落語 みちの駅
第三十回 「小三治ま・く・ら」誕生の頃
前回、柳家小三治さんの通販ルートのCD5枚組セット商品「まくら全集」の売れ行きが好調だと記しました。書きながらいろいろ思い出したことを述べてみます。
小三治さんの長くて型破りのまくらが評判になり出したのは、西暦ならば80年代の後半から90年代初めにかけてのことだったでしょう。小三治さんが50歳前後の時期で、その時分は上野・鈴本演芸場での定例独演会を年間5回もこなしていたのでした。
独演会の各演目のまくらがどんどん長くなる。まくらとは枕言葉に通じる呼称で、いわば噺本体が布団、前置が枕という関係にあります。泥棒の噺には泥棒の小咄がまくらとして付く、というのがオーソドックス。
ところが、小三治枕は時には演目布団より長く大きくなってきたのです。地方での独演会では予告演目がない気安さからか、一高座まるまるフリートークのような場合も多くなってきた――というわけで鈴本の独演会でも、ついに「何をおはなししませ(・)うか」で一高座、しかも50分ばかりの長談義という日がやってきたのでした。
「何をおはなし……」でもいいけれど、それが始終となると、ことばとして少し締まりがない。
「林家はいつ頃から『随談』と云っていたんだろうねえ」
小三治さんから問わず語りのように尋ねられたことを記憶しています。
八代目林家正蔵(彦六)が晩年、自分の会でしきりに想い出話、よもやま話を演じ、長老の随談と称して珍重されていたことが念頭にあったのでしょう。随談とはむろん、話して聞かせる随想・随筆の意味で、おそらく正蔵師匠の簡単な造語と思われます。
「随談」は当たらずといえど遠からずの表題ですが、正蔵師匠が古老、超大先達の自覚と自負の下に、解脱の衒いでしゃべっているのに対して、小三治さんは自分の主張や私見を気の向くままに語り込み、それが卑近な話題に終始もすれば世界観の域に迫ることもある、という知的ゲーム性さえ帯びたもの。
小三治枕は林家の師匠の「随談」を横目に見ながら似て非なる、いや、行き着いたところは似てもいない宇宙を画して行きました。
小三治さんの長くて型破りのまくらが評判になり出したのは、西暦ならば80年代の後半から90年代初めにかけてのことだったでしょう。小三治さんが50歳前後の時期で、その時分は上野・鈴本演芸場での定例独演会を年間5回もこなしていたのでした。
独演会の各演目のまくらがどんどん長くなる。まくらとは枕言葉に通じる呼称で、いわば噺本体が布団、前置が枕という関係にあります。泥棒の噺には泥棒の小咄がまくらとして付く、というのがオーソドックス。
ところが、小三治枕は時には演目布団より長く大きくなってきたのです。地方での独演会では予告演目がない気安さからか、一高座まるまるフリートークのような場合も多くなってきた――というわけで鈴本の独演会でも、ついに「何をおはなししませ(・)うか」で一高座、しかも50分ばかりの長談義という日がやってきたのでした。
「何をおはなし……」でもいいけれど、それが始終となると、ことばとして少し締まりがない。
「林家はいつ頃から『随談』と云っていたんだろうねえ」
小三治さんから問わず語りのように尋ねられたことを記憶しています。
八代目林家正蔵(彦六)が晩年、自分の会でしきりに想い出話、よもやま話を演じ、長老の随談と称して珍重されていたことが念頭にあったのでしょう。随談とはむろん、話して聞かせる随想・随筆の意味で、おそらく正蔵師匠の簡単な造語と思われます。
「随談」は当たらずといえど遠からずの表題ですが、正蔵師匠が古老、超大先達の自覚と自負の下に、解脱の衒いでしゃべっているのに対して、小三治さんは自分の主張や私見を気の向くままに語り込み、それが卑近な話題に終始もすれば世界観の域に迫ることもある、という知的ゲーム性さえ帯びたもの。
小三治枕は林家の師匠の「随談」を横目に見ながら似て非なる、いや、行き着いたところは似てもいない宇宙を画して行きました。