DJ OSSHY TOKYOの未来に恋してる!
安心・安全・健康的なディスコ・カルチャーを伝達することを使命とするDJ OSSHYのインタビュー連載
第20回 【対談① 角松敏生×DJ OSSHY[中編]】
写真提供:ビーンズ/エス・オー・プロモーション
── ( [前編]から続く)ディスコそのものについて語っていただこうと思います。
DJ OSSHY 角松さんのディスコ体験っていつからですか。
角松 高校生の時ですね。高校1年とか2年とか。1970年代の半ばですね。最初は吉祥寺の「インデペンデントハウス」かな。
DJ OSSHY その頃って「SHIRO」はもうあったんですか。
角松 うーん、「SHIRO」はまだかなあ。当時は「インデペンデントハウス」と「バラード」という2つのディスコがあって学校帰りに行けるんですよ。その後、同級生で少しませたやつは新宿のディスコに出入りするようになるんです。「Get」とか「US?」などに一緒に行きました。それから「カンタベリーハウス」というのができるんですよね。僕は大学に入ってすぐ喫茶店でアルバイトしていたんだけれど、そのバイト先の先輩がよく行っていた。当時はサーファー・ディスコがブームになっていたんですよ。でも、大学に入ってすぐにデビューの話が来たから、その後はあまり熱心に通ってはいないですね。だから、ディスコに行ってたのは70年代の終りくらいまでかな。
DJ OSSHY なるほど。じゃあ僕とはギリギリかぶってないですね。僕がディスコに初めて行ったのが1981年なんです。その時に、ルーサー・ヴァンドロスの「スーパー・レディ」がかかっていて、その曲でかっこいい男女が踊っていたんです。それで、こういう音楽でおしゃれな男女を踊らせてみたいなあと思ったのが、ディスコに魅せられたきっかけなんですよ。
角松 たしかに、あの頃のディスコは、お客さんもかっこよかったからね。
DJ OSSHY 本当にあの頃はキラキラしていましたよね。僕はディスコに魅せられたのではなくてディスコミュージックに魅せられたんですよ。ディスコそのものというよりも、音楽を操るDJの存在に魅力を感じました。
角松 僕も同じですね。当時はまだ輸入盤を扱うタワーレコードもなかったし、まだ簡単に日本盤以外のレコードを聴くことができなかった。でも、ディスコに行くと知らない音楽が聴ける。だから、踊りに行くというよりも、音楽の情報を得るために通っていたと言った方がいいかもしれないですね。
DJ OSSHY 角松さんもそうですか! ディスコというと踊るのもそうだし、お酒飲んだりナンパしたりいろんな楽しみがありますよね。でも僕はDJブースめがけてひとりで通っていました(笑)。70年代や80年代の音楽を操るDJの職人技というか、芸術性に魅せられたんです。
Disco Lovers
ルーサー・ヴァンドロス「スーパー・レディ」を含む全108曲収録
── OSSHYさんも角松さんも、ナンパ目的ではなかったんですね(笑)。
角松 当然ナンパしに行く連中はまわりにもたくさんいたけれど、僕は音楽そのものを聴きに行ってましたよ。
DJ OSSHY DJブースに行ってはターンテーブルの上のレーベルをチェックして、それを目に焼き付けて次の日にレコードを買いに行くっていう。何気なく買ったレコードって、毎回失敗するんですよね(笑)。でもその失敗を繰り返して、音楽を深く知るようになりました。
角松 そうそう、あの当時ってディスコにレコードを卸している店もあったよね。六本木だと有名な「ウィナーズ」とか。
DJ OSSHY 「ウィナーズ」、懐かしいですね~。
角松 「ウィナーズ」に行くと、店長が「これ好きだったらこっちもいいよ」なんて勧めてくれるんですよね。それで買って帰ってすぐに家で聴いて「うわー、かっこいい!」みたいな(笑)。当時はレコード会社の都合でしか洋楽は発売されなかったですから、輸入盤の情報は貴重でしたよね。
DJ OSSHY それがディスコに行けば知ることができましたからね。
エアプレイ
『ロマンティック』
角松 今度ソニー洋楽からエアプレイのアルバムがジェイ・グレイドンによってリマスターされて再発されるので、いま依頼されたライナーノーツを書いているんです。今でこそAORの金字塔みたいに言われているけれど、あのアルバムって発表当時は誰も見向きしていなかったんですよ。『ロマンティック』なんて言う適当なタイトルで出たのは何年も後。「なんなの、『ロマンティック』って?」みたいな(笑)。でも、こういう知る人ぞ知る音楽もディスコでは普通にかかっていましたからね。
