落語 みちの駅
第二十二回 名人文楽最期の日付け
前回、昭和の大名人・八代目桂文楽の忌日・12月12日に因むことを記しました。今回は書きながら思いだしたことを述べましょう。
文楽さんが息を引き取ったのは12月12日と記録されていますが、公私にわたって文楽さんに尽くし、またラジオ東京(TBS)の剛腕プロデューサーとしてメディア落語初代の覇者となった出口一雄さんは生涯、「12月11日」と言い続けていました。
名人の死に何かミステリーがあったというわけではありません。出口さんも“公式”には12日を否定してはいませんでしたが、彼の思いの中ではどうしても11日に、前倒しになってしまうということなのです。
こんなことがよくあります。2011年3月11日の昼、私はTBSの担当者たちとDVD「落語研究会・8代目林家正蔵全集」の完成を正蔵師匠の墓前で報告し、長女・藤澤多加子さんをまじえて食事をしました。会話は前日の3月10日にあった、かの東京大空襲に及びましたが、空襲を実体験している藤澤さんはしきりに“3月9日の空襲”と言われる。これは勘違いではなく、9日夜半過ぎに始まった敵襲が「9日の夜」を修羅場にした、と脳裏に刻印されているのでしょう。その大空襲で焼け出された私の父母も祖父母も「3月9日の空襲」と言い続けていました。
文楽さんの体調の崩れを前々からよく知る立場にあった出口さんは1971年12月11日の夜に駿河台の日大病院に駆けつけて、まだ意識がはっきりしていた文楽さんの枕辺を動くことなく翌朝の臨終に立ち会ったのです。駆けつけた11日の深夜から何時間か出口一雄の心の時計は停止していたのです。
今の人はね、と年が明ければ13回忌を迎える10代目桂文治さんはマクラでこんなことを言っていました。「除夜の鐘聴くってぇとあけましておめでとうなんて言ってるけど、初日の出までは大晦日なんだ」。落語は、科学的認識とは無縁だった時代が生んだ文化なのです――。
藤澤多加子さんと大空襲の話をして別れてから1時間ほどして東京の大地は大きく揺れました。東日本大震災は真っ昼間の天変地異でしたから、語り草の日付が揺らぐことはないでしょう。
文楽さんが息を引き取ったのは12月12日と記録されていますが、公私にわたって文楽さんに尽くし、またラジオ東京(TBS)の剛腕プロデューサーとしてメディア落語初代の覇者となった出口一雄さんは生涯、「12月11日」と言い続けていました。
名人の死に何かミステリーがあったというわけではありません。出口さんも“公式”には12日を否定してはいませんでしたが、彼の思いの中ではどうしても11日に、前倒しになってしまうということなのです。
こんなことがよくあります。2011年3月11日の昼、私はTBSの担当者たちとDVD「落語研究会・8代目林家正蔵全集」の完成を正蔵師匠の墓前で報告し、長女・藤澤多加子さんをまじえて食事をしました。会話は前日の3月10日にあった、かの東京大空襲に及びましたが、空襲を実体験している藤澤さんはしきりに“3月9日の空襲”と言われる。これは勘違いではなく、9日夜半過ぎに始まった敵襲が「9日の夜」を修羅場にした、と脳裏に刻印されているのでしょう。その大空襲で焼け出された私の父母も祖父母も「3月9日の空襲」と言い続けていました。
文楽さんの体調の崩れを前々からよく知る立場にあった出口さんは1971年12月11日の夜に駿河台の日大病院に駆けつけて、まだ意識がはっきりしていた文楽さんの枕辺を動くことなく翌朝の臨終に立ち会ったのです。駆けつけた11日の深夜から何時間か出口一雄の心の時計は停止していたのです。
今の人はね、と年が明ければ13回忌を迎える10代目桂文治さんはマクラでこんなことを言っていました。「除夜の鐘聴くってぇとあけましておめでとうなんて言ってるけど、初日の出までは大晦日なんだ」。落語は、科学的認識とは無縁だった時代が生んだ文化なのです――。
藤澤多加子さんと大空襲の話をして別れてから1時間ほどして東京の大地は大きく揺れました。東日本大震災は真っ昼間の天変地異でしたから、語り草の日付が揺らぐことはないでしょう。