落語 木戸をくぐれば

第69回「東男と京ことば」
 いざとなれば、落語は動物にも口を利かせる。『化物使い』の狸は正体を現したあとでサゲを言う。『権兵衛狸』の狸もサゲのひとことのみ口を利く。『王子の狐』では狐の母子が対話をし、『夏の医者』や『田能久』では大蛇までが口を利く。



 動物どころか、名工・左甚五郎が彫った木製の鼠がサゲをつける『ねずみ』という噺さえある。名人が作り、描いた作品には生命が宿り、生ある物には心があって、ときには何をか言う。それが落語の、いや人間の素朴な〝常識〟なのではないか。



 落語のおもしろさとは、と尋ねられた古今亭志ん朝が「狸がしゃべったりするから」と答えたという話がある。面倒な問いを噺家らしくはぐらかしたのだろうが、そこに落語の本質を見ることも出来る。



 志ん朝は真摯な人で、とかく突き詰めて考えてしまう性向があったが、その正反対な境地――ズボラや遊び、童心、勝手気儘を志向することもまた人一倍だった。狸が乙なことを言う落語を楽しむ思いもあったようだ。



『抜け雀』の雀は絵から抜け出る力を得たが、この噺で人並の口を利くことはなかった。その点は『ねずみ』の鼠とは大違いだ。どちらにしても、そんな非科学的な話があって堪るかと言い出すような人に落語は通じない。擬人化というフィクションの手法があると説得しても無駄だろう。そういう人が突き詰めたり、ズボラになったりすると一辺倒に傾くので危険が生じる。



『茶金』は上方落語『はてなの茶碗』の江戸翻案版だが、噺の性格上、京都という舞台は動かし難い。茶金こと茶屋金兵衛や茶店の親父は京ことばでやるべきだろうか、五代目古今亭志ん生も志ん朝も生半可の京ことばにしてはいない。いわば標準語版と割り切って演じている。



 芸・表現としてはこれでよいのだが、標準語の京都人を演じるのは気がひけるのか、今、この噺の後継者は少ない。人間は動物よりも融通の利かない存在らしい。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。