落語 木戸をくぐれば
第73回「落語と季節・風物」
落語には季節ものと、オールシーズンものとがある。『薮入り』と『厄払い』はいわば〝季節商品〟だ。題名になっている行事や風物に明らかな季節性があるからだ。
ただし行事、風物は天然自然そのものではない。人間がかかわって初めて生まれるものだ。人為性が強いが、それでも長年にわたって定着すれば、天然や自然に準ずる作用を人の心に生む。
「この祭が終わるとこの地方にも秋が訪れます」というローカル・ニュースのコメントは今時としては非科学的きわまるが、時候の挨拶程度の意味はある。
薮入りは一月と七月にそれぞれ一日ずつあるから2シーズンものといっていいだろう。柳家小三治の子どもは「めっきりお寒くなりました」と言うが、「だいぶお暑くなりました」なら夏用になる。余計なことだが、めっきりは暑さにはしっくりこない。
厄払いは旧暦時代の節分・立春――正月の行事だから1シーズンに限定される。
だが、旧暦も厄払いも遠い遠い昔のことになった。風物誌とは、たとえ細々とでも只今もあってこそのもの。なくなってしまえばただの言い伝え。
薮入りもとうに有名無実化し、今では無名無実に近い。週休二日時代にとっては年休二日時代のことなど文献的知識の値打ちさえ疑われる。
だからといってこの二つの噺が今日性を失った――、と判断するのは早計だ。落語の基本をしっかり踏まえながらも発想の自由な柳家小三治は、ずっと以前からシーズンなどにこだわらず、自分がやりたいときにやりたい噺をやってきた。
落語は季節を語るためにあるのではない。人の心と人の世をおもしろく描くものだ。滅多に会えない制約があるゆえに濃くなる親子の情が映し出せれば、薮入りの旧習はその使命を果たす。
与太郎にも出来そうなおめでたい仕事をやらせてみたら、もっとおめでたい結果になった――、となれば厄払いが打ってつけの仕事なのかもしれないが、これは与太郎でなくても、なかなかむずかしい。
ただし行事、風物は天然自然そのものではない。人間がかかわって初めて生まれるものだ。人為性が強いが、それでも長年にわたって定着すれば、天然や自然に準ずる作用を人の心に生む。
「この祭が終わるとこの地方にも秋が訪れます」というローカル・ニュースのコメントは今時としては非科学的きわまるが、時候の挨拶程度の意味はある。
薮入りは一月と七月にそれぞれ一日ずつあるから2シーズンものといっていいだろう。柳家小三治の子どもは「めっきりお寒くなりました」と言うが、「だいぶお暑くなりました」なら夏用になる。余計なことだが、めっきりは暑さにはしっくりこない。
厄払いは旧暦時代の節分・立春――正月の行事だから1シーズンに限定される。
だが、旧暦も厄払いも遠い遠い昔のことになった。風物誌とは、たとえ細々とでも只今もあってこそのもの。なくなってしまえばただの言い伝え。
薮入りもとうに有名無実化し、今では無名無実に近い。週休二日時代にとっては年休二日時代のことなど文献的知識の値打ちさえ疑われる。
だからといってこの二つの噺が今日性を失った――、と判断するのは早計だ。落語の基本をしっかり踏まえながらも発想の自由な柳家小三治は、ずっと以前からシーズンなどにこだわらず、自分がやりたいときにやりたい噺をやってきた。
落語は季節を語るためにあるのではない。人の心と人の世をおもしろく描くものだ。滅多に会えない制約があるゆえに濃くなる親子の情が映し出せれば、薮入りの旧習はその使命を果たす。
与太郎にも出来そうなおめでたい仕事をやらせてみたら、もっとおめでたい結果になった――、となれば厄払いが打ってつけの仕事なのかもしれないが、これは与太郎でなくても、なかなかむずかしい。