西寺郷太 It's a Pops
NONA REEVES西寺郷太が洋楽ヒット曲の仕組みや背景を徹底分析する好評連載
第7回
ホイットニー・ヒューストン
「オールウェイズ・ラヴ・ユー」(1992年)【後編】
―― 『ボディガード』劇中の大スター、レイチェルはホイットニー・ヒューストンを地で行く役とも言われていましたね。
西寺 ホイットニーが演じたレイチェルは、世界中の注目を集めるだれもが認める天才歌手。当時の現実世界のホイットニーを取り巻く状況によく似ていました。ひとつ違うのが、ホイットニー自身の母親がエルヴィス・プレスリー、ジミ・ヘンドリックス、アレサ・フランクリンなどと一緒に仕事をした伝説的なコーラス・グループ「スウィート・インスピレーションズ」のシシー・ヒューストンだったこと。「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」(’86年5月全米1位)のビデオにも、お母さん役で出演していましたね。ホイットニーの側には、母シシーの仕事の関係で幼少期の頃からアレサ・フランクリンやダーレン・ラヴがいました。シシーの12歳離れた姉の娘が、「ウィ・アー・ザ・ワールド」にも参加したディオンヌ・ワーウィック。年齢差からよく「ディオンヌはホイットニーの叔母さん」などと勘違いされていましたが(笑)、実際は従姉(いとこ)ですね。
―― すごい。血統、環境ともにまさに正真正銘のサラブレッド。
西寺 ですね。母シシーは、当初誇らしかったと思いますよ。シシー自身は、「シシー・ドリンカード(シシーの旧姓)&スウィート・インスピレーションズ」と名乗ったこともあるグループのリーダーで、実力を認められた歌手ではありましたが、主な仕事はバック・コーラス。彼女のキャリアはレコード会社の倒産など偶然の運の悪さに翻弄されることが多く、ポップ・フィールドのヒットまでには至りませんでした。悔しさや苦労を散々味わってきたシシーの愛娘ホイットニーは、自分よりも、いや歴史上の誰よりも歌が上手く、美しく、なにより運が良く、レコード業界の中心へと瞬く間に上り詰めたわけですから。
The Bodyguard, © 1992, Package Design & Supplementary Material Compilation
© 2012 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
ホイットニーの人生を最終的に振り返った時……。母シシーが培ってきたコネクションや経験、育ての親であるクライヴ・デイヴィスを筆頭とするレコード業界のレジェンドたちの手腕、彼女自身の持って生まれたポテンシャルが重なった、奇跡的に歯車が噛み合ったその前半生。そして、やはり自身の「歌のうまさ」や能力の意味、成功の本質を彼女自身が理解していなかったことの反動が晩年にドッと押し寄せてしまったという気がします。もちろん、彼女の家庭環境で驚異的な「歌のうまさ」を隠しきれるわけもないですけど。彼女には美貌と才能が与えられすぎた。だからこその「ホイットニー・ヒューストン」なんですけれど。
―― 気がつかないまま終わってしまうほうが楽なこともありますね。
西寺 エイミー・ワインハウスや、ジョージ・マイケル、マイケル・ジャクソン、日本だと尾崎豊さんや飛鳥涼さんなどにも思うことですが、「驚異的に歌がうまい」クリエイター気質の人は、たいてい普通の人間には理解出来ないほどの、常軌を逸した繊細さを兼ね備えています。心の網の目が、誰より細かいというか。だからその粒子の細かい声や歌詞やメロディが、傷ついた人の心に伝わり癒したり、逆に鼓舞したり煽動したりできる。ただ、ホイットニーの場合は、さきほど名前を出した彼らともまた違う気がするんですよね。もっと単純に動物的な凄みというか、ウサイン・ボルトの100メートル走のような。完全に肉体的、アスリート的な歌唱力そのもので人の心を動かしたシンガー、という気がします。ホイットニーの歌には、何気なく走ってみたらあれよあれよという間にオリンピックに出場してしまい結果的に金メダルを獲得してしまった、というような無邪気さがある。どこか彼女自身が望みに望んで得た成功ではないから、真剣じゃない。母シシーとの確執も、そのあたりの感覚のズレが大きかったんじゃないかなぁ、と。ちなみに映画『ボディガード』では姉妹で格差が付いてしまったシチュエーションが描かれていますが……。
The Bodyguard, © 1992, Package Design & Supplementary Material Compilation
