落語 木戸をくぐれば
第84回「五代目今輔の新らしさ」
五代目古今亭今輔は最初の師匠が明治大正期の名人・初代三遊亭圓右だった。その証拠といおうか痕跡というのか、人情噺をふくむいくつかの古典落語を自分の財産として大切にしていたが、生涯にわたって真正面から取り組み、情熱を傾け、またその方向で弟子・後輩を指導したのは新作落語だった。
今輔といえば新作落語。戦後すぐの頃は世相の反映か昔を描いた古典よりは当時の今を描く新作に人気が集まった。今輔も四十代から五十代への働き盛りでラジオからにぎやかに現代的な笑いを振りまき、とても人気が高かった。
戦後も十年を超えて世の中が落ち着くと再び古典落語が勢いを取り戻したのだが、すでに五代目今輔は盤石の地盤と評価を得ていた。行を共にする後輩にも恵まれ、新作落語の巨匠の地位が揺らぐことはなかった。
その当時権勢をふるった評論家にして作家・安藤鶴夫は新作落語を好まず、多くの場合に辛めの評価で臨んでいたが、〝今輔は古典のことばで新作をやらないから筋が通っている″と評したことがあった。
今輔は認めるが、サラリーマンに「そうするってえと」などと江戸弁で言わせるような言語センスの粗悪な新作落語家は許さないということだ。そういう落語家が実際いたのだから、安藤鶴夫の新作嫌いも決して感情過多の結果ではなかった。
今輔が新作に走ったのは上州訛りが脱けず、江戸前の語り口には難があったからだとされる。それは大きな要因だろうが、もっと深いところで今輔は新しい時代の人だったのではないか。
自分の弟子や後輩に対して今輔はいつも「○○さん」とさん付けで呼びかけ、です・ます調で話をしたという。普通、自分の弟子は呼びつけにし、後輩にも「です・ます」で口は利かない。今輔亡きあとそれに倣う師匠はなく、楽屋の会話は〝古典″一辺倒のままだ。
今輔といえば新作落語。戦後すぐの頃は世相の反映か昔を描いた古典よりは当時の今を描く新作に人気が集まった。今輔も四十代から五十代への働き盛りでラジオからにぎやかに現代的な笑いを振りまき、とても人気が高かった。
戦後も十年を超えて世の中が落ち着くと再び古典落語が勢いを取り戻したのだが、すでに五代目今輔は盤石の地盤と評価を得ていた。行を共にする後輩にも恵まれ、新作落語の巨匠の地位が揺らぐことはなかった。
その当時権勢をふるった評論家にして作家・安藤鶴夫は新作落語を好まず、多くの場合に辛めの評価で臨んでいたが、〝今輔は古典のことばで新作をやらないから筋が通っている″と評したことがあった。
今輔は認めるが、サラリーマンに「そうするってえと」などと江戸弁で言わせるような言語センスの粗悪な新作落語家は許さないということだ。そういう落語家が実際いたのだから、安藤鶴夫の新作嫌いも決して感情過多の結果ではなかった。
今輔が新作に走ったのは上州訛りが脱けず、江戸前の語り口には難があったからだとされる。それは大きな要因だろうが、もっと深いところで今輔は新しい時代の人だったのではないか。
自分の弟子や後輩に対して今輔はいつも「○○さん」とさん付けで呼びかけ、です・ます調で話をしたという。普通、自分の弟子は呼びつけにし、後輩にも「です・ます」で口は利かない。今輔亡きあとそれに倣う師匠はなく、楽屋の会話は〝古典″一辺倒のままだ。