落語 みちの駅

第四十一回 花緑さんと「紺屋高尾」
 ゴールデンウィークをはさんで話が半分古いのですが、4月24日の柳家花緑独演会「花緑ごのみ」(霞ヶ関・イイノホール)で「紺屋高尾」を聴きました。以前からやっていたネタですが、だいぶ“らしく”なってきて、持ち味と芸風に適った、気持ちのよい高座ぶりが印象に残りました。

 という報告だけではひと月近くたって何をいまさらというわけですが、花緑さんは5月25日(水)の第575回落語研究会(国立小劇場)のトリでも「紺屋高尾」をやるのだそうです。話が半分古い、と記したのはその予定があるがゆえのこと。演者がある噺である域に差しかかったときをキャッチするのは楽しみなものです。

 といっても元来が不精の上に感覚のマヒを何より忌む私ですから、いわゆる追っかけなんかしたことは一度もなく、今回も一カ月に二度聴くペースを整えるのにひそかに腐心してはいるのですが。

「紺屋高尾」と「幾代餅」はどうちがう?

 そんな質問をよく受けます。「紺屋」は元来が講談で、落語より先に浪曲で大ブレークした噺、「幾代」は「紺屋」を少し簡略化して同工の「搗屋無間(つきやむげん)」を加味したものではないか、と答える気もなくなるほど、近頃は「紺屋」と「幾代」の雑種化が進んで、もう題名を分ける意味もないほどです。

 それが悪いとは一概に言えません。落語三百年の歴史はこうしたムーヴメントを呑みこんできたわけで、花緑さんの「紺屋高尾」もかの圓生がいた時代よりはだいぶ「幾代餅」化しています。「源平藤橘四世の者」などの講談の遺風は聴くことができません。

 こんな古風な噺が志ん生、圓生の時代よりしばしば演じられるようになったのは、純愛ストーリーの持つ力でしょう。一介の職人と全盛の花魁の身分のちがいなどはもう平成のテーマではなく、噺は現代の演者たちによっていつのまにか純・恋愛物語に変身をとげてきたのです。

 とはいえ誰がやってもいい噺というものでもないでしょう。素直で妙に個性に走らない芸柄でないとくすぐったくて聴いていられない噺でもあります。

 花緑流の爽やかな「紺屋高尾」が一段と磨かれることを期待しています。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。