落語 みちの駅

第三十九回 完全よりおもしろい不完全
「志ん朝 東宝」の特典盤には「鮑のし」も収録されています。

 これも珍品といってよいものでしょう。

 これもまたホール落語より寄席が似合う短編のネタなので、大御所や花形の演者にはあまり注文がきません。

 では寄席でならいつでも聴けるのかと言えば、そうでもない。シンプルな噺ですが、場面の転換が一度ならずあり、言い立てめいた口上もあって、いわゆる前座噺よりは難易度がずっと高い。

 その口上コーナーが典型的な鸚鵡(おうむ)返しの噺になるので、「子ほめ」「道灌」「金明竹」「熊の皮」などのあとの高座には掛けにくい。

 そんな事情ありで、落語入門者層向け演目のスタンダードナンバーでありながら、近頃じつはなじみの薄い噺になりつつあるようで、ましてや古今亭志ん朝で聴くことが叶うとなれば、こいつア春から縁起がいいわエってことなのであります。

 特典盤コーナーへ回したのは、通常サゲとされている「(杖突き熨斗は)鮑のおじいさん」までやっていないからです。

 いや、志ん朝さんはいつもこの流儀だったのではないかとも思われます。地主と甚兵衛との熨斗(のし)問答はそれほどおもしろくないし、ここまで来ると噺のボルテージも明らかに下がるからです。

 熨斗がすっかり紙製品に、さらに印刷で済まされる時代になると、この問答は噺のアクセサリー化してしまい、実感が生まれにくいのではないか?

 ついでに言えば、昔は庶民の食材だった鮑(あわび)が今や高級品になって、片思(重)いだなどと因縁をつけるのもお伽話の世界になりました。

 志ん朝さんは鮑の縁起のよさを説く熨斗の製造法にのくだりもごく簡略にしています。

 そんな、一見省略と思われかねない要素ゆえに特典盤にしたのですが、じつはかえって噺のエッセンスが濃くなっているようにも思います。愛すべき甚兵衛さの人柄が軽快なリズムに乗って躍動している「鮑のし」です。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。