© 2012 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
―― あ、なるほど……『ボディガード』で主役のレイチェルが襲われたきっかけは……。
西寺 はい。もし、『ボディガード』今から観るよという方は、ネタバレだと怒られてしまいそうなんで、ぜひ観てから続きを読んでください(笑)。『ボディガード』のストーリーでは、ホイットニー演じるレイチェルの姉ニッキーが先に音楽活動を始めていた設定。姉ニッキーはギターを弾いていたけれど、バンドはパッとしなかった。そこにボーカリストとして加入した妹レイチェルは、天才シンガーとして魅力を開花させあっというまに人気者に。しばらくしてニッキーは音楽から身を引き、プロになって離婚した妹やその息子の身の回りの世話係としてリッチな暮らしを支えている。妹の金で屋敷に自分の部屋をもらい、懐かしいギターや写真を見ながら出番もないのにトレーニングして身体を鍛えるニッキー。姉からすれば努力しながら頑張ったのに結局、才能がある妹にチャンスを取られていく。プライドはズタズタ。妹が憎い。でも天真爛漫な妹には、まったく悪気はない。そのスレ違いと蓄積したニッキーの嫉妬心が悲劇を生んでいくわけで……。
―― あ、そのあたりでストーリー説明はOK!です(笑)。でもそれは劇中の話なわけで、ホイットニーの生い立ちではないですよね。
西寺 劇中の姉妹と同じような関係が、実際の母シシーとホイットニーの間にもあった、と僕は感じています。最初はショウビズ世界の先輩として、母として子供に言い聞かせるようにと「あんた調子に乗っちゃだめよ」ってたしなめていたのが、大人になってスポットが彼女に当てられるとだんだんシシーは複雑な思いになっていくんですよね。教育や指導ではなく、単なる嫉妬と脅威。本来は味方のはずの母親が最大の敵、ライバルとして自分を攻撃してくるわけですから。
―― 元々の脚本はホイットニーありきではなかったのに面白いですね。
西寺 そう。最初に話した通り『ボディガード』の脚本は、元々70年代半ばに書かれ、当初の配役イメージはダイアナ・ロスだった。それなのに、面白いことに驚くほどホイットニーの生い立ちや状況と重ねて観ることができる映画になってしまった。今改めて見ると、特に。プロデューサーのひとりでもあるケビン・コスナーの意向かはわかりませんが、『ボディガード』自体が彼女のプロフィール映画、自伝のような様相となったんだから、やはり目には見えない「運」まで持っていたんでしょうね。この映画のホイットニーは本当に魅力的ですから。人気歌手の主演一発目の映画であんなに成功した作品は見当たりませんよ。マイケル・ジャクソンだって、マドンナだって映画界に憧れ参入しましたが、ここまでのヒット作、代名詞となるようなハリウッド映画はありませんから。プリンスの『パープル・レイン』はインパクトがありましたが、彼自身がスーパースターの座を手に入れるためにプロデュースしたPR作品という気がします。それに比べて、ホイットニーは純粋にラヴロマンスの「女優」として輝いたことが評価の対象だと思うんですよね。劇中でグラミー授賞式のようなシーンがありますが、実際にこの映画からグラミー賞の Record of the Year、Album of the Year 作品を生んでいますから。ホイットニーは現実と映画をクロスさせた本当にスゴい引力を持っていました。「アスリート」である彼女は、そこに競技場(フィールド)があるかぎり80年代の栄華からスピードを落とすことなく誰も追いつかない最高速度で『ボディガード』に突入した。ハリウッド女優としても金メダルを獲得し、すべてを手にしたわけです。
- Whitney Houston
「I Will Always Love You」
Recoding:April,1992
@Ocean Way Recording, Hollywood, California
Release:3rd , November , 1992/Label:Arista
Songwriter:Dolly Parton
Producer:David Foster - ホイットニー・ヒューストンのキャリア史上最大のヒット曲。自身の主演映画『ボディガード』の主題歌として劇場公開とサウンドトラックの発売に先がけて、’92年11月3日にリリースされた。全米シングル・チャート=ビルボードHOT100で’92年11月28日付~‘93年2月13日付まで14週間にわたって1位を独走、’93年度の全米年間チャートで1位を獲得。アメリカ国内だけで400万枚、日本国内では洋楽としては異例の80万枚、全世界では1500枚のセールスを突破する空前の大ヒット曲となった。プロデュースを手がけたデイヴィッド・フォスターと共に第36回グラミー賞の最高栄誉Record of the Yearを受賞している。ジャケット写真は日本盤8cmCD(短冊)シングル。
