落語 木戸をくぐれば

第67回「馬生の黒髪」
 五代目古今亭志ん生(一八九〇~一九七三)は八十代初めまで永らえたが、長男の十代目金原亭馬生(一九二八~一九八二)は五十代の前半で、次男の三代目古今亭志ん朝(一九三八~二〇〇一)は六十代の前半で他界してしまった。



 志ん生は光沢のよい頭、馬生は若白髪の師匠。志ん朝は晩年、刈り上げた頭の頂点が少し薄目に見える姿だった。



 志ん朝が馬生のように頭髪を伸ばしていたらどうだったのかは想像するほかはないが、少し薄目になっていたとはいえ、同じ年齢の頃の志ん生のように光る頭になっていたわけではない。



 私は志ん生の六十代初め、つまり志ん朝の最晩年に当たる年齢の高座を見ているが、もう立派に光る頭になっていた。



 その頃の金原亭馬生は髪の毛がたっぷり豊かで、しかも漆黒の艶を放っていた。とても志ん生と親子には思えないほどだった。年齢がちがうからか、それとも親子でも体は別人ということなのか、人間は似ているようで似ていないものだと、私は少年ながらに思ったものだ。



 馬生の物腰柔かな語り口とその豊かな黒髪、そしてのっぺりした血色のよい顔。その複合作用と言おうか、三十代の馬生にはなまめかしいほどの色気が感じられた。それは弟の志ん朝の爽やかな色気とは別種のものだった。



 その馬生をラジオで聴くと――声だけだと、淡々としたいやみのない口調に聴こえる。実演ほどの色気は感じられない。三代目桂三木助の語り口に少し甘味を加えたようで、そのさっぱりした味わいをよしとする人は少なくなかった。



 それがやがて十代目馬生の形容詞のようになった枯淡の味につながっていったように思う。その頃から髪は白さを増した。枯淡は光る頭より白髪に合う。当人もひそかに志ん朝とは対照的な枯淡の境地をめざしていたのではないか。いささか早い枯淡志向と早すぎた死とが無関係だったのかどうか――。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。