── ディスコというと、今年は映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が1978年に日本公開されてちょうど40周年ということで、OSSHYさんがアンバサダーをやっているんですよね。
DJ OSSHY 角松さんは当時は高校生ですよね。
角松 そうですね。ただ、あまりリアルタイムという印象はないんですよ。高校2年の時に付き合っていた彼女が、ビージーズの「愛はきらめきの中に」が入ったカセットを貸してくれて「いい曲だなあ」と思った記憶はありますけれど。
DJ OSSHY 年代的にいうと、日本では1974年がディスコ元年と言われているんですが、その当時は完全にソウル・ディスコなんです。でも70年代終わり頃から白人のミュージシャンが黒人に憧れてディスコ・サウンドを取り入れ始めて、1977年に全米で公開された『サタデー・ナイト・フィーバー』で一気にムーヴメントになるんです。
角松 たしかにディスコに行き始めた頃ではあるんだけど、自分よりも兄貴の世代の方がすごかったんじゃないかな。多分、自分の世代よりも4、5歳上の人たちかもしれない。
日本が踊る!2018年、ディスコ再始動
Disco Fever -Saturday Night Fever 40th Anniversary-
── じゃあ、角松さんはジョン・トラボルタのあのポーズはしていないと(笑)。
角松 してない、してない(笑)。僕らの世代になると、あれはどちらかというとシャレみたいな認識でしたよね。『サタデー・ナイト・フィーバー』は当時の20代のカルチャーだったから、やっぱり上の世代ですよね。どちらかというと、ソウル・ディスコで遊んでいた人たちに、白人ディスコが横入りしてきたというようなイメージじゃないかな。
DJ OSSHY たしかにあの時代は多いですよね。ビージーズだけでなく、レジェンドといわれるアーティストのいちばんヒットした曲って、ディスコが多いんですよ。KISSだと「ラヴィン・ユー・ベイビー」だし、クイーンは「地獄へ道づれ」ですから。
角松 ロッド・スチュワートの「アイム・セクシー」もそうだよね。
DJ OSSHY 西城秀樹さんは「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」だし(笑)。
角松 ディスコの時代には名曲が多かったっていうことかもしれないよね。キャッチーだったから。
── 角松さんも当時のディスコ・ヒットには影響を受けられたんですか。
角松 僕はどちらかというと、そういうヒット曲からは離れていたんですよ。ポップすぎてフロアでかかると逃げちゃう。チェンジやナラダ・マイケル・ウォルデンがかかったら、また踊りに行くみたいな(笑)。
DJ OSSHY いわゆるブラコンですよね。
角松 そうこうしているうちにデビューしてしまったし、踊る方でなく踊ってもらう音楽を作る方になりましたから。
DJ OSSHY そして僕も角松さんをディスコでかけるDJになりました。
── お話が前回につながりましたね。
DJ OSSHY まだまだ話足りないので……。
角松 じゃあ、飲みに行く?(笑)[後編に続く]
インタビュー・文/栗本斉
●角松敏生(かどまつとしき http://www.kadomatsu.jp/)
本名同。1960年、東京都出身。1981年6月21日シングル「YOKOHAMA Twilight」、アルバム『SEA BREEZE』の同時リリースでデビュー。以後、彼の生み出す心地よいサウンドは多くの人々の共感を呼び、時代や世代を越えて支持されるシンガーとしての道を歩き始める。また、他アーティストのプロデュースをいち早く手掛け始め、特に1983年リリースの 杏里「悲しみがとまらない」、1988年リリースの 中山美穂「You're My Only Shinin' Star」はどちらも角松敏生プロデュース作品としてチャート第1位を記録、今だスタンダードとして歌い継がれている。1993年までコンスタントに新作をリリース、いずれの作品もチャートの上位を占める。年間で最高100本近いコンサート・ツアーを敢行。1997年にNHK“みんなのうた”としてリリースされたAGHARTA(角松敏生が結成した謎の覆面バンド )のシングル「 ILE AIYE(イレアイエ)~WAになっておどろう」は社会現象ともいえる反響を集め大ヒット。1998年2月の<1998 長野冬季オリンピック>閉会式では自らAGHARTAのメインヴォーカルとしてその大舞台に立ち、今や国民的唱歌「WAになっておどろう」が披露され、この映像は全世界に向けて映し出された。 その妥協を許さないスタンスとクオリティで常に音楽シーンの最前線で活動をしている。
