DJ OSSHY TOKYOの未来に恋してる!
安心・安全・健康的なディスコ・カルチャーを伝達することを使命とするDJ OSSHYのインタビュー連載
80年代初め当時のディスコは「不良の溜まり場」という見られ方をしていたんです。そんなところで高校生が働くなんてと親にも怒られました。この時のこの思いが、のちに、ディスコのイメージを変えたいという考え方に繋がっています。
―― 発売中のOSSHYさんの著書『ディスコの力』(PHP研究所)の中に、DJ修業時代の話が書かれていて、その中で、先輩DJがかけた曲を全部書き留めて、曲が被らないようにしたという、当時に苦労話が印象的でした。
OSSHY 学生時代、友達に連れられて初めてディスコに行き、その時に音楽がノンストップで流れている事に衝撃を受け、それからはDJブース、DJ目当てに毎週ひとりで通っていました。1か月くらい通うと、お店のDJから「見習いをやってみるか?」と声をかけてもらい、迷わず飛び込んで行きました。当然親からは反対され、当時ディスコは「不良の溜まり場」という見られ方をしていて、そんなところで高校生が働くなんて、と怒られました。でもどうしてもDJになりたくて、この時のこの思いが、のちに、ディスコのイメージを変えたいという考え方に繋がっていると思います。それで、当時の人気サーファー・ディスコ、渋谷「キャンディ・キャンディ」で修業させてもらいました。
DJ OSSHY著作『ディスコの力』(PHP研究所)
当時はDJという職業は、みんなの憧れの存在で、本当に狭き門でした。でも見習い、弟子というのはその華やかな世界のイメージとは裏腹に、仕事はというと掃除をしたり、先輩のお世話をしたり、地味で、きつかったですが、でも僕は全然平気でした。先輩が店でかける曲と、照明の演出を全部メモしていました。曲調に合わせて照明をいじるのも、曲を覚えるためのひとつの勉強と修行でした。一曲一曲に起承転結があるので、ここでマイナーキーに変わったり、メジャーキーになって上がっていくとか、そういう曲の構成を知る上でも、照明というのはすごく大切なんです。照明でお客さんの盛り上がりをいじることもできる。DJ、ライティング、映像というのは、セットで持つべき技術だと思います。それから1年ちょっと、勉強を続けて、ようやく正式なDJとしてデビューしました。それが1982年です。
渋谷のキャンディ・キャンディで先輩DJのRickさんと。
―― その日のプレイリストは、あらかじめ考えていくものなのですか、それともその場で考える事が多いのでしょうか?
OSSHY 後者ですね。全部アドリブ。アーティストのライヴのセットリストとは違って、ディスコの場合はその時のお客さんの雰囲気でかける曲をどんどん変えていきます。ある程度の選曲のイメージはしておきながら、「今日のお客さんは、ステップ系の人が多いな」と思ったら、そういう曲に変えたり、本当はサーファー・ディスコ系の80年代の曲を予定していたイベントなのに、「客層を見るとユーロ系の方がウケが良さそうだなぁ」と思ったら、思い切り方向転換したり。その場の空気で、自分でアレンジしていく、DJのそういう現場で即断していく醍醐味にも魅力を感じていました。
―― 曲によってお客さんのノリや反応はガラッとかわりますよね。
OSSHY かけた曲でノリが悪いとか、お客さんがフロアからひいてしまうと、もうパニックですよ(笑)。何度もそういうシーンを経験しました。自分の中で一番かっこ悪いなと思う失敗が、これは盛り上がる、カッコイイ曲だと思っていた曲がフロアでは全然うけなかった時です。自分のセンスがその日のお客さんに通用しない事が一番辛いですし、じつはその戦いは今も続いています。それとDJをやっていると色々なアクシデントがつきものです。例えばレコード針に埃がたまってスリップしてしまったり、電源が落ちてしまったり、明らかに自分のミスによるものと、仕方がないアクシデントがあります。それをどうやって軌道修正するかが、プロとアマの違いだと思います。ミスがあってもそれをお客さんに気が付かれないように、何事もなかったかのようにさりげなく修正していく術は、もう場数を踏んで学ぶしかないと思います(笑)。これは経験しかない。今は、機能性の高い、コンパクトなDJ機材が安く手に入るようになって、一億総DJ時代と言われていて、若い人たちに自称DJ君達が多いですが、どう空気を読んでお客さんを盛り上げていくか、トラブルにどう対応していくのかが一番大切だと思います。