―― でもその後の20年というか、頂きから転がり落ちていく様はあまりにも哀しかったです。夫ボビー・ブラウンの家庭内暴力、薬物依存、離婚、アルコール依存、破産報道、ホテル浴室溺死……48歳の短い人生でした。
西寺 残念ですね。「アスリート」であるからこそ、彼女の失速そのものは逃れられない運命だったのかもしれません。最大の武器であるハイトーン・ヴォイスも年齢や不摂生とともになかなか出づらくなって。2010年、最後の来日となったさいたまアリーナ公演も最前列で観たけれど、その帰りに「今まで観た中で史上最低のライブ」だなぁ、と僕は激怒していました。お腹がめちゃくちゃ出ているのはしょうがないとしても、1曲歌うごとにハーハーしてMCで「I’m so tired」って何度も言うんですよ。「because I’m 46 years too old」って。こっちは、知ったこっちゃないよ!って。日本人はおとなしく受け入れていましたが、その後のオーストラリアやロンドンでは客が大ブーイングして暴動騒ぎが起こったとニュースになり、ツアーは続行できずキャンセルされたはずです。ただ、それがホイットニーを最後に観た姿で、そのまま2年後にあの悲報ですから……。経済的にも破綻して。その3年後には22歳になった愛娘ボビー・クリスティーナまで同じ亡くなり方をしてしまう。ボビー・クリスティーナは、日本でのライブ、僕の並びの列で母ホイットニーの姿を観ていたんです。10代の、快活そうな彼女の姿が忘れられないです。
―― 元妻と娘を失うことになったボビー・ブラウンには新しい家族がいるぶんだけ同情ではなく非難の声が殺到しましたね。
西寺 ボビーよりも先に、ホイットニーが強い薬に手を出していたという話もあるんです。個人的にはボビーはもちろん超遊び人のダメな亭主だと思いますよ(笑)。でも、憎めないキャラクターでもあった。ボビーが元妻ホイットニーの訃報を聞いたとき、再結成したニュー・エディションのライブ・ツアー中だったんですよ。彼がどういう対応をするのか注目が集まるなか、彼はDJにホイットニーの「You Give Good Love」(’85年7月全米3位)をかけさせたんです。
- ホイットニー・ヒューストン
- 『そよ風の贈りもの』(1985年)
- デビュー曲「You Give Good Love」を含むホイットニー・ヒューストンの1stアルバム。
- ソニーミュージック オフィシャルサイト
結婚生活の終盤では、ドラッグ漬けのボビーがホイットニーの顔に娘の前で唾を吐き、激怒したホイットニーが娘を連れて家を出て行くということもあった。地獄じゃないですか。ボビーは80年代末から90年代初頭にかけてセックス・シンボルとして、とんでもない成功を手にしたけれど、ホイットニーと結婚して以降「ホイットニーの旦那」としか認識されなくなってしまった。本人の自堕落な暮らしと、ブームの終焉で『ボディガード』で未曾有の成功を収める妻と反比例するようにどんどんキャリアが急降下していった。同業者だからこその、軋轢も生まれてしまった。その果てに、ボビーが元妻の訃報を受けて鳴らした「You Give Good Love」。「グッドなラブを君はくれたって」って……。このタイトルはものすごい簡単なフレーズだけど、人間の本質をついている、素晴らしい楽曲だと思いますね。この曲は、彼女のデビュー・シングルだったんです。ボビーとホイットニーは、互いのキャリアを結果的に墜落させ、娘まで亡くした史上最悪のパートナーとも言われるんですけど、そこに確かに「愛」はあったと、僕はそう思います……。ホイットニーの人生で、いちばん素顔に近い状態を曝け出せたのはボビーに間違いないでしょうし。運命で結ばれたふたりだった。僕は、マイケル・ジャクソンが亡くなった時、マイケルが大人の男性として心を許せた真のパートナーがいたのかなぁ、と、もしいれば幸せだっただろうな、と思いました。でも、ホイットニーにはボビーがいた。人生の最期の瞬間に「You Give Good Love」を流してくれた元旦那がいたという事実だけで、ホイットニーは幸せだった、と思ったりもしましたね。
―― あ、この瞬間、僕が抱いていたボビーの悪いイメージが少し変わりました。
