DJ OSSHY TOKYOの未来に恋してる!
安心・安全・健康的なディスコ・カルチャーを伝達することを使命とするDJ OSSHYのインタビュー連載
DJ松本みつぐさんが伝えたかったのは最高の音楽なんです。私も現役DJとしてその現場主義のバトンを持って、良い音楽をひとりでも多くのリスナーに伝えていきたいです。
―― 7月21日、ディスコDJの草分け的存在として活躍されていた松本みつぐさんが急逝されました。OSSHYさんはいち早くご自身のラジオ番組で追悼特集を組んでいましたね。
OSSHY 居ても立ってもいられないという感じでインターFM『RADIO DISCO』の生放送のなかで追悼させてもらいました。そのあと、参列させてもらった告別式は日曜日だったんですが、夕方に『サンデーディスコ』という私のレギュラーイベントがありまして、ここでは現場で追悼DJプレイさせてもらいました。嬉しいことにこれがまた盛況だったんですよ。200人くらい集まってくれて。みつぐさんの真骨頂といっても過言ではないような楽曲の数々の一曲一曲に私なりのMCを入れていきました。亡くなられた直後はまだ心の整理がつかないまま、自分ができる精一杯のことをやらせてもらいました。
―― OSSHYさんにとって、松本みつぐさんは、どんな存在だったのですか。
OSSHY 心から尊敬するDJでした。みつぐさんは享年63で、私は52歳なのでDJの世界ではひとつ前の世代。永遠の大先輩です。ディスコ、日本における第1次ディスコブームというのが1974~75年あたりといわれているのですが、その頃からみつぐさんはすでにディスコDJとして活動していて、1978年の第2次ディスコブーム、いわゆる『サタデー・ナイト・フィーバー』に端を発した“フィーバーブーム“の時には、みつぐさんはもう現場ではスタープレイヤーでした。新宿の「ニューヨーク・ニューヨーク」とか「ゼノン」とか東亜会館と呼ばれるいわゆるディスコ・ビル、ここを全部仕切っていたメインDJでした。「レッドモンスター」っていう愛称がある方で、ファションすべてに赤を取り入れているんですよ。傘から靴からジーンズからなにから何までもう持ち物が全部赤なんです。一番目立つ赤シャツがトレードマークだったから「赤シャツ」のみつぐさんというほうがピンとくる人がいるかもしれませんね。
2017年7月21日に逝去された松本みつぐ氏
(『オールスター80’sノンストップ・ベスト』対談より/7月12日撮影)
―― DJとしてみつぐさんから学ぶことも多かったのですか?
OSSHY ディスコのDJプレイにMCを入れていく手法を生み出したパイオニアがみつぐさんですからね。楽曲と楽曲をミキシングでグルーブを作って起承転結させる手法は絶対基本なんですけど、みつぐさんはさらに楽曲と楽曲をMCで繋ぐという離れ業をやってのけた方です。MCを入れていく新宿スタイル=DJ松本みつぐスタイルなんです。
―― それは当時としては斬新なスタイルだったのですか。
OSSHY はい。70年代当時、不特定多数に音楽を紹介するメディアとしていちばん影響力があったのはラジオでした。その世界では糸居五郎さんらがその先がけでしたよね。ラジオDJが紹介する発売年、チャート、アーティストなどベーシックな情報を電波に乗せるのではなく、それをディスコの箱で踊っているオーディエンスにディスコDJが直接話しかけていくんですよ。これは斬新。さらにみつぐさんがスゴいというか、支持されたのは単調なシンプルなバイオ紹介で終わらなかったことです。今日の天気がどうだとか、世相を反映したおしゃべりとか、フロアのお客さんをいじったりとか、キャッチボールのような会話をしたりしながら曲を繋いでいくんです。お笑い芸人がDJをやっているようなノリですよね。エンターテインメントあふれるDJスタイル。ディスコから発信される最先端のカッコいい音楽カルチャーの拡散に笑顔や笑いや庶民的なエンタメ要素を取り入れたのが松本みつぐさんでした。それが新宿歌舞伎町のドンといわれた所以でもあり、唯一無二の存在でした。
―― 比較的スマートに曲を紹介するOSSHYさんのMCスタイルともまたちょっと違いますよね。
OSSHY そうですね。一方で、そんなみつぐさんの新宿スタイルを嫌っていた人たちもじつは大勢いたんですよ。それがいわゆる六本木族となっていくんです。六本木のDJはまったくMCを入れない。選曲とミキシングだけでお客さんを盛り上げ、クールに淡々と曲を繋ぐだけ。新宿とは正反対なんです。その新宿と六本木の間、立地的にもまさに中間点に位置したのが渋谷。連載第2回目【DJ修行時代】でもお話した私のDJとして原点ですね。適度にミックスして適度にしゃべるという、まさに中間点の渋谷スタイルが私のスタイルにもなっていったんです。
―― みつぐさんは渋谷や六本木のディスコではDJをやっていなかったんですか?
