落語 木戸をくぐれば

第71回「地獄極楽と天国」
 仏説では地獄と極楽の対比があって、『御血脈』という噺では、信濃の善光寺の血脈の御印が人々の罪障を消滅させ、ことごとく極楽往生をさせてしまうため、地獄に不況の風が吹き荒ぶ。



 極楽とは「極楽浄土」の思想から生まれたもので、民間に広く信じられるようになったのは密教が盛んだった平安期にさかのぼる。地獄も極楽もその頃から固定したイメージがあったわけではなく、時代によってかなり様変わりしているものと思われる。



 ことばが同じだからといって実体も一つということでないのは、現世の事物にも言えることだから、想像の世界に属す地獄極楽が千変万化であっても不思議はない。



 地獄は昔も今も地獄のままだが、極楽には近世になって天国という別のことば――概念が入り込み、こちらのほうが日増しに優勢になっている。仏式の告別式での弔辞や遺族の挨拶でもほとんど天国を口にする。



「天国の故人もさぞ喜んでいることと」などと言う。「極楽の故人」では生前が道楽者か極楽トンボだったように聞こえる。



 もっとも、「天国」が照れ臭かった昔でも、「極楽の故人が」などとは言わなかった。昔の人は必ず「泉下の故人」あるいは「亡き誰々」と言ったものだ。



 現世の人間が、たとえ願いをこめてであるにせよ、勝手に故人の来世のありかを口にするのはおこがましいことだ。落語を聴けばわかるように、亡者が地獄へ堕ちるか、極楽あるいは天国へ行くかを決めるのは現世の人間ではなく、絶対的な資格と超能力を有するスーパーな「存在」なのだ。



 昔の人がその存在の実在を信じていたわけでもなかろうが、泉下とのみ言って行先を特定しなかった慎ましさが自ずと「浄土」へとつながったのではないか。



 そんな時代に地獄をクールに観光した噺がある。それを演者が現代のセンスで演じれば、世帯じみた一般の噺にはない奇抜なおもしろさを堪能できる。『地獄八景亡者の戯れ』『死ぬなら今』はそんな噺だ。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。