西寺 そうですか。でもバッドボーイには変わりないと思いますよ(笑)。ボビー、日本に来たら、たこ焼きが大好きで美味しそうに食べてるそうです(笑)。なんか、憎めないんですよ(笑)。ちなみに、ホイットニーがボビーと結婚したのは『ボディガード』製作時で1992年夏。つまり彼女は公私共に絶頂の瞬間に、あの「オールウェイズ・ラヴ・ユー」の♪IF I~を録音しているんです。愛するボビーに向けて歌ったからこそ、あの名唱が生まれたと考えればボビーの評価ももう少し上がるかもしれません。ただ、『ボディガード』のとてつもない成功以降、歌手としてのホイットニーは徐々に時代の潮流とズレていってしまいます。
――先ほど郷太さんが指摘した、サウンドやリズムに溶け込む心地よい鋭さが重視され始めた90年代が始まっていたんですね。
西寺 ですね。前回の連載でも話しましたが、90年代の流行りに比べて、ホイットニーのボーカルはよくも悪くも「歌そのものの味付け」が濃すぎたんです。「歌のうまさ」が条件だった、60-70年代型ソウル・シンガーが辿り着いたひとつのゴールがこの1992年。誰も追いつけない俊足の「アスリート」だけに、動物的な楽曲の咀嚼力があった。もちろんデイヴィッド・フォスターのプロデュース力と、クライヴ・デイヴィスの宣伝力、ケヴィン・コスナーの映画人としての鋭い感覚の賜物でしたが、知る人ぞ知るカントリーソングだった「オールウェイズ・ラヴ・ユー」を誰もが認める20世紀を代表するラヴ・バラードに昇華させたのは、ホイットニーですから。
- ホイットニー・ヒューストン
- 「オールウェイズ・ラヴ・ユー」
- ソニーミュージック オフィシャルサイト
――「アスリート」としての寿命を全うした観がありますね。
西寺 だからいま思うのは、ひとりの女性として最強に魅力的な状態で、映画『ボディガード』にその姿を真空パックできた。「オールウェイズ・ラヴ・ユー」をCD盤に刻めた、そのことこそが「アスリート」としての彼女のすべてだったんじゃないかと思うんです。この作品の中には彼女自身の人生まで透けて見えてきますから。クリエイター、ミュージシャン、アーティストではなく歴史に名を刻んだ「アスリート」としてホイットニー・ヒューストンを評価すれば、彼女も報われる気がするんです。だって、本当に誰も飛べないような高さとスピードで、ポップ・ミュージックのフィールドを駆け抜けた人ですから。
聞き手/安川達也(otonano編集部)
- ホイットニー・ヒューストン
- 『愛よ永遠に~ボディガード25周年記念盤』
- (2017年)
- ソニーミュージック オフィシャルサイト
- 映画『ボディガード』公開25周年記念して、同作のホイットニー・ヒューストンに関わる楽曲だけにクローズアップした企画アルバム。残念ながらホイットニーは2012年にロサンゼルスのホテルで享年48歳という若さで事故死し、葬儀にはクライヴ・デイヴィスほかスティーヴィー・ワンダー、アリシア・キーズ、ケビン・コスナーら錚々たるゲストが彼女を天国へと見送ったことでも話題となった。本作には「オールウェイズ・ラヴ・ユー」レコーディング時の初テイク音源含む未発売音源なども多数収録。Blu-Spec CD2仕様。
- 『ボディガード』
- アメリカ映画・1992年
- 監督:ミック・ジャクソン
- 製作 :ローレンス・カスダン 、ジム・ウィルソン、ケビン・コスナー
- 出演:ケビン・コスナー、ホイットニー・ヒューストン、ミシェル・ラマ・リチャーズ、ゲイリー・ケンプ ほか
- ブルーレイ ¥2,381+税
DVDスペシャル・エディション ¥1,429 +税
ワーナー・ブラザース ホームエンターテイメント
The Bodyguard, © 1992, Package Design & Supplementary Material Compilation © 2012 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
- ワーナー・ブラザーズ ホームエンターテイメント
- オリジナル・サウンドトラック
- 『ボディガード』
- (1992年)
- ソニーミュージック オフィシャルサイト
- 1992年11月17日全米発売、同12月6日に日本発売。アメリカ国内だけで1800万枚(歴代12位)、日本だけでも180万枚(洋楽歴代6位)、全世界で4400万枚(歴代3位)の歴史的セールスを記録し史上最も売れたオリジナル・サウンドトラック盤として愛され続けている。全13曲中、前半6曲がホイットニー・ヒューストンの歌唱曲で「オールウェイズ・ラヴ・ユー」(全米1位)、「アイム・エヴリ・ウーマン」(同4位)、「アイ・ハヴ・ナッシング」(同4位)がトップ10ヒットとなった。第36回グラミー賞においてAlbum Of The YearとRecord Of The Year(「オールウェイズ・ラヴ・ユー」)を獲得するという偉業も達成した。