OSSHY あまりやっていなかった。もうホント新宿歌舞伎町の主みたいな、そんな存在でしたから(笑)。80年代以降になってからは全国的なディスコ・イベントがあれば必ずと言っていいほどみつぐさんが呼ばれていくっていう流れになっていましたね。ディスコのために、もう本当に全国行脚をされていましたね。
―― 共演は?
OSSHY けっこうさせていただきました。それこそ、同じ箱で一緒にDJをやらせてもらったというのではなくて。90年代のクラブ・カルチャー以降、2000年代からですね。ディスコがまた復活の兆しに入ってから、この20年くらいのあいだ。いろんな各所でご一緒する機会に恵まれまして。やっぱり間近でみつぐさんのDJプレイを拝見できたのですが、とても真似できないですね、あのスタイルは。まずはやっぱり笑いを交えたMCが真似できない(笑)。もはやDJにおける伝統芸能ですね。もうひとつみつぐさんのスゴいところを再確認したのは、フロアで一体感を生みながら、みんなを笑顔にさせること。やっぱりこの部分もパイオニアなんですよね。……でも、みつぐさんの最も尊敬する部分は技術ではなくて、どんな時代のどんな流れにあったとしてもステージにずっと立ち続けたっていうことですね。これは本当に尊敬ですし、じつはその姿勢の背中を私は追い続けていたんです。
松本みつぐ氏がプロデュースしたCD『オールスター80’sノンストップ・ベスト』2017年7月26日発売
―― 生涯現役DJだったんですね。
OSSHY やっぱりみなさん途中でリタイアするんですよ。『サタデー・ナイト・フィーバー』の時代にディスコDJをやっていたスタープレイヤーの多くは、バブル後の1990年くらいを境にしたクラブ・カルチャー台頭時に辞めているんですよ。70~80年代ディスコ=ダサい象徴のように悪の扱いをされたことが原因でDJする場所も少なくなってしまった。ディスコDJを引退してサラリーマンになったり、自営業で家を継いでいく方達を何人も見てきました。その時にも、みつぐさんはディスコの現場に立ち続けて、クラブ時代になっても、新宿スタイルでディスコをやっていたんです。すごいですよね。本当に尊敬します。
―― FM多局化時代も迎えていた頃ですから、ラジオDJのお声もたくさんかかったはずですよね。
OSSHY 鈴木しょう治さんっていう方がいらっしゃいますね。ラジオ界では御大の。ディスコDJ界ではジュリーさんっていうニックネームで知られた方です。みつぐさんの同期で無二の大親友。今回もお葬式では友人代表の喪主に近いお役目をされていました。鈴木しょう治さんは、80年代の半ばくらいになって、だんだんディスコに陰りが見えてきた時に敢えてラジオの方に行ってしまうんです。「もう俺はラジオのメディアの方でダンスミュージックを紹介していく。みつぐはディスコの現場を頼んだ、よろしくな!」って。親友同士、「メディア」と「箱」という位置づけで分かれてお互いディスコ・ミュージックを盛り上げていこうと。鈴木しょう治さんもディスコ時代を作ってきた人なので、お互いそういう志が高い位置づけで握手をされたんですね。そしてみつぐさんは最後までその約束を全うされたんです。だから、生き方としても尊敬すべき人です。生涯現場主義、僕も目指していきたいですね。
Various Artists
『ディスコ・フリーク』
(2007年)
―― OSSHYさん監修・選曲の『ディスコ・ラヴァーズ』もみつぐさんに縁が深いと聞きました。
OSSHY そもそも『ディスコ・ラヴァーズ』(2015年)は、みつぐさんが選曲された『ディスコ・フリーク』(2007年)が前身みたいなものですから。『ディスコ・フリーク』の宣伝マン=DJ OSSHYという位置づけは、それはある意味、みつぐさんからの使命を受けて私が率先してPRしたからです。宣伝していく流れの中で、全編OSSHYの選曲盤をもあったら面白いですよねというスタッフとの雑談から生まれたのが『ディスコ・ラヴァーズ』ですから。みつぐさんの70年代を中心にした『ディスコ・フリーク』の続編として80年代をメインにした私の『ディスコ・ラヴァーズ』という位置づけですから。みつぐさんの意志をそのまま受け継いだようなものです。だから縁が深いというか、思い入れがめちゃめちゃ深いです。
「ハッスル」ヴァン・マッコイ&ソウル・シティ・シンフォニー
1975年8月4日付よりオリコン洋楽シングル・チャート19週連続1位
*写真のアナログ盤は廃盤
*『ディスコ・ラヴァーズ』Disc3に収録
「ジンギスカン」ジンギスカン
1979年8月6日付よりオリコン洋楽シングル・チャート5週連続1位
*写真のアナログ盤は廃盤
*『ディスコ・ラヴァーズ』Disc3に収録
―― 『ディスコ・ラヴァーズ』の中に、みつぐさんを想起させる楽曲もあるのですか?
