落語 木戸をくぐれば
第75回「隅田川」
『文七元結』の主人公・左官の長兵衛は吉原をあとにして本所達磨横町の長屋へと帰る。どうしても吾妻(東)橋を渡らなければならない。
そこまでの道程を昔の噺家は韻を踏む調子で美文調に短く言い立てた。芝居でいえば回り舞台で場が替わるところを地の言い立てにし、同時に噺をもっともらしくする手法。
四十代の頃、古今亭志ん朝はそういう納まった語りをすることに照れを感じたのか、ここをサラッとスピーディにこなして、あっという間に吾妻橋に着いていた。それがCDに残っている。
五十代の末に演じた『文七元結』がDVDになっているが、そこで志ん朝は昔ながらの手法にかなり接近して、淡々とした言い回しながら道程を述べている。どちらにも年代なりの志ん朝の真実があるということだろうか。
その道程の地名などを知る人は今は少ないが、吾妻橋は今もあって、浅草に至近でもあるためか知名度はかなり高い。
江戸期の隅田川に架かる橋は、江戸城防衛の見地から今よりずっと少ない。上流の千住大橋を別格とすれば、市中に架かるのは吾妻橋、両国橋、永代橋の三橋で、ずっとのちに新大橋が加わった。あとは橋場の渡し、竹屋の渡し、御厩の渡しなどの渡し舟で両岸を結んでいた。
現代の隅田川は水量は豊かでも流れは穏やかなもの。だが昭和初期に荒川放水路(現在はただ「荒川」と呼ぶ)が完成するまではすべての水が隅田川に流れ込んだので、水流の勢いが強く、所々で小さな渦を巻いていたという。落ちれば多少泳ぎの心得があっても命は危ない。
そう思うと、『巌流(岸流)島』の騒動劇や『船徳』の新米船頭の苦労に実感が加わって、落語がいっそう楽しくなる。
そこまでの道程を昔の噺家は韻を踏む調子で美文調に短く言い立てた。芝居でいえば回り舞台で場が替わるところを地の言い立てにし、同時に噺をもっともらしくする手法。
四十代の頃、古今亭志ん朝はそういう納まった語りをすることに照れを感じたのか、ここをサラッとスピーディにこなして、あっという間に吾妻橋に着いていた。それがCDに残っている。
五十代の末に演じた『文七元結』がDVDになっているが、そこで志ん朝は昔ながらの手法にかなり接近して、淡々とした言い回しながら道程を述べている。どちらにも年代なりの志ん朝の真実があるということだろうか。
その道程の地名などを知る人は今は少ないが、吾妻橋は今もあって、浅草に至近でもあるためか知名度はかなり高い。
江戸期の隅田川に架かる橋は、江戸城防衛の見地から今よりずっと少ない。上流の千住大橋を別格とすれば、市中に架かるのは吾妻橋、両国橋、永代橋の三橋で、ずっとのちに新大橋が加わった。あとは橋場の渡し、竹屋の渡し、御厩の渡しなどの渡し舟で両岸を結んでいた。
現代の隅田川は水量は豊かでも流れは穏やかなもの。だが昭和初期に荒川放水路(現在はただ「荒川」と呼ぶ)が完成するまではすべての水が隅田川に流れ込んだので、水流の勢いが強く、所々で小さな渦を巻いていたという。落ちれば多少泳ぎの心得があっても命は危ない。
そう思うと、『巌流(岸流)島』の騒動劇や『船徳』の新米船頭の苦労に実感が加わって、落語がいっそう楽しくなる。