角松敏生
『Breath From The Season 2018~Tribute to Tokyo Ensemble Lab~』
発売中
詳細はこちら
VARIOUS ARTISTS
『レッツ・ディスコ~ノンストップ・ミックス~mixed by DJ OSSHY』発売中
オリコンランキングDANCE&SOUL部門初登場14位(2018年6月27日付)
詳細はこちら
DJ OSSHY 出演スケジュール
イベントは変更になることもございます。 詳しくはDJ OSSHY公式サイト(www.osshy.com) をご参考ください。
ディスコに行くと知らない音楽が聴ける。だから、踊りに行くというよりも、音楽の情報を得るために通っていたと言った方がいいかもしれないですね(角松)
僕もDJブースめがけてひとりで通っていました(笑)。70年代や80年代の音楽を操るDJの職人技というか、芸術性に魅せられたんです(DJ OSSHY)
── ( [前編]から続く)ディスコそのものについて語っていただこうと思います。
DJ OSSHY 角松さんのディスコ体験っていつからですか。
角松 高校生の時ですね。高校1年とか2年とか。1970年代の半ばですね。最初は吉祥寺の「インデペンデントハウス」かな。
DJ OSSHY その頃って「SHIRO」はもうあったんですか。
角松 うーん、「SHIRO」はまだかなあ。当時は「インデペンデントハウス」と「バラード」という2つのディスコがあって学校帰りに行けるんですよ。その後、同級生で少しませたやつは新宿のディスコに出入りするようになるんです。「Get」とか「US?」などに一緒に行きました。それから「カンタベリーハウス」というのができるんですよね。僕は大学に入ってすぐ喫茶店でアルバイトしていたんだけれど、そのバイト先の先輩がよく行っていた。当時はサーファー・ディスコがブームになっていたんですよ。でも、大学に入ってすぐにデビューの話が来たから、その後はあまり熱心に通ってはいないですね。だから、ディスコに行ってたのは70年代の終りくらいまでかな。
DJ OSSHY なるほど。じゃあ僕とはギリギリかぶってないですね。僕がディスコに初めて行ったのが1981年なんです。その時に、ルーサー・ヴァンドロスの「スーパー・レディ」がかかっていて、その曲でかっこいい男女が踊っていたんです。それで、こういう音楽でおしゃれな男女を踊らせてみたいなあと思ったのが、ディスコに魅せられたきっかけなんですよ。
角松 たしかに、あの頃のディスコは、お客さんもかっこよかったからね。
DJ OSSHY 本当にあの頃はキラキラしていましたよね。僕はディスコに魅せられたのではなくてディスコミュージックに魅せられたんですよ。ディスコそのものというよりも、音楽を操るDJの存在に魅力を感じました。
角松 僕も同じですね。当時はまだ輸入盤を扱うタワーレコードもなかったし、まだ簡単に日本盤以外のレコードを聴くことができなかった。でも、ディスコに行くと知らない音楽が聴ける。だから、踊りに行くというよりも、音楽の情報を得るために通っていたと言った方がいいかもしれないですね。
DJ OSSHY 角松さんもそうですか! ディスコというと踊るのもそうだし、お酒飲んだりナンパしたりいろんな楽しみがありますよね。でも僕はDJブースめがけてひとりで通っていました(笑)。70年代や80年代の音楽を操るDJの職人技というか、芸術性に魅せられたんです。
Disco Lovers
ルーサー・ヴァンドロス「スーパー・レディ」を含む全108曲収録
── OSSHYさんも角松さんも、ナンパ目的ではなかったんですね(笑)。
角松 当然ナンパしに行く連中はまわりにもたくさんいたけれど、僕は音楽そのものを聴きに行ってましたよ。
DJ OSSHY DJブースに行ってはターンテーブルの上のレーベルをチェックして、それを目に焼き付けて次の日にレコードを買いに行くっていう。何気なく買ったレコードって、毎回失敗するんですよね(笑)。でもその失敗を繰り返して、音楽を深く知るようになりました。
角松 そうそう、あの当時ってディスコにレコードを卸している店もあったよね。六本木だと有名な「ウィナーズ」とか。