OSSHY ディスク3は今となっては追悼盤の様相かもしれません。アタマからアヴェレイジ・ホワイト・バンド「ピック・アップ・ザ・ピーセズ」、スタイリスティックスの「愛がすべて」、ヴァン・マッコイ&ソウル・シティ・シンフォニー「ザ・ハッスル」、ホット・ブラッド「ソウル・ドラキュラ」……まさにみつぐさんの世界。「ザ・ハッスル」「ソウル・ドラキュラ」なんて、みつぐさんが新宿から世間に広めて大ヒットさせたといっても過言ではないですからね。あと「ジンギスカン」とかね。このあたりの質感。まさに新宿のディスコではバンバンかかっていて、六本木ではほとんど聴こえてこなかったっていう。新宿スタイルの頂点に立つみつぐさんの鋭い嗅覚でしたね。……あと、みつぐさんのことでもうひとつだけお話したいエピソードがあるのですが、いいですか?
―― もちろんです。聞かせてください。
OSSHY 私の両親が、アナウンサー出身ということをご存知の方も多いと思います(編集部注:父・押阪忍/母・栗原アヤ子)。このふたりは私がディスコの道に入った時に猛反対したんです(笑)。本当にここ数年ですよ、ようやくDJを仕事にしていることを認められたのは(笑)。そんな中で、私のラジオ番組もチェックするようになった時に、ゲストでみつぐさんに出演してもらった放送回をふたりで聴いていたらしく、みつぐさんにえらく感動していたんです。「松本みつぐさんのDJは素晴らしい」と初めて認めていなかったディスコDJを褒めたんです。息子の私のDJではなく、ね(笑)。気に入ったきっかけがあの独特なやっぱりMCだったんです。父も母もテレビやラジオの世界で生きてきた人間とはいえ音楽・選曲の細かいところまでは分からないはず。でも、リスナー側に立った時の物差しを誰よりもしっかりと持っているふたりなんです。「次の曲の持っていきかた、言葉で曲を持っていくやりかた、その言葉の力を使ったパフォーマンスが素晴らしい!」と特に父が感心していました。あのエピソードは忘れられません。同じことは当然私には出来ないですが、その父が言わんとしたことは今でも充分理解しています。結局、現場でも、ラジオでも、どんな時でもみつぐさんがいちばん伝えたかったのは最高の音楽なんです。言葉はその手段。私も現役DJとしてそのバトンを持って、良い音楽をひとりでも多くのリスナーに伝えていきたいです。今は心からそう想いますね。
インタビュー/田中久勝 文/安川達也(otonano編集部)
松本みつぐさんは、2017年7月21日に逝去されました。
スタッフ一同、心よりご冥福をお祈りいたします。
DJ OSSHY 出演スケジュール
8月10日(木) | QVC ゲスト生出演 21:00~22:00放送 ※紹介商品 DJ OSSHY監修・選曲『ディスコ・ラヴァーズ』 |
---|---|
8月12日(土) | 「RADIO DISCO」InterFM897 14:00-17:00 生放送 |
8月14日(月) | 『ファミリー・ディスコ』&『80’s Night Fever in CITTA’10th Anniversary Special!』@CITTA’ |
8月18日(金) | ナバーナマンスリーパーティー@nishiazabu alife |
8月19日(土) | 「RADIO DISCO」InterFM897 14:00-17:00 生放送 |
8月25日(金) | Disco Night Aquarium~フライデーナイトフィーバー~@日本橋三井ホール |
8月26日(土) | 「RADIO DISCO」InterFM897 14:00-17:00 生放送 |
8月27日(日) | サンデーディスコ@nishiazabu alife |
イベントは変更になることもございます。
詳しくはDJ OSSHY公式サイト(www.osshy.com) をご参考ください。