落語 みちの駅
第一回 懐かしい噺家・入船亭扇橋
七月十日に九代目入船亭扇橋さんが亡くなった。十四日の通夜にうかがう。たっぷり一時間の儀式は万事にトンヤリの近頃には珍しい。真言宗とみえて「おんだぼきゃあべえ」。「小言幸兵衛」が多くの参列者の頭を横切ったことだろう。
帰って扇橋さんの履歴を再見した。一九五七年に落語家になったとは、一九三一年生まれの人として少しばかり遅めだが、これは浪曲師を志した過去があったためだ。
一九五七年なら扇橋さんの最初の師匠・三代目桂三木助の全盛期――、あっという間に断ち切られてしまった全盛期だ。三木助追っかけ少年だった私は、扇橋さんと同じ時期に三木助体験をしていたとも言える。
ひとことで言えば、扇橋さんは懐かしい噺家だった。他界したからそう思うというより、元気に活躍された時分から、芸といい人柄といい、懐かしい風情にあふれていて、落語のふるさとを感じさせる師匠だった。それかあらぬか、「魂の入替」のようなネタは扇橋さんの風味があってこそ聴ける噺になっていた。
三木助の簡潔で淡彩叙述法が扇橋さんの芸の核心にあった。そこに第二の師・五代目柳家小さんの鷹揚で懐の深い気風が加わり、もうひとつの本職だった俳句の味がにじみ出て、扇橋独自のペーソスが生まれたように思う。
もっとアピールを狙ってもいいのにと思ったこともあったが、それは無いものねだりというものだろう。「ねずみ」「加賀の千代」「三井の大黒」などが懐かしい。
「茄子娘」で“女犯”をニョハンと発音していたので東宝名人会(芸術座)の舞台裏で「ニョボンですよ」と耳打ちしたら、その晩帰宅してさっそく調べたようで、翌朝に礼の電話をいただいた。
それからしばらくして寄席の近くの喫茶店である人と打ち合わせをしていたら、帰り足の扇橋さんに声をかけられた。扇橋さんは店の奥にいたので当方は気がつかなかったのだ。
挨拶だけして扇橋さんは出て行った。こちらも用件が済んでレジに行くと、お代は扇橋師匠からいただきましたと言われた。ニョボンの礼かは知らないが、そんな気配りがいやみにならない人でもあった。
帰って扇橋さんの履歴を再見した。一九五七年に落語家になったとは、一九三一年生まれの人として少しばかり遅めだが、これは浪曲師を志した過去があったためだ。
一九五七年なら扇橋さんの最初の師匠・三代目桂三木助の全盛期――、あっという間に断ち切られてしまった全盛期だ。三木助追っかけ少年だった私は、扇橋さんと同じ時期に三木助体験をしていたとも言える。
ひとことで言えば、扇橋さんは懐かしい噺家だった。他界したからそう思うというより、元気に活躍された時分から、芸といい人柄といい、懐かしい風情にあふれていて、落語のふるさとを感じさせる師匠だった。それかあらぬか、「魂の入替」のようなネタは扇橋さんの風味があってこそ聴ける噺になっていた。
三木助の簡潔で淡彩叙述法が扇橋さんの芸の核心にあった。そこに第二の師・五代目柳家小さんの鷹揚で懐の深い気風が加わり、もうひとつの本職だった俳句の味がにじみ出て、扇橋独自のペーソスが生まれたように思う。
もっとアピールを狙ってもいいのにと思ったこともあったが、それは無いものねだりというものだろう。「ねずみ」「加賀の千代」「三井の大黒」などが懐かしい。
「茄子娘」で“女犯”をニョハンと発音していたので東宝名人会(芸術座)の舞台裏で「ニョボンですよ」と耳打ちしたら、その晩帰宅してさっそく調べたようで、翌朝に礼の電話をいただいた。
それからしばらくして寄席の近くの喫茶店である人と打ち合わせをしていたら、帰り足の扇橋さんに声をかけられた。扇橋さんは店の奥にいたので当方は気がつかなかったのだ。
挨拶だけして扇橋さんは出て行った。こちらも用件が済んでレジに行くと、お代は扇橋師匠からいただきましたと言われた。ニョボンの礼かは知らないが、そんな気配りがいやみにならない人でもあった。