DJ OSSHY 「ウィナーズ」、懐かしいですね~。
角松 「ウィナーズ」に行くと、店長が「これ好きだったらこっちもいいよ」なんて勧めてくれるんですよね。それで買って帰ってすぐに家で聴いて「うわー、かっこいい!」みたいな(笑)。当時はレコード会社の都合でしか洋楽は発売されなかったですから、輸入盤の情報は貴重でしたよね。
DJ OSSHY それがディスコに行けば知ることができましたからね。
エアプレイ
『ロマンティック』
角松 今度ソニー洋楽からエアプレイのアルバムがジェイ・グレイドンによってリマスターされて再発されるので、いま依頼されたライナーノーツを書いているんです。今でこそAORの金字塔みたいに言われているけれど、あのアルバムって発表当時は誰も見向きしていなかったんですよ。『ロマンティック』なんて言う適当なタイトルで出たのは何年も後。「なんなの、『ロマンティック』って?」みたいな(笑)。でも、こういう知る人ぞ知る音楽もディスコでは普通にかかっていましたからね。
── ディスコというと、今年は映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が1978年に日本公開されてちょうど40周年ということで、OSSHYさんがアンバサダーをやっているんですよね。
DJ OSSHY 角松さんは当時は高校生ですよね。
角松 そうですね。ただ、あまりリアルタイムという印象はないんですよ。高校2年の時に付き合っていた彼女が、ビージーズの「愛はきらめきの中に」が入ったカセットを貸してくれて「いい曲だなあ」と思った記憶はありますけれど。
DJ OSSHY 年代的にいうと、日本では1974年がディスコ元年と言われているんですが、その当時は完全にソウル・ディスコなんです。でも70年代終わり頃から白人のミュージシャンが黒人に憧れてディスコ・サウンドを取り入れ始めて、1977年に全米で公開された『サタデー・ナイト・フィーバー』で一気にムーヴメントになるんです。
角松 たしかにディスコに行き始めた頃ではあるんだけど、自分よりも兄貴の世代の方がすごかったんじゃないかな。多分、自分の世代よりも4、5歳上の人たちかもしれない。
日本が踊る!2018年、ディスコ再始動
Disco Fever -Saturday Night Fever 40th Anniversary-
── じゃあ、角松さんはジョン・トラボルタのあのポーズはしていないと(笑)。
角松 してない、してない(笑)。僕らの世代になると、あれはどちらかというとシャレみたいな認識でしたよね。『サタデー・ナイト・フィーバー』は当時の20代のカルチャーだったから、やっぱり上の世代ですよね。どちらかというと、ソウル・ディスコで遊んでいた人たちに、白人ディスコが横入りしてきたというようなイメージじゃないかな。
DJ OSSHY たしかにあの時代は多いですよね。ビージーズだけでなく、レジェンドといわれるアーティストのいちばんヒットした曲って、ディスコが多いんですよ。KISSだと「ラヴィン・ユー・ベイビー」だし、クイーンは「地獄へ道づれ」ですから。
角松 ロッド・スチュワートの「アイム・セクシー」もそうだよね。
DJ OSSHY 西城秀樹さんは「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」だし(笑)。
角松 ディスコの時代には名曲が多かったっていうことかもしれないよね。キャッチーだったから。
── 角松さんも当時のディスコ・ヒットには影響を受けられたんですか。
角松 僕はどちらかというと、そういうヒット曲からは離れていたんですよ。ポップすぎてフロアでかかると逃げちゃう。チェンジやナラダ・マイケル・ウォルデンがかかったら、また踊りに行くみたいな(笑)。
DJ OSSHY いわゆるブラコンですよね。
角松 そうこうしているうちにデビューしてしまったし、踊る方でなく踊ってもらう音楽を作る方になりましたから。
DJ OSSHY そして僕も角松さんをディスコでかけるDJになりました。
── お話が前回につながりましたね。
DJ OSSHY まだまだ話足りないので……。
角松 じゃあ、飲みに行く?(笑)[後編に続く]
インタビュー・文/栗本斉
●角松敏生(かどまつとしき http://www.kadomatsu.jp/)
