落語 みちの駅
第十三回 追憶の東宝名人会
来年春にCDアルバムセット「志ん朝 東宝」をリリースすると予告したが、その音源の場となった「東宝名人会」は今や限りなく懐かしい“大吟醸”の寄席だった――とつくづく思う。
発足は昭和一ケタの頃で当初は売れっ子の大物落語家、たとえば三代目三遊亭金馬あたりを専属出演者にし、邦楽や舞踊の名人たちもまじる特別なステイタスのある会だった。都々逸漫談で一世を風靡した初代柳家三亀松も東宝名人会の“顔”だった。
敗戦後はGHQ司令部に近接の興行施設だったためか、東宝系の劇場スペースは接収されて思うように使えず、東宝名人会が本格的に再始動したのは戦後十年を過ぎて旧・東京宝塚劇場が東宝に返還されたあと。そこの4階だったか5階だったか、寄席には手頃なスペースがあって、東宝演芸場として東宝名人会の場になり、一般の寄席同様に10日ごとにチームが交替する定席公演が始まった。
もう専属制はとらなかったが、落語協会、(落語)芸術協会の枠を超え、フリーの色物も組み込むプロデュース公演を基本とし、番数を減らし、各演者の持ち時間を長めにしていた。ホール落語と寄席の中間の線というところだろう。
話題作の芝居やミュージカル、映画のロードショーが集客を競う有楽町・日比谷に寄席の看板が健在だったのが嬉しい。
名人会復活の年から私はここの落語や演芸を楽しんだ。扇子を半開きにしたような客席スペースと中央が少しまるくせり出した高座のかたちが思い出される。
この演芸場は四半世紀も続いたろうか。やがて名人会の場は向かいの劇場・芸術座に移って芝居の合い間に年数回の公演となり、芸術座の建物とともに名人会も姿を消した。
志ん生が遅刻して急遽圓生が高座に上がったことがあった。志ん朝が先代助六を座頭に「住吉踊り」を始めたのも東宝名人会だった。楽屋に圓生を訪ねたとき、今輔、米丸、コロムビア・トップ……呉越同舟の光景を見たことも忘れられない。
発足は昭和一ケタの頃で当初は売れっ子の大物落語家、たとえば三代目三遊亭金馬あたりを専属出演者にし、邦楽や舞踊の名人たちもまじる特別なステイタスのある会だった。都々逸漫談で一世を風靡した初代柳家三亀松も東宝名人会の“顔”だった。
敗戦後はGHQ司令部に近接の興行施設だったためか、東宝系の劇場スペースは接収されて思うように使えず、東宝名人会が本格的に再始動したのは戦後十年を過ぎて旧・東京宝塚劇場が東宝に返還されたあと。そこの4階だったか5階だったか、寄席には手頃なスペースがあって、東宝演芸場として東宝名人会の場になり、一般の寄席同様に10日ごとにチームが交替する定席公演が始まった。
もう専属制はとらなかったが、落語協会、(落語)芸術協会の枠を超え、フリーの色物も組み込むプロデュース公演を基本とし、番数を減らし、各演者の持ち時間を長めにしていた。ホール落語と寄席の中間の線というところだろう。
話題作の芝居やミュージカル、映画のロードショーが集客を競う有楽町・日比谷に寄席の看板が健在だったのが嬉しい。
名人会復活の年から私はここの落語や演芸を楽しんだ。扇子を半開きにしたような客席スペースと中央が少しまるくせり出した高座のかたちが思い出される。
この演芸場は四半世紀も続いたろうか。やがて名人会の場は向かいの劇場・芸術座に移って芝居の合い間に年数回の公演となり、芸術座の建物とともに名人会も姿を消した。
志ん生が遅刻して急遽圓生が高座に上がったことがあった。志ん朝が先代助六を座頭に「住吉踊り」を始めたのも東宝名人会だった。楽屋に圓生を訪ねたとき、今輔、米丸、コロムビア・トップ……呉越同舟の光景を見たことも忘れられない。