん、単に冷たく人生の厳しさを押しつけてるわけでもなく。栄光の日々の賛歌だけでなく、そののちの暮らしも描くというのが、ブルースのストーリーテラーとしてのうまさであり、多くの人の共感を生み、救うんだろうな、と。で、正直忘れていた時期も長かったんですが、実際に20年近くの時を経て自分が30代になろうかという頃に、「グローリィ・デイズ」を改めて聴き直して、あぁ、あの時想像していた未来の景色はこれか、おお、そうだったのか、と(笑)。で、面白いと思ったんですね。この角度であれば年を重ねてもさらに楽しめて深い歌詞が書けるなぁ、と。ブルースには感謝してるんです。一曲のポップ・ソングでありながら、大人の世界まで先に体験させてくれたというか。凄いパワーだな、と。で、もうひとつ思ったのが「あぁ、尾崎豊さんってブルース・スプリングスティーンの歌詞の対訳をじっくり読んで彼の歌詞の軸にしていたんだろうなぁ」と。僕も物凄く詳しいわけではないんですが、尾崎さんの「卒業」などの歌詞に含まれる日常を照らす光の角度がブルースの描く世界に近いなぁ、と。ふたりとも天才なんだなぁ、って。
―― そのことを知ったのは、プロになってブルースの歌詞を見直した時のことですか。
西寺 ですね。当時、音楽的にいちばん好きなのはワム!とかカルチャー・クラブ、マイケル・ジャクソンやプリンスでした。今も好きなんですけど(笑)。ただ彼らは「あそこの工場で働いてるあいつ、あいつは高校時代地元のホームラン・バッターとして凄かったよね、今は年取って普通の奴になったけどね。球場の横通った時、後輩が打ったホームランみてどう思うんだろ?」みたいなことって歌わないじゃないですか(笑)。ブルースには言葉を選びながら日常光景をロックンロールとして成立させてしまう説得力がある。そう思うと、尾崎豊さんが30代、40代になった時、どんな歌を歌ったんだろうと。まさに彼は「若さの呪縛」の中でもがいて亡くなってしまったわけで。ブルースのように「おじさん」にはメタモルフォーゼ出来なかった
。で、NONA REEVESでブルース・スプリングスティーンに直接的に影響を受けたのは、1997年のアルバム『クイックリー』に入ってる「ユースレス」って曲で、これは本当にホームラン・バッターだった設定で歌詞を書きました。で、2006年に『3×3』というアルバムを出したんですけど、その中の「プリズマティック・レイディ~哀しみで目もくらみ~」っていう曲のタイトルは、1stアルバム『アズベリー・パークからの挨拶』の1曲目「光で目もくらみ」からのインスパイアです。僕からのブルースへのオマージュです。気づかれませんでしたけど(笑)。
- NONA REEVES『クイックリー』『3×3』はストリーミングからお楽しみください!
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ストリーミング
―― あ、それは勉強不足で知りませんでした。郷太さんがそんなにブルース好きだったとは。
西寺 いや、所謂生粋のブルース・スプリングスティーンのファンじゃないからわかる凄さもある、という話です。ブルースは年齢を重ねながら、自分の意見を、自分の年代に起こるべくことを、浮世離れしないようにそれこそ七転八倒しながら書いてきたパイオニアじゃないかなぁ、と。あのメガな規模の人気と知名度で、市井の民であり続け、ロックの歴史を更新し続けている唯一の存在って言っていいんじゃないですか。すごくないですか?