本名同。1960年、東京都出身。1981年6月21日シングル「YOKOHAMA Twilight」、アルバム『SEA BREEZE』の同時リリースでデビュー。以後、彼の生み出す心地よいサウンドは多くの人々の共感を呼び、時代や世代を越えて支持されるシンガーとしての道を歩き始める。また、他アーティストのプロデュースをいち早く手掛け始め、特に1983年リリースの 杏里「悲しみがとまらない」、1988年リリースの 中山美穂「You're My Only Shinin' Star」はどちらも角松敏生プロデュース作品としてチャート第1位を記録、今だスタンダードとして歌い継がれている。1993年までコンスタントに新作をリリース、いずれの作品もチャートの上位を占める。年間で最高100本近いコンサート・ツアーを敢行。1997年にNHK“みんなのうた”としてリリースされたAGHARTA(角松敏生が結成した謎の覆面バンド )のシングル「 ILE AIYE(イレアイエ)~WAになっておどろう」は社会現象ともいえる反響を集め大ヒット。1998年2月の<1998 長野冬季オリンピック>閉会式では自らAGHARTAのメインヴォーカルとしてその大舞台に立ち、今や国民的唱歌「WAになっておどろう」が披露され、この映像は全世界に向けて映し出された。 その妥協を許さないスタンスとクオリティで常に音楽シーンの最前線で活動をしている。
角松敏生
『Breath From The Season 2018~Tribute to Tokyo Ensemble Lab~』
発売中
詳細はこちら
VARIOUS ARTISTS
『レッツ・ディスコ~ノンストップ・ミックス~mixed by DJ OSSHY』発売中
オリコンランキングDANCE&SOUL部門初登場14位(2018年6月27日付)
詳細はこちら
DJ OSSHY 出演スケジュール
7月20日 | ナバーナマンスリーパーティー@DiA tokyo FM FUJI【〜DJ KOO PRESENTS〜BEAT GOES ON】ゲスト出演 |
7月21日 | RADIO DISCO/InterFM897 15:00-17:00 生放送 TOKYO FM【JAPAN MOVE UP supported by TOKYO HEADLINE】ゲスト出演 |
7月22日 | 「ディスコの日」 「ディスコの日」制定記念 “DISCO FEVER 40 -Special Version” 3世代ディスコ in DIANA |
7月25日 | Dynasty Tokyo Surfer’s Night @ 恵比寿アクトスクエア |
7月27日 | NHKラジオ第1「ごごラジ!」(全国生放送) DISCO LEON @グランド ハイアット 東京 |
7月28日 | RADIO DISCO/InterFM897 15:00-17:00 生放送 |
7月29日 | サンデーディスコ@西麻布 エーライフ |
7月30日~8月3日 | 24時~24時50分 NHK FM【夜のプレイリスト】出演 |
8月3日 | ナバーナマンスリーパーティー@西麻布エーライフ |
8月4日 | RADIO DISCO/InterFM897 15:00-17:00 生放送 |
8月11日 | RADIO DISCO/InterFM897 15:00-17:00 生放送 TOKYO MX「ミュージック・モア 今夜、僕たちはきっと音楽を聴く。」出演 |
8月13日 | 「ファミリーディスコ/80’s ナイトフィーバー」 |
8月17日 | ナバーナマンスリーパーティー@エスプリトーキョー |
8月18日 | RADIO DISCO/InterFM897 15:00-17:00 生放送 |
8月19日 | 2018 AMEFES(アメフェス)@富士スピードウェイ |
8月24日 | DISCO FEVER presents Summer 80’s LIVE & DISCO@グランドハイアット東京 |
8月25日 | RADIO DISCO/InterFM897 15:00-17:00 生放送 |
8月26日 | サンデーディスコ@西麻布 エーライフ |
8月29日 | EVVIVA!DISCO Special Day@ららぽーと海老名 |
8月31日 | NHKラジオ第1「ごごラジ!」(全国生放送) “Disco Night Aquarium”〜フライデーナイトフィーバー 出演 |
イベントは変更になることもございます。 詳しくはDJ OSSHY公式サイト(www.osshy.com) をご参考ください。