京須偕充氏 特別寄稿
「十月一日、志ん朝十三回忌に寄せて」
今週の『木戸をくぐれば』は、京須偕充氏による書き下ろし特別寄稿をいただきました。
古い劇場あるいは古式を重んじる劇場や寄席の楽屋周辺にはよく神棚が設けられている。視線よりは高い位置にあるので多少の意識がないと見過ごしがちだ。
昔は商店の帳場などの奥のほうにも必ずと言っていいほど神棚があった。朝夕、その前で柏手を打ち、商売の繁昌と無事を祈る。それが日本人の暮らしの、ごく当たり前の光景だった。
昭和も後半に入ると商店から神棚は消えた。劇場にはまだある。興行の無事と成功のために一度設けた神棚を取り払うようなことはしない。だがそれは、客の目に触れるところにはない。楽屋を訪れる人は少なくはないが、神棚はあくまでも出演者や裏方など、舞台にかかわる人々にとっての心の拠り所だ。
古今亭志ん朝の楽屋入り。志ん朝は真っ先に神棚に歩み寄り、立ち止まって柏手を打って一礼をする。深く長いお辞儀ではない。あのきっぱりと清々しい語り口のままに、すぐに歩んで楽屋の奥へ、あるいは自分用の個室へと進む。帰りも同様。柏手を打ち、頭を下げて立ち去る。
こんなことを書くのは、まだまだあちこちの楽屋に神棚はあっても、そこに詣でる芸人の姿がまれなものになったからだ。楽屋の神棚に手を合わせる場面を他の落語家で見なかったわけではないが、瞼に残るのは志ん朝だけだ。それほど志ん朝は必ず神棚に詣でていたのでもあり、またその出処進退が水際立って鮮やかだったということでもある。
高座に上がる直前、志ん朝は閉じた扇子を筆のようにして掌に何かを書き、その掌を口元に運ぶ。ただそれだけで大きな動きではないから見逃すこともあるが、これも必ずと言ってよい行動だった。
「人」の字を書いて呑み込んでいたのだ。高座で失敗しないよう、客を失望させないよう、願いを込めた、軽やかな祈りの行動だった。これは今も弟子や後輩の何人かが受け継いでいる。
怪談噺は志ん朝の本領ではなかったが、その種の噺のまくらで、劇場に残る人の「気」について語ったことが何度かある。
客がいなくなった空っぽの客席を舞台側から眺めると、そこはただ座席が並んでいる場ではない。さっきまでワクワクしたりハラハラしたり、泣いたり笑ったりしていた客の気が漂っていて、どこか不気味――。そんなことを言っていた。
志ん朝が必ず神棚に手を合わせ、柏手を打ったのには、明治なかばに生まれた昔の芸人・五代目古今亭志ん生の子として生まれた者の身についた習慣でもあったろう。人の字を呑むのも、古今亭志ん朝というまれな環境に育った落語家がいてこそ、平成の世にまで伝わった昔の芸人のたたずまいだ。
それを迷信だとか型にはまった習慣だとかで済ませてしまうと、若い頃にアルファロメオのスポーツカーを乗り回し、タレント活動で飛び回っていた志ん朝との、陳腐な言い方だが、整合性がとれなくなる。
迷信や習慣の要素もないわけではないが、空っぽの客席に人の気を感じて小さく震えた志ん朝はおそらく、どこかに芸の神様はいると思っていたのではないか。どこかに、いやどこにでもいる。客席の人々が自分に期待し感動したり、ときには少し失望したりする、その総意が志ん朝にとっての神様だったのではないか。凡庸な人はそんなものを感じない。
口にはしなくても、志ん朝には自負も誇りも人一倍あった。同時に、見えぬ何かへの畏れがいつもあった。その両極の激しい作用が、古今亭志ん朝の稀有の芸と魅力の源泉だったろう。
古い劇場あるいは古式を重んじる劇場や寄席の楽屋周辺にはよく神棚が設けられている。視線よりは高い位置にあるので多少の意識がないと見過ごしがちだ。
昔は商店の帳場などの奥のほうにも必ずと言っていいほど神棚があった。朝夕、その前で柏手を打ち、商売の繁昌と無事を祈る。それが日本人の暮らしの、ごく当たり前の光景だった。
昭和も後半に入ると商店から神棚は消えた。劇場にはまだある。興行の無事と成功のために一度設けた神棚を取り払うようなことはしない。だがそれは、客の目に触れるところにはない。楽屋を訪れる人は少なくはないが、神棚はあくまでも出演者や裏方など、舞台にかかわる人々にとっての心の拠り所だ。
古今亭志ん朝の楽屋入り。志ん朝は真っ先に神棚に歩み寄り、立ち止まって柏手を打って一礼をする。深く長いお辞儀ではない。あのきっぱりと清々しい語り口のままに、すぐに歩んで楽屋の奥へ、あるいは自分用の個室へと進む。帰りも同様。柏手を打ち、頭を下げて立ち去る。
こんなことを書くのは、まだまだあちこちの楽屋に神棚はあっても、そこに詣でる芸人の姿がまれなものになったからだ。楽屋の神棚に手を合わせる場面を他の落語家で見なかったわけではないが、瞼に残るのは志ん朝だけだ。それほど志ん朝は必ず神棚に詣でていたのでもあり、またその出処進退が水際立って鮮やかだったということでもある。
高座に上がる直前、志ん朝は閉じた扇子を筆のようにして掌に何かを書き、その掌を口元に運ぶ。ただそれだけで大きな動きではないから見逃すこともあるが、これも必ずと言ってよい行動だった。
「人」の字を書いて呑み込んでいたのだ。高座で失敗しないよう、客を失望させないよう、願いを込めた、軽やかな祈りの行動だった。これは今も弟子や後輩の何人かが受け継いでいる。
怪談噺は志ん朝の本領ではなかったが、その種の噺のまくらで、劇場に残る人の「気」について語ったことが何度かある。
客がいなくなった空っぽの客席を舞台側から眺めると、そこはただ座席が並んでいる場ではない。さっきまでワクワクしたりハラハラしたり、泣いたり笑ったりしていた客の気が漂っていて、どこか不気味――。そんなことを言っていた。
志ん朝が必ず神棚に手を合わせ、柏手を打ったのには、明治なかばに生まれた昔の芸人・五代目古今亭志ん生の子として生まれた者の身についた習慣でもあったろう。人の字を呑むのも、古今亭志ん朝というまれな環境に育った落語家がいてこそ、平成の世にまで伝わった昔の芸人のたたずまいだ。
それを迷信だとか型にはまった習慣だとかで済ませてしまうと、若い頃にアルファロメオのスポーツカーを乗り回し、タレント活動で飛び回っていた志ん朝との、陳腐な言い方だが、整合性がとれなくなる。
迷信や習慣の要素もないわけではないが、空っぽの客席に人の気を感じて小さく震えた志ん朝はおそらく、どこかに芸の神様はいると思っていたのではないか。どこかに、いやどこにでもいる。客席の人々が自分に期待し感動したり、ときには少し失望したりする、その総意が志ん朝にとっての神様だったのではないか。凡庸な人はそんなものを感じない。
口にはしなくても、志ん朝には自負も誇りも人一倍あった。同時に、見えぬ何かへの畏れがいつもあった。その両極の激しい作用が、古今亭志ん朝の稀有の芸と魅力の源泉だったろう。