落語 みちの駅
第六十五回 初仕事は旧書の改訂版
年があらたまったのは国際的に見ても周知の事実ですが、さりとて何をか言はむ、なのでありまして、年を重ねてまいりますと格別の抱負など口にするのはいささかならず憚る気持ちが働くものです。
元来、正月をあまり好みません。めでたさも楽しさも変にみんな画一的にしてしまうのはいかがなものか。そういうものは極めて個人的、個性的でないと深化も発展もしないというのが、素朴な私の考えです。
テレビの支配力が強まって、そんな考えを通しづらいのも事実ですね。年に一回、正月だけは寄席に行く、なんて常識も習慣も妙な話で、落語が三百六十五日の娯楽になる日は結局こないのでしょうか。
で、そう先は長くもない身ですから、正月は公然と世間を避けて個人的な仕事三昧の時を過ごすのが近年の習わしとなりました。
今年は二〇〇五年リリースの著作「落語博物誌」(弘文出版)の大改訂版の原稿作りをしていました。いま回顧してもホンモノの落語ブームだったと思える年に書いたものですから、そのまま現在に焼き直すわけにもいかず、結局、この10年を回遊する“放浪性”の強い仕上がりになりましたが、落語三百年の歴史から見れば、それは「小せえ小せえ」だと開き直っております。
この12年間で若い落語ファンが増加し、若手落語家の活躍もめざましい割には、ベーシックな落語対応がおざなりにされ、落語の根幹にしっかり視線を注ぐことがおろそかであるように思えてならないので、少しばかり小言幸兵衛の一冊にしたつもり。版元は変わりませんが今回は新書版で、タイトルは「これで落語がわかる」にしようかと――。リリースは花見時分か、初夏の頃か。
念のために申し上げますが、そこに満載の私見私論のそれぞれがすべて正論正義のはずはありません。でも、画一化され習慣化した落語対応、落語常識に妥協はしていない――とは思っている次第でして。
元来、正月をあまり好みません。めでたさも楽しさも変にみんな画一的にしてしまうのはいかがなものか。そういうものは極めて個人的、個性的でないと深化も発展もしないというのが、素朴な私の考えです。
テレビの支配力が強まって、そんな考えを通しづらいのも事実ですね。年に一回、正月だけは寄席に行く、なんて常識も習慣も妙な話で、落語が三百六十五日の娯楽になる日は結局こないのでしょうか。
で、そう先は長くもない身ですから、正月は公然と世間を避けて個人的な仕事三昧の時を過ごすのが近年の習わしとなりました。
今年は二〇〇五年リリースの著作「落語博物誌」(弘文出版)の大改訂版の原稿作りをしていました。いま回顧してもホンモノの落語ブームだったと思える年に書いたものですから、そのまま現在に焼き直すわけにもいかず、結局、この10年を回遊する“放浪性”の強い仕上がりになりましたが、落語三百年の歴史から見れば、それは「小せえ小せえ」だと開き直っております。
この12年間で若い落語ファンが増加し、若手落語家の活躍もめざましい割には、ベーシックな落語対応がおざなりにされ、落語の根幹にしっかり視線を注ぐことがおろそかであるように思えてならないので、少しばかり小言幸兵衛の一冊にしたつもり。版元は変わりませんが今回は新書版で、タイトルは「これで落語がわかる」にしようかと――。リリースは花見時分か、初夏の頃か。
念のために申し上げますが、そこに満載の私見私論のそれぞれがすべて正論正義のはずはありません。でも、画一化され習慣化した落語対応、落語常識に妥協はしていない――とは思っている次第でして。