落語 みちの駅

第五十八回 落語と芝居と志ん朝と
 10月1日は私ども落語関係者にとっては「志ん朝忌」です。来年はその17回忌、三代目古今亭志ん朝の実演を知らない落語家の卵が大勢いるほどの過去の人にはなったのですが、私などにはまだ鮮明な記憶が残っています。

 ご承知のように志ん朝さんは芝居が好きでよく出演していました。芝居は稽古・公演合わせて1か月がかりの大仕事です。「本読み」期間を加えれば短くとも一か月半、出演者は芝居に拘束され、客演する落語家役者は寄席という娑婆から隔離されます。

 役者・志ん朝の出番が多かったのは、都内では日比谷の芸術座、浜町の明治座、そしてこれも日比谷のの東京宝塚劇場(旧)でしょう。私が楽屋見舞に訪れたのも芸術座と明治座ばかりです。

 定席「東宝名人会」がにぎわっていた時代の話です。名人会は宝塚劇場の建物の4Fだったか5Fだったか……にあった東宝演芸場で催されていました。歩行者用信号などなくても済む、広めの横町のような道路をへだてて芸術座のあるビルとは向かい合いです。

 徒歩二分ほどの距離なのだから、と東宝名人会のプロデューサーは芸術座の芝居に出演する志ん朝さんに名人会の10日間出演を依頼しました。芝居は台本の都合で1時間ぐらい舞台に顔をださないことがあるので、そこを合理的に活用したいというプランです。

 「芝居ってのは大きく張ってセリフを言うのが基本でしょ」。志ん朝さんは拒絶しました。

 「落語は逆なんだ。芝居の調子でしゃべったら、とっても大味になっちゃう。一日の内に両方やるのは勘弁して下さいよ」

 以前、圓生さんにはやって頂きましたが、と食い下がったのはかえってヤブヘビになったようです。

 「圓生師匠とあたしじゃキャリアがちがうんだ。それにね、ウチのおやじなんかもそうだけど、マイクロフォンのない時代に鍛えた師匠たちは何軒も寄席をかけもちして、一百(いっそく)の所もあれば千人近いところまであって、声を調整するのが身についていた。あたしなんかにはとてもできない仕事ですよ」

 これ、志ん朝さんの芸への厳しさを物語るエピソードではありますが、もっと本音をさぐれば、そこまで仕事づくめになりたくなかったのです。たまにしか出られない芝居を楽しみたかったのです。

 「いいんですよ芝居は。落語と違って動きがあるから発散するしね。第一、顔を白く塗って別人になれるんだもの」

 芝居の匂いがする日比谷界隈は好きなエリアだったようで、CDアルバム「志ん朝 東宝」にはゴキゲンな志ん朝落語がたっぷり収録されています。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。