渋谷「キャンディ・キャンディ」の人気ナンバーを紹介するDJプロマイド
―― ターンテーブルも変わりました。今でもレコードを回している若い人もいますが、プレイリスト音楽はパソコン内にデータとして存在することも多いですね。
OSSHY そうですね、70年代、80年代のディスコはDJブースに全てのレコードが揃っていました。それをみんなで共有物として使っていましたが、90年代に入って持ち込みというスタイルになってきて、持ち込みの形態もレコードを段ボールに入れてラックに乗せて引っ張って持って行っていたのが、今はノートPCの中に何万曲も入っていて。全然変わりましたね。
―― OSSHYさんというと、ボーイズ・タウン・ギャングの「Can't Take My Eyes Off You」(1982年)をディスコでかけまくって、それがきっかけとなって「君の瞳に恋してる」として日本中に広がっていったというイメージがあります。
OSSHY 当時レコード会社がプロモーションで、ディスコに配っていたレコードの中の一枚にボーイズ・タウン・ギャングのアルバム『DISC CHARGE』があって、「君の瞳に恋してる」はその中の一曲でした。「君の瞳に恋してる」は約8分のいわゆるロングバージョンのRepriseバージョンと、約3分強のノーマルバージョンがあって、他にもダイアナ・ロスの「Ain't No Mountain High Enough」のカヴァーもアルバムに入っていました。そしてスリー・ディグリーズ「When I Will See You Again(天使のささやき)」、彼らの曲としてはこの3曲のクラシック・カヴァーが、当時はディスコでかかっていました。
「君の瞳に恋してる」ボーイズ・タウン・ギャング(1982年)
ビクター音楽産業(当時) *写真のアナログは廃盤
1982年12月6日付~12月20日付オリコン洋楽チャート3週連続1位
―― ボーイズ・タウン・ギャングの「君の瞳に恋してる」「天使のささやき」はOSSHYさんが選曲監修した『Disco Lovers』にも収録されていますね。
OSSHY はい。「君の瞳に恋してる」は、映画『ジャージー・ボーイズ』でも描かれていましたが、フォー・シーズンズのヴォーカルだったフランキー・ヴァリがオリジナルで、とにかく色々なアーティストがカヴァーをして、多くのヴァージョンが存在していますが、やはりボーイズ・タウン・ギャングのカヴァーがフロアでは断トツです。ディスコの現場ではほとんどこのカヴァーしか流れない。それぐらいディスコの鉄板曲になっています。とにかくその爆発力たるや凄まじく、1982年の作品なのに35年経っても、今も一番盛り上がるフィナーレ曲です(笑)。
―― かけずには終われないという感じですね。この曲は欧米では大ヒットにはなっていなくて、発売から35年経った今もこんなに愛される日本独自のヒットという感じですよね。
OSSHY いまあらためて聴いても楽曲がよくできていると思います。曲中で展開される抑揚のある構成はなんともドラマティックです。日本人はそこに惹かれるのではないでしょうか。でもこのボーイズ・タウン・ギャングの曲も、90年代は不遇の時代でした。90年代の「クラブ」全盛時代は、「ディスコ」の鉄板曲が隅の方に追いやられて、10年間くらい不遇の時代がありました。その時代を経て、また2001年頃にディスコが復活して、そこから再びフィナーレの鉄板曲です。
「ガット・トゥー・ビー・リアル」シェリル・リン(1978年)
CBS・ソニー(当時) *写真のアナログは廃盤
90年代も人気があった曲はアース・ウインド&ファイアー「セプテンバー」、ドゥービー・ブラザーズ「ロング・トレイン・ランニン」、KC&ザ・サンシャイン・バンド「ザッツ・ザ・ウェイ」、このあたりは奇跡的にずっと鉄板曲としての人気が続いています。それとシェリル・リン「ガット・トゥー・ビー・リアル」は、90年代のクラブ全盛時代もずっと流れていて、今のR&B、HIP HOPアーティストもサンプリングしている人が多いですね。あ、ドゥービー・ブラザーズ「ロング・トレイン・ランニン」は正確には「ロング・トレイン・ランニン(ギター・ミックス)」です。大事なところです(笑)。(つづく)
インタビュー・文/田中久勝