落語 みちの駅
第七十五回 芸名というもの
九月上旬になって、この秋の真打昇進とそれに伴う襲名披露パーティが相次ぎました。落語芸術協会の桂小南治さんはすでにベテランの真打ですが、師名を継いで三代目桂小南を襲名しました。落語協会の真打昇進者三名のうち桂三木男さんは祖父・叔父の名を継いで五代目桂三木助を襲名。柳家こみちさんは名前を変えず、こみちのまま。古今亭志ん八さんは旧師の名前を継いで二代目古今亭志ん五を襲名と、各人各様です。
新・三木助さんの師匠・当代金原亭馬生さんは挨拶で明言しました。「三木助のような大名跡は(真打昇進と同時ではなく)少し様子を見てからにすべしとの意見もありましたが、私は(三代目夫人にして四代目の母である)仲子さんが健在のうちに襲名させたかった」。
これは正しい考え方だと思います。名跡は大切に、慎重に扱うべしという見識論は今も健在ですが、遅かれ早かれ「この人が襲名する」という暗黙の合意が成り立っている場合は、当人も周囲も思い切って積極論をとることが、より人間的な対応と申せましょう。
新・志ん五さんは二代目です。まだ初代の印象が薄れていない時点での襲名です。今までなかった名前を名乗ればその人が初代になるのは当然ですが、その初代が現役のうちは当人も周囲もあまり初代、初代と言わないものです。「○○といえばあの人」と誰もが特定し得る段階では、何代目なのかは必要性の低い事柄だからです。かつて落語の爆笑王から喜劇俳優に転身した柳家金語楼を特に初代と呼ぶ習慣はないのです。
しかし二代目が誕生すれば識別のためにも初代、二代目の称号が自然に確定するというものです。
つまり、初代あってこその名前なのですが、二代目が生まれることで「初代」のランプが名実ともに点灯するというわけです。「志ん五」は三代、四代と続くべき名跡へのスタートを切りました。
こみちさんは改名せず。師匠・柳亭燕路さんが自分の「路」と自分の師・小三治の「小」を合わせて付けた名前だそうですが、女流落語家として我が道を行く決意をしたこみちさんがその名に宿る初心を大切にした結果のようです。
名前を変えないのも芸人の一つの行き方です。大成すればそのひとが初代になるわけでして、女流らしいこの名前をこみちさんが大きくしていくことでしょう。
「こ」の字だけ漢字にするのもアイディアでしょうが、そうするとまるで芸者さんのようになってしまいます。
「小さん」「小満ん」「小のぶ」「小はん」「小里ん」……、女性であれば、芸者さんかな?と思われても無理はありません。
(※写真:9/2五代目桂三木助襲名披露パーティでの挨拶)
新・三木助さんの師匠・当代金原亭馬生さんは挨拶で明言しました。「三木助のような大名跡は(真打昇進と同時ではなく)少し様子を見てからにすべしとの意見もありましたが、私は(三代目夫人にして四代目の母である)仲子さんが健在のうちに襲名させたかった」。
これは正しい考え方だと思います。名跡は大切に、慎重に扱うべしという見識論は今も健在ですが、遅かれ早かれ「この人が襲名する」という暗黙の合意が成り立っている場合は、当人も周囲も思い切って積極論をとることが、より人間的な対応と申せましょう。
新・志ん五さんは二代目です。まだ初代の印象が薄れていない時点での襲名です。今までなかった名前を名乗ればその人が初代になるのは当然ですが、その初代が現役のうちは当人も周囲もあまり初代、初代と言わないものです。「○○といえばあの人」と誰もが特定し得る段階では、何代目なのかは必要性の低い事柄だからです。かつて落語の爆笑王から喜劇俳優に転身した柳家金語楼を特に初代と呼ぶ習慣はないのです。
しかし二代目が誕生すれば識別のためにも初代、二代目の称号が自然に確定するというものです。
つまり、初代あってこその名前なのですが、二代目が生まれることで「初代」のランプが名実ともに点灯するというわけです。「志ん五」は三代、四代と続くべき名跡へのスタートを切りました。
こみちさんは改名せず。師匠・柳亭燕路さんが自分の「路」と自分の師・小三治の「小」を合わせて付けた名前だそうですが、女流落語家として我が道を行く決意をしたこみちさんがその名に宿る初心を大切にした結果のようです。
名前を変えないのも芸人の一つの行き方です。大成すればそのひとが初代になるわけでして、女流らしいこの名前をこみちさんが大きくしていくことでしょう。
「こ」の字だけ漢字にするのもアイディアでしょうが、そうするとまるで芸者さんのようになってしまいます。
「小さん」「小満ん」「小のぶ」「小はん」「小里ん」……、女性であれば、芸者さんかな?と思われても無理はありません。
(※写真:9/2五代目桂三木助襲名披露パーティでの挨拶)