落語 みちの駅

第七十八回 花緑さんの「柳田格之進」
 10月27・28日に霞ヶ関・イイノホールで柳家花緑さんの独演会「花緑ごのみ」。私は2日目を聴きました。演目は「堪忍袋」と「柳田格之進」。

 細かいことよりもまず、口跡明瞭でパワーと品格に満ちた語り進めが見事でした。聴き慣れすぎた噺の前半なのに、小細工なく正々堂々、聴き手を噺に引き込んでいきました。いわゆる釈ダネ――講談が基のこの噺は、こうでなくっちゃアいけません。このところ芸柄がいちだんと大きく、たくましくなっているのはうれしいことです。若さと鮮度のよさと語り部としての大きさとがよいバランスで共存する期間というものは、そうザラに、またそう長年月続くものではありませんから、この花緑の旬をしばらくの間、大切に楽しみたいものです。

 勢いに乗って、ということか、花緑さんは噺の後半から結末にだいぶ手を加えました。現代人には理解しにくい封建時代の価値観をどうにかしたい。その思いは三代目志ん朝以降の演者に共通したもので、私たちもさん喬さんをはじめ、多くのサンプルを知っています。

 花緑版の結論を言えば、当面のところ、失敗ではありませんが、準成功といったところでしょう。

 おとなの知恵でははぐらかされる志ん朝版、少しシリアスに釘付けをするさん喬版にくらべて花緑版は丁寧で不自然感も無理もないのですが、そのために人物が一人ふえ、場面もひとつふえ、クライマックスからコーダの生理感に淀みが生じ、聴き手によっては説明的だ、いや説明のための説明に落ちかかっている、と感じたでしょう。作品の後半に要素がひとつふえるのは芝居であれ音楽であれ危ういことです。

 じゃ、変えないほうがいいのか。そうではありません。手を加えなければ近未来ますます遠い噺になりそうですから、大いに挑戦してほしいのですが、なかなか一筋縄ではいかない。これからも試行錯誤が続きそうですが、今回の花緑版はこの十数年でいちばんの成果をあげたと思います。

「柳田格之進」は古風な情理がギッシリ詰まった噺ですが、煎じ詰めれば「自己犠牲」の噺。歌舞伎やオペラにはこの種のストーリーがたくさんあって、それは今もそのまま上演されているのですから、落語家さんだけがあまり苦しむ必要もないのでは……とも思います。不条理を客にわからせないように演じることこそ「芸」だという考え方もあるにはあるのです。

 そのへんがスッキリしたほうがいいには違いありませんが、噺の根幹にいきなり手を付けるのは危険です。この噺には他にも妙なところが散見されます。萬屋ほどの大店でどうして若旦那やお内儀さんが出てこないの? お内儀がいて、柳田の娘が奥女中として雇われている。そんな構図も自然なのですがね?……




第七十八回 花緑さんの「柳田格之進」
「渋谷に福来たる2015」色紙

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。