落語 木戸をくぐれば
第81回「下り坂がなかった」
上り坂があれば下り坂がある。その分岐点が頂上だが、そこがはっきり尖っているとは限らない。長い尾根や広い原になっていて見極めにくいことがある。
形あるものでさえそうなのだから、人生の山と谷は見分けにくく、上っているつもりで下っていることもある。まして芸人の上り坂と下り坂を客席から見極めるのは並大抵のことではない。
六代目三遊亭圓生の芸人生にとって、坂の上り口はずいぶん遠くにあった。旧・満州から帰国後、巧くなったと楽屋内で囁かれ始めたのが四十八歳頃。それまではひたすら平原を歩み続けた。歩みをやめてしまおうかと思ったこともあったという。
玄人筋の評価が素人にまで浸透するにはなお時間がかかる。圓生の人気と存在感が安定的に上昇軌道を描くようになったのは五十代前半に達してからだった。
気がついたら頂上に近いところにいた、と自他ともに認めるほどになったのは六十歳の一九六〇(昭和三十五)年あたりだろう。この年から大部の口演速記録「圓生全集」の刊行が始まり、秋には『首提灯』で当時の芸術祭文部大臣賞を受賞した。八代目桂文楽、五代目古今亭志ん生に続くタイトルだった。またこの年の東宝現代劇「がしんたれ」出演以降、役者の副業も加わった。
自伝「寄席育ち」を刊行し、落語協会の会長に就任したのは一九六五(昭和四十)年。この年には驚異的な視聴率をあげたNHKの連続テレビドラマ「おはなはん」にも出演していて、名実ともに頂点に達したのだった。
その五年間に落語界は三代目桂三木助、三遊亭百生、八代目三笑亭可楽、二代目三遊亭円歌、三代目三遊亭金馬を喪失し、志ん生は病に倒れて再起はしたものの舌に少し障害が残った。
その後圓生はさらに十五年近い歳月を過ごしたが、芸風に少し変化はあったものの、ついに下り坂に入ることがないまま七十九歳の誕生日に仕事先で突然人生を了えた。
形あるものでさえそうなのだから、人生の山と谷は見分けにくく、上っているつもりで下っていることもある。まして芸人の上り坂と下り坂を客席から見極めるのは並大抵のことではない。
六代目三遊亭圓生の芸人生にとって、坂の上り口はずいぶん遠くにあった。旧・満州から帰国後、巧くなったと楽屋内で囁かれ始めたのが四十八歳頃。それまではひたすら平原を歩み続けた。歩みをやめてしまおうかと思ったこともあったという。
玄人筋の評価が素人にまで浸透するにはなお時間がかかる。圓生の人気と存在感が安定的に上昇軌道を描くようになったのは五十代前半に達してからだった。
気がついたら頂上に近いところにいた、と自他ともに認めるほどになったのは六十歳の一九六〇(昭和三十五)年あたりだろう。この年から大部の口演速記録「圓生全集」の刊行が始まり、秋には『首提灯』で当時の芸術祭文部大臣賞を受賞した。八代目桂文楽、五代目古今亭志ん生に続くタイトルだった。またこの年の東宝現代劇「がしんたれ」出演以降、役者の副業も加わった。
自伝「寄席育ち」を刊行し、落語協会の会長に就任したのは一九六五(昭和四十)年。この年には驚異的な視聴率をあげたNHKの連続テレビドラマ「おはなはん」にも出演していて、名実ともに頂点に達したのだった。
その五年間に落語界は三代目桂三木助、三遊亭百生、八代目三笑亭可楽、二代目三遊亭円歌、三代目三遊亭金馬を喪失し、志ん生は病に倒れて再起はしたものの舌に少し障害が残った。
その後圓生はさらに十五年近い歳月を過ごしたが、芸風に少し変化はあったものの、ついに下り坂に入ることがないまま七十九歳の誕生日に仕事先で突然人生を了えた。