―― あ~だめだ、感動して泣きそうになってきました。それにしても70年代から第一線で活躍する現役キャリア組はもう少なくなりましたよね。
西寺 もちろん、キャリアのなかで若い頃は付け焼き刃な政治的なスタンスをとって失敗したときもあるでしょうけどね。『NO NUKES』(1979年反核の安全エネルギーのための支援コンサート)や、「ウィ・アー・ザ・ワールド」、その後の「サン・シティ」もですけど、80s青春的な甘酸っぱさを皆が共有してたから可能だったし、良くも悪くも熱くて正直なブルースはシンボルでした。「ウィ・アー・ザ・ワールド」でアフリカに送られた金は結局軍事政権に行っちゃったみたいな、そういう批判ももちろんあるんだけど。90年代に突入する前に、それらチャリティ全般や『BORN IN THE U.S.A.』の熱狂処理もみたいなこともちゃんと引き受けた上で個々の愛を歌った『トンネル・オブ・ラヴ』(1987年)の存在も真摯ですしね。
- 『BORN IN THE U.S.A.』
(1984年)
Sony Music Shop
CD
同じようなアーティストにボノもいるんですけど、ボノにはU2という「バンド」があり、バンドに守られているんで。バンドには目には見えづらい優しさっていうかシェルターみたいな部分があるから。ブルースはEストリート・バンドがありつつも、結局はソロ、というところがタフさを生んだんでしょうね。すべての批判も勘違いも、それこそ「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」の曲の誤解も、一身に受け止めなければならない。だからそういう意味で、僕は彼のファンなんですよ。(ブルース担当A&Rの)白木さんや安川さんの愛情とは比較にならないですけど。
白木 ……その一方で、ブルース作品の重要なテーマは「友情」「信頼」「絆」なんですよね。それを体現する唯一無比の方法がEストリート・バンド。そこから生まれてくる言葉はやはり「誠実」。ブルースの歌は書かれた頃の「誠実」さと輝きを失わずに今もリアルに人々の心に届いているはずです。この解けないMAGICがあるかぎりブルース・スプリングスティーンは世界中のファンから愛され続けると、僕は確信しています。
西寺 あ、ここまで何も言わずにずっとうなずいていた白木さんが最後に美味しいところを持っていかれるなんて(笑)。ありがとうございます(笑)。白木さんのファン、音楽業界に多いんで喜んでる人多いはずです(笑)。「友情」「信頼」「絆」から生まれる「誠実」ですか。でもホントに素敵な言葉ですね……安川さんも大きくうなずいて……え、ちょっと涙ぐんでます? このおふたりで何度かニュージャージーのアズベリー・パークを聖地巡礼しているんですよね。その話を今からゆっくり聞くと朝になりそうですね(笑)。こんなファンな方々を持ったブルース・スプリングスティーンというアーティストの魅力はやっぱりまだまだ奥が深いんでしょうね。こうしてバラバラの街で育った音楽マニアが、集まって乾杯しながら話してること自体が、GLORY DAYSですよ、ほんとに!(終わり)
聞き手/安川達也(otonano編集部)
都内ホテル“アメリカンBBQ“にて
- 『ライト・オブ・デイ ブルース・スプリングスティーン・トリビュート』
(2005年)ブックレットより
Sony Music Shop
ニュージャージー州アズベリー・パーク(2005年9月11日 撮影:白木哲也)
- BRUCE SPRINGSTEEN「Glory Days」
Release:May 31,1985
Songwrite:Bruce Springsteen
Produce:Bruce Springsteen, John Landau, Chuck Plotkin, Steven Van Zandt
Record:Toby Scott
Mix:Bob Clearmountain
Label:Columbia
Bruce Springsteen:Lead Vocals, Lead Guitar, Acoustic Guitar
Roy Bittan:Piano, Synthesizer
Clarence Clemons:Saxophone, Percussion
Danny Federici:Hammond Organ, Glockenspiel
Garry Tallent:Bass Guitar
Steven Van Zandt:Acoustic Guitar, Mandolin
Max Weinberg:Drums
ブルース・スプリングスティーンの7thアルバム『BORN IN THE U.S.A.』からの5枚目のシングル・カット曲で1985年5月31日に北米発売され、8月3日付ビルボードHOT100で最高5位(年間67位)、同メインストリーム・ロックで最高3位を記録した。日本では国内盤(写真)が6月21日に発売。大盛況となった4月のジャパン・ツアー直後とあってジャケットには「歴史を変えた日本公演大成功記念盤」と印字されている。