落語 みちの駅

第五十三回 権太楼さんと湯呑み
 お暑うございます。

 上野・鈴本演芸場の8月中席夜の部は恒例で柳家さん喬・柳家権太楼が交互にトリと仲入り前をつとめ、10日間のネタ出し(演目予告)もあって今年も盛況のようです。

 権太楼さんがこのところ夏風邪をこじらせたようで咳に悩まされています。途中だいぶ咳き込んだけれど「『子別れ』はよかった」とカメラマンの横井洋司さんが言っていました。

 8月4日の落語研究会でもだいぶ咳き込んだけれど近頃ご執心の「心眼」を手を抜かずに演じていました。「心眼」は今週17日にCDリリースされた演目です。

「心眼」といい「子別れ」といい、近年の権太楼さんは泣かせるネタにも力を入れています。かつては笑いの権太楼、泣かせのさん喬がセールスポイントだったご両所の対比がそう単純なものではなくなってきたように思います。ご両人それぞれに総合性の高い巨匠・大御所に近づいてきたということでしょうか。

 咳がとまらなくなるような事態に備えてか、このところ権太楼さんは高座に湯呑みを用意しています。いざとなれば白湯(さゆ)でのどを湿そうというわけですが、実のところ、それは咳どめのまじないのようなもので、当面、湯呑みに手を伸ばしてはいないようです。

 それに権太楼さんは規則的な間拍子(まびょうし)でゆったり語り進める語り口ではないので、話しながら湯呑みを手にとって、口を湿して湯呑みを戻すという間合いがとりにくいのでしょう。落語研究会での「心眼」のときもマクラで湯呑みを置く事情を述べた後、「圓生師匠のような話し方じゃありませんので」と客席を笑わせていました。

 いま、湯呑みを高座で愛用しているのは柳家小三治さんぐらいでしょうか。私の眼に残る“湯呑みの芸”も圓生さんばかりで、文楽、志ん生、金馬、三木助、小さんなどなどでは印象がありませんから、実は湯呑みは高座の必需品でもなんでもないのです。高座に火鉢と鉄瓶があった時代の名残なのでしょう。

 権太楼さんが早く湯呑みと縁が切れるよう願っています。数年前に体調を崩したあと一段と芸が成熟し、泣かせの落語にも新境地を開きつつあう権太楼さん。今回の咳き込み騒動から何がうまれるか? 湯呑みの湯を飲むことなんか、新境地でもなんでもありません。



※次回、第五十四回は8月26日